第六十三話『埋もれた真実』
「どっと疲れた……」
再び賢者の書内に戻ったブランクは、先ほどの浴室での一件を省みた。流されるままに清拭をしてしまったが、断れる勇気が自分にあれば、と深く後悔していた。
「もうこりごりだよ、あんな……」
と言いかけて、言葉が反芻される。きめ細やかな白い肌。亜麻色の髪から垂れる雫……ブランクは、顔からボンッと火を噴いた。それからぶんぶん記憶を振り払う。
(何を考えてるんだ僕は! 彼女は、僕を信じて背中を預けてくれたんだぞ!!)
ブランクは、そう思いながら資料をめくる手と、なぞる視線とを早めた。
(そうだ。あの傷もきっと、彼女の心の傷のはずだ。それをああしてためらいもなく見せてくれたということは、きっとそれだけ信じてくれてるということだ。僕はその信頼に応える義務がある)
ブランクはそのために情報を頭に叩き込んでゆく。
……ダザンの日誌曰く、流れ着いた女はマルタというらしかった。見るにどこかの侍女であったらしく、子どもを二人連れていた。
そのうちの一人が恐らくジャンで、もう一人が自分とよく似た特徴を持っている。
当時はまだ王国と帝国との確執もそこまで大きくなく、またよそものか、と村の人たちも深く関わろうとはしなかったらしい。衰弱した流浪人など、どんな伝染病を媒介しているか分かったものでないからだ。
ダザンは飢えた女が子どもたちに食糧を分けてほしいと腹を鳴らしながら言うものだから、手持ちの食材を全て置いて帰ったようだった。ダザンらしい、とブランクは思った。
それから都度都度様子を窺えば、女の容態は快復へと向かっていった。生意気なジャンと、まだ乳飲み子な赤ん坊。どちらも泣くか喚くかで騒がしかったが、取り立ててダザンが手を焼いたのは、やはり聞かん坊なジャンだったようだ。
『おい、ジジイ、オレと勝負しろ』
ジャンならそう言いそうだ。その姿は想像に難くなかった。結局勝負を挑んだジャンに、ダザンはそこいらの棒切れで手合わせをして、完膚なきまでに叩きのめしたらしい。これはいかにもダザンらしい。慢心しないように力の差を見せつけたのだろう。
(この辺りは今もあんまり変わらないな)
そう思いかけて、いやいや、ジャンも丸くなったのだと思わず口がほころぶ。指先を滑る紙面が軽くなったかと思えば、ブランクは途端に読む速度が上がった。
マルタは身なりを整えて、ダザンの家へ厄介になる運びとなっていた。マルタはジャンのような聞かん坊も、よく泣く赤子も、分け隔てなく愛していたと、日記には記されている。
「僕は……ジャンと兄弟なのか?」
マルタの連れ子であるということは、その可能性は大いにある。しかしブランクとジャンはちっとも似ていない。そうなると考えられるのは、どちらかがマルタの子で、もう片方は違うということだ。
「……いや、そう考えるのも軽率か」
父親似、という可能性もある。しかし、仮に兄弟だとすれば、ジャンは亜人だ。そうなると、必然的に自分も亜人ということになる。
「もしかして、僕にも隠された力が……!」
はあ! と壁に拳を突き立てて。ブランクはすぐに後悔をした。
「そんなわけ、ないじゃんね……」
亜人なら並ならぬ力があるはずだが、ブランクはただの人だ。涙目になって地べたを這いつくばり、置いた本へと匍匐姿勢でにじり寄る。
「マルタさんは黒髪って書いてたから……ジャンとも僕とも違うな」
謎が深まるばかりだ。ただ瞳は青く、それはジャンと似ているようだった。
「……マルタさん、か」
しばらく日常的な場面が続いた。マルタの家事能力に舌を巻いたりだとか、ダザンも娘でもできたかのようにマルタに関する記述が増えてきた。
『これからどうするのだ』
そう尋ると、マルタは困ったように笑った。
『分かりません。この子たちが一人立ちできるまでは、ここで過ごしたいと思っています』
ご迷惑ですか、とマルタは問うた。私は「好きにしたら良い」と伝えた。
「……」ブランクはページを飛ばしでめくった。
真実を知りたかった。見てはいけないものを見ているような背徳感があった。しかし見届けなければいけない気がした。このマルタという女性の生涯を。何故今彼女がいないのか。自分は何者なのか。その全てが記されているような気がした。
「次の日記──」
ブランクが本を抜き取ろうとすると、隣の本が引っかかった。あっと言い切るよりも早く、日記は床に落ちた。背中から落ちた本は悲鳴を上げるようにバラバラと音を立てて、ノドの奥まで見開いた。
「……!」
ブランクは息を呑んだ。何事もなかったかのように鍛治の記録が続いてる。今ブランクが手にしている日記か、落ちた日記か。そのどちらかでマルタに関して語るに及ばなくなったか、はたまた立ち去ったか。
このどちらかに真実が隠されてる。ブランクは生唾を飲んだ。
「……まずはこっちから読もう」
ブランクは先に手にしていた本から読むことにした。
