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The Alter Story  作者: 水落護
第九章『選び取った未来』

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第六十五話『不吉な味』

 頭の中がひどくぼんやりしている。思考がまとまらないのではなく、情報が飽和しているような。あるいは、濁流で一寸先すら見えないような。


 その脳裏に立ち込める霧を洗うように、ブランクの目からは熱がほろりと、頬から顎へと滑り落ちていく。読み進めれば読み進めるほど、ブランクは涙が止まらない。


「ジャンは……やっぱりめちゃくちゃだ」


 ブランクはははっと乾いた声で笑った。


 コイツはオレが育てる。オレが育てなきゃならねー。


 明くる日、ジャンはダザンに向かってそう言った。

 無理だ、とダザンは一蹴した。歳など十歳そこそこの少年に、子育てなどできるものかと断じた。しかしジャンは聞く耳を持たなかった。


 だから育て方を教えてくれ。生き方を教えてくれ。力の使い方を教えてくれ。あれだけのどうしようもない跳ねっ返りだったジャンが、無理を通して頭を下げにきた。最初こそダメだと頭ごなしに拒絶をしていたダザンであったが、夙夜を問わず頼み込まれ、寝る間もなくなったダザンは、とうとう自分が納得すれば家を出ても良いと、それを条件とした。


 すぐに音を上げるに決まってる。そうたかを括っていたダザンであったが、ジャンは文句のひとつも言わずに乗り越えていった。意外であったのが、サリナの献身である。こと育児に関してはダザンも無知であった。それをサリナがメルの世話の仕方を、ジャンに教えたのである。


(サリナぇは、ちょっと責任も感じちゃったんだろうな)


 彼女も自分のせいでないにしろ、身の回りで人が亡くなった。その少年の傷ついた心に、どこか憐れみを感じたのだろう、とダザンは推測していた。ブランクも概ねその通りだろうと思った。


 ジャンは苦心した。人一倍(にお)いに敏感な彼にとって、おしめを変えるのはかなりの苦行であったはずだった。文句を漏らしたらすぐにダザンはやめさせるつもりだった。それなのにジャンは文句の一つもこぼさなかった。


 用意した食事を顔にかけられても、夜泣きで起こされても。慣れた頃に銀髪の赤子をもう一人拾ってきて、自罰的なまでの献身を見せつけた。


 今の破天荒な姿からは想像もつかないが、そんな苦労を欠片かけらも見せやしなかった兄貴分の気苦労に、ブランクは涙が止まらない。


「カッコ良すぎるよ、ジャン……」


 目からこぼれる熱を拭いながら、ブランクは感動した。


 ブランクは記憶がなかった。気がついた時から八歳だったような感覚だった。きっとそれにもたくさん苦労したのだろう。頭の中でどこか自分は他人だから、という遠慮があった。それにも関わらずジャンはいつだってブランクが道を踏み外そうとした時には、説教臭くとも、しっかり向き合い、叱ってくれるような、そんな甘えられる家族だったんだと。それを教えられたようで。ブランクは、とうとう読み終えた本に、感嘆の息を漏らした。


(ジャン、ウィル……)この異国の地のいずこかで奴隷として虐げられている二人を思うと、こうしてはいられないという気持ちが先んじた。


 次の日記も、鍛治の日誌も、全て読み終えたが、欲しかった手がかりは得られなかった。しかし、今ブランクの中には、何物にも代え難い家族の絆が胸の奥のずっと深くから満たしている。


 必ず救ってみせるから。そう誓いを胸に矯めたブランクは、賢者の書を後にした。


「キミ、やっと出てきてくれたね」


 ボク、もうお腹ぺこぺこで、と続けるクロエに、ブランクは待たせてごめんね、と謝りの言葉を入れる。


「今持ってくるから……」


 そう言い終えて、部屋から出たブランク。愛されていたという多幸感。浮き足立つ歩先は配膳室へ向かうにつれて、少しずつ緩やかになっていった。


 ブランクは不思議に思った。屋敷に人の気配がない。ひとっこ一人見当たらず、まるで今ここで、自分以外が神隠しにでも遭ったかのようであった。


(まだ商隊の買い出しに出てるのかな)


