第六十二話『心の傷谷』
「なんで……。僕は、拾われたんじゃ……?」
ぐるぐると渦巻く思考に合わせて視界も歪んでいく。ただでさえ眩しい光が、脳へ余計に突き刺さるような気がした。
しかしまだ自分と決まったわけではない。
続きを見れば何か分かるかもしれない。
ブランクは固唾を飲んで、ページをめくった。その一行目に視線を落とした矢先の、次の出来事であった。
「うわっ」
腰元のベルトからガチャガチャと音が鳴る。正確には、ベルトから下がったホルダーからであるが。そこに収められた本が、ひとりでに開こうと躍起になっている。
きっとクロエからだ。
クロエにはもし何かあれば本を開いてすぐ呼んでもらうように言付けてある。それがこうも騒がしいということは、きっと外の世界で何かあったのだろう。そう考えるのが自然だ。
「今、いいところなのに……」
しかし、もしも外で大事があるならば、そうも言ってはいられない。この瞬間にも、サラが帰ってきていて、何か問題を起こしている可能性もある。ブランクは、数秒の葛藤の末に、ため息をつく。そうして手にしていた自分のルーツを、とうとう本棚へと戻した。
「開け、賢者の書」
パラパラと一人でにめくられた本は光を放ち、それに飛び込むと、ブランクは元いた屋根裏部屋へと戻っていた。
周囲には目立った異常などが見当たらず、ブランクは、差し当たってベッドで俯いている黒髪の少女へと視線を向けやる。その少女・クロエは、目の前に現れたブランクなど眼中にない様子で。ブランクは、自分が何故呼ばれたのか不思議に思った。
「どうしたの、クロエ。何かあった?」
はやる気持ちでブランクがそう尋ねると、クロエはもじもじしながら、近くにある陶器の瓶を見つめた。ブランクは綺麗な陶器の表面を、何だろう、ともう一度目を凝らした。尿瓶だ。それが何か、と思いかけて。ブランクは、ハッとクロエへと視線を戻した。
庇護欲をそそる、潤んだ海色の瞳。汗ばんだ褐色の肌と、浅く加速する呼吸。飲んだ唾で鳴る喉。そんなクロエを見て、ブランクはもしかして、と全身総毛立った。
「も……だめ……」
「わぁーっ、クロエ、まってまってッ!」
そうしてブランクが事なきを得ると。クロエは申し訳なさそうに顔を伏せて切り出した。
「ごめんなさい……」
「いやいや、僕も気が利かなかったよ。体が不自由になったんだから、僕も意識してしかるべきだった。ニカからも聞いてたはずのに……」
ごめん、とブランクが謝ると。クロエはぶんぶん首を横に振った。
「ボクって本当にダメだなあ……。みんなに迷惑かけてばっかりだ」
クロエがしょんぼりうなだれてそんなことを言うものだから。ブランクはいても立ってもいられなくて、クロエの小さな手を持ち上げた。ブランクの目とクロエの目が交差した。
「そんなことないよ! 僕はちっとも迷惑だなんて思ってない!!」
ブランクが熱意を持ってそう言うと。クロエは感極まった瞳を揺らしながら、震える唇で「ほんと?」と呟いた。
「もちろんだよ。僕がこの国に来てからどれだけ君に、君たちに助けられたか分からない。僕にできることなら何でも言って!」
「ほんとのほんと?」
任せてよ、とブランクは胸をドンと叩いて構えた。
「じゃあ──エレナおじょーさまの湯浴みも任せていーい?」
「え」
ブランクは、地雷を踏んだような気がした。
いや。え? 今、湯浴みって言った?