こちらには遺跡のことが書いてあり、調査は難航を極めたそうだ。どうにも解決できずに悩んでいたところへ、マルタが差し入れに来た。同時にジャンもやって来て、カンテラを蹴飛ばした。
「うわあ……」
ジャンは今からは想像もつかない悪ガキだったらしい。しかしそれが功を奏したようで。漏れた油に引火した火を土魔術で消火すると、どこからともなく音が聞こえて。それが先へ続く道を示したらしい。ブランクとウィルが共に乗り越えたあの仕掛けだ。
今となっては懐かしさが込み上げてくるが、その日の調査はそこで終了したらしい。奥でどんな危険があるかも分からないからだ。マルタを連れ、ジャンや赤子と共にダザンは一時帰還した。ブランクならば今同様の迅る気持ちに押されて先へ進みそうなものを、ダザンは冷静だと改めて感心した。
その明くる日のこと。ジャンはダザンから先日見た魔術について教わろうとしたらしい。ダザンはこれを忙しいからと断った。それよりも遺跡の調査が先だと判断したようだった。
当然だろう。前人未到の可能性がある遺跡の奥地など、一度踵を返しただけでもよく我慢したものだと涙を飲む人がいてもおかしくない。ダザンはマルタに家の留守を任せて遺跡の調査へ向かった。
「……ふう」
いつの間にか手が汗で湿っている。今の今まで息をするのを忘れていたようで、脳が熱を帯びていて、こめかみが酸素を必死に運んでいるのを感じる。指に挟まれている紙が湿気を吸っていて、この薄い紙がブランクはとても重く感じた。
「よし……」
覚悟を決めてブランクはページをめくった。この先に、自分の力のルーツがあると信じて。
「これは……」
ブランクは頭を抱えた。恐らくダザンもだろう。
結論から言えば、このページには能力そのものについては書かれていなかった。部屋には台座が三つあって、ジャンがそのうちの一つに飛び乗ったそうだ。そうすると玉は消えて、ジャンの中へと吸い込まれたらしい。
「……ウィルと変わんないじゃん」
頼もしかった兄貴分の情けない正体を知ると、ブランクは途端に恥ずかしさに苛まれた。しかしブランクは今の記述で気になる点が一つあった。
「玉が三つ……」
ブランクがウィルと訪れた際にあったのは二つだった。そうすると元々遺跡にあった玉は三つであり、そのうちの一つがジャンのものになったということだ。
「ジャンのルーンはあの遺跡のものだったんだ……」
そう考えると辻褄が合う。ジャンの持つ破壊の左腕は、あまりにも強すぎる。ダザンから聞いた話では呪いなどの概念ですら破壊するというのだ。その強さを忌避されて封印されたというのは、説得力のある話だろう。現にダザンもそれ以降あの遺跡を封鎖したのだから。
「……」
それ以降、ジャンはダザンの元へ通わなくなった。それどころか、ダザンが頼まれていた魔物の対峙を、ことごとく先回りして倒していった。
『どういうつもりだ』
そう問うと、ジャンは言った。
『お前よりオレの方が強い。だから村にはオレたちが住むべきだ』
なんと身勝手な理由だろうか。ジャンらしいといえばジャンらしいのだが、ことこの場面において、ダザンは頭を抱えただろう。
何せ魔物たちは見るも無惨に、ぐちゃぐちゃの肉塊にされていたのだから。ブランクにはこれが破壊の力に起因するものだと分かるが、当時のダザンからしてみれば、年端もいかぬ少年が魔物を完膚なきまでに叩きのめしているのだから、空恐ろしかったことだろう。
『驕りはいつか足元を掬うぞ』
それにも関わらず、こうも強気に出れるのだから、ダザンの胆力はやはり大したものだ、とブランクは舌を巻いた。
それからサリナたち親子がグレフ村へ流れ着いたのは、すぐのことだったようだ。この時にはもうグランヴァレフとヴリテンヘルクはいつ開戦するかという拮抗状態にあり、睨みを利かせてた真っ只中であったから囲いを受けていたようだ。
幼子を連れてのことであったから、ダザンは子たちを人質と称することで、男──つまり、リバルを捕虜として働かせることにしたようだ。
(この辺はダザンは気が利くんだよなあ。すごいよ、僕だったら村の人たちと一緒に憲兵団へ突き出すような気がするな)
そうなると、リバルは死んでいたかもしれない。メルやサリナたちだって、どんな酷い目に遭ったか分からない。
一瞬の判断が人の人生を壊してしまうことがある。これは、今見ている自分も肝に銘じておかねばならないと、ブランクは誰にともなく頷いた。ただ意外だったのが、ここでジャンがダザンに加担したことだ。これにはダザン自身も驚いたと日記には書いてあった。
(そっか。ジャンってこの頃から……)
サリナに一目惚れだったらしい。ジャンにもかわいいところがあるんだ。そう思って次のページをめくった。
「これは……」
瞬間──ブランクの背筋が凍った。文頭が何度も塗りつぶされている。ブランクは、紙の擦れる音が、悲劇の扉を開く音だったと知った。