 外では既に空色が茜色に変わり始めており、地平には暗闇が忍び寄っているところも見当たる。まさか厨房にも誰もいないのでは、と思っていたのだが。


「あれ、グエンさん?」「うぉお?!」


 ぐつぐつと煮える鍋と紅蓮をのぞかせる焼き釜。厨房に充満した肉と香草とが熱を帯びてくゆらせる芳しい香り。野菜の旨味の溶け出したスープに溶けて焦がした乾酪かんらくが息をするだけで食欲をそそり、満たしていく。


「いいとこに来たッ、小僧っ、手伝え!!」

「えっ」

「メイドがサボりやがったッ、猫の手も借りてーんだ、つべこべ言わずに手伝え!」


 いつかにエレノアに言われた言葉。働かざるもの食うべからず。自分も食事を取りに来た手前、まさか見てますなど言えるはずもなく。ブランクはグエンの指示通り手洗いをしてから調理補助を務めた。


「チッ、薬味が足んねーか。肉がちょっと黒ずんでやがる。煮込むには時間が足んねーか。……おい小僧、そこの小袋を持ってこい。それからコイツを回すの代われ」

「はい!」


 顎で使われるブランクであったが、今はやり過ごすしかなかった。グエンは小袋から少量の微小な木の実を取り出すと、それを乳鉢の中へカラカラと投げ入れると、ええいムカつくぜッ、と怒り任せにすり潰していった。


「アイツら、仕込みをサボりやがって!!」


 グエンの怒りの矛先がいつこちらへ向くかヒヤヒヤしていたブランクであったが、グエンの怒りは切実なものであった。すり潰した薬味を黒ずんだ肉に振りかけたグエンは肉を叩きながら愚痴をこぼす。


「食材持ったままどこほっつき歩いてやがんだッ、サイっコーにイライラすんぜ!」


 ブランクはこの言葉に引っかかった。荷物を持ったまま歩き回ることなどあるのだろうか。買い出しといえば肉や野菜など鮮度の高いものもあるはずだ。それを仕込みに間に合わないほど歩き回ることなどあるのだろうか。


「ほれ、小僧、皿出せ皿」

「あっ、えっと」

「そこに白い皿があるだろがッ、早くしろっ!」


 考え事をしている間に肉が焼き上がり、グエンはそれを置く皿がないと喚いている。ブランクは取り急ぎ思考をまとめると、グエンの要求通り皿を並べた。


「よーし、助かったぜ小僧。賄い取りに来たんだろ?」


 お前は食いしん坊だからな! とケタケタ笑われると、ブランクは口角を引きつらせた。どうやらまだ盗み食いをしようとしたと思われてるらしい。


「さて、今日は特別な日だからな」


 ほれ、と気風のいい笑顔で突き出された皿には先ほどの黒ずんだ肉が見違えるほど香ばしい香りで焼きあがっている。その切れ端が小皿に乗っている。


「なんだ胡椒は苦手か? 元は賄い用の肉だが味は悪くねーぞ。サボりやがったアイツらの代わりに毒味として食わしてやるってんだ、取っとけよ」

「いや、そういうことじゃなくて」


 グエンがなんだ? と不思議に首を捻る。


「胡椒なら心配いらねーって。当主様は胡椒が苦手だから普段は使わねーんだがよ。サラ様が今回の買い出しの日には、特別な来客があるって言ってたからな」

「……サラが?」


 ブランクは怪訝に眉をひそめた。勘繰り過ぎだろうか。そう思わずにはいられないのだが、胸の内には確かに燻る火種がある。


「アイツらも今日は飯抜きだ、文句は言わせねーぜ」


 さあ、食えよ。とグエンに促され、ブランクは一口肉を含んだ。


「わっ……! すごい味だね」


「だろ!」グエンはガサツに笑う。


 今までに食べたことのない味だった。鮮度の落ちた肉特有の風味はあれど、口の中で香りが爆ぜて、塩味の効いたソースが舌によく馴染んで絡む。グエンの料理の腕前の良さに舌を巻いたブランクであったが、口の中の刺激は、ずっと後を引いて消えなかった。

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