ブランクも冒険譚で貴族の家に厄介になったダザンが、湯浴みをしてもらったというのを見たことがある。なので、何をするのかは知っている。ダザンの冒険譚では男同士の、裸の付き合いとして描かれていた。そう、裸の──。
「え? 聞き間違い? 夕闇?」
「湯浴み」
「なーんだ、湯浴みか!」
あっはっはっは、とブランクは豪快に笑った。……さあっと顔が青ざめた。
「湯浴み!?」
「湯浴みだよー?」きょとんと首を傾げるクロエにブランクはいやいやと首を振った。
「湯浴みって湯浴みだよね?」
「湯浴みだよ」
「あの湯浴みだよね?」
「どの湯浴みか分からないけど、湯浴みだよー?」
「あの、熱いお湯を、布で湿らせて、体を拭くっていう、あの?」
「その湯浴みだよー」
クロエが頷くと、ブランクは頭を抱えた。聞き間違いであってほしくてここまで押し問答をしたにも関わらず、それは、信じたくない事実の外堀を埋める虚しい行為となった。
「え、いやいや。僕、男だよ?」
「うん、知ってるよー?」
何を言ってるの、と言いたげなクロエであるが、事の重大さを理解していないようだった。
「あのさ、クロエ。僕は男で、エレノアは女の子だ」
「そうだよ。知らなかったの?」
「そういうことじゃなくて……」
ブランクは何から説明したものか、と痛くなった頭を支える。
「普通、男女が一緒のお風呂に入っちゃいけないんだ。それにエレノアは伯爵で、僕なんかが一緒に入ったら──」
ブランクが言い終えるよりも早く、
「どうして一緒のお風呂に入っちゃいけないの?」
「え」クロエの疑問に、ブランクは固まった。
「ボクは、エレナおじょーさまと一緒に入ってるよ?」
「いや、それはそうだけどさ、仮に何か間違いがあったら……って、いやいや! もちろん僕は何もするつもりはないけどね!?」
ブランクが顔を真っ赤にしながら弁明するも、クロエには水に金槌で。
「間違いってなーに?」
「え」
ブランクは澄んだ瞳でそう返されて、言葉に詰まった。ブランクは、男女に間違いがある、と本で読んだことはあるが──間違いとは何かは知らない。
「……なんだろね。間違いって……」
ブランクは途端に意気消沈した。
「ボクのお願いだから、いや?」
「いやいや、そんなことないって!!」
思わずそう返してから。ブランクは、しまったと思った。
「良かったぁ、エレナおじょーさまのこと、よろしくねー」
「うっ……そうだニカは! 大喜びでやりそうだけど、どうしたの?」
ブランクがそう尋ねると、クロエはしょんぼりして言った。
「あの胸のぺたんこなおねーさんだよね。最初は鼻血を出しながらやるーって言ってたのに、途中で用事があるってどっか行っちゃったんだあ」
「ええ……」
ブランクが渋っていると、クロエは上目遣いで言う。
「ピノちゃんじゃないから、だめ?」
……そう言われると、ブランクも弱い。
「わかったよ」
ブランクは、もう後に引けなくなった。
屋根裏部屋を後にすると、浴室へと向かった。せめてエレノアにも急用があって、いないことを願ってだ。しかし、浴室の前には木桶が置かれていて、リネンの布が用意してある。
(ほんとに、やるのか……?)
他に誰かいないのか、とも思うのだが、屋敷のメイドは今全員出払っている。聞けば商隊が町に訪れているらしく、その買い出しの荷物持ちへ総動員だそうだ。
(商隊が来てるってことは、教会の宣教師も来てる可能性が大きい。ニカはそれを警戒して逃げたんだ)
商隊は神の加護を求めて、宣教師は自身の護衛を求めて行動を共にすることがよくある。ニカも最初こそ役得に目がくらんだのかもしれないが、屋敷の使用人が出払っている理由を知ってトンズラしたのだろう。顔を引きつらせながら尻尾を巻いて逃げる姿は、想像に難くない。ブランクだってそうするだろう。
教会に逆らうとはそれぐらい罪深いのだから。
「あら、ニカ。悪いわね、急に商隊が来たから今日はやめておこうかとも思ったのだけれど、引き受けてくれて本当に助かったわ」
少女は無防備に背中を晒し、あちらを向いている。ブランクはわなないた。見てはいけないものを見ているような背徳感に、ブランクは息を呑み、何も言えなくなっていた。
「ニカ?」
そうすると、エレノアは不思議に首を傾げながら、こちらを見た。ブランクはあっと一歩後ずさるのだが、その程度で隠れることなどできやしない。
「なっ……!!」顔が真っ赤になったエレノアと、同じく顔が真っ赤になったブランクの目線がしっかり交わった。
「何であなたがここに来るのよ!!」
「ぼ、僕だって、クロエに頼まれて、仕方な、く……」
あたふたと言葉を探しながら、弁明を図ろうとするのだが。エレノアの珠の肌を前にして、ブランクの語尾はどんどんすぼんでいく。それを受けたエレノアは、目線を辿ると、慌てて背中を向けた。
「どこ見てるのよッ、ばかっ!!」
「ごご、ご、ごめん!!」
ブランクが慌てて振り返り、出口へ向かおうとすると、エレノアは「あー、もう!!」と苛立ち混じりに言った。
「あんまりジロジロ見ないで。とっとと済ませてちょうだい!」
「えっ」
ブランクが声を固まらせると。エレノアは、赤くなった耳を向けながら言った。
「いいの?」
「クロエからのお願いなのでしょう? 無碍にはできないわよ」
確かにクロエからの頼みではある。しかし、相手は貴族で自分は平民。それも、男と女である。意識するなという方が難しい。後ろ姿だけとっても美しいシルエットが、ブランクをためらわせていた。
「あの子はどうせ気にしてなかったでしょう? わたしたちが気にしても仕方ないわよ、他のメイドたちが帰ってくる前に済ませて」
「……じゃあ、するよ?」
「言い方!」まったく……と、エレノアは深いため息をついた。
「手を出したら、承知しないわよ」
「わかってるよ」ブランクは、そう言いながら布をお湯につけて軽くしぼった。
「背中だけでいいわ。前なんて見たら、すぐ人を呼ぶから」
人が出払っているのに誰を呼ぶというのか。それを思えば、エレノアも緊張していることはすぐに分かった。しかしそれを思えば余計に意識してしまう。
そっぽを向いた彼女の背中を見る。首から覗くうなじ。手にする石鹸よりもなお白い背中。触れれば折れそうなほど細いくびれ。たおやかな腕。背中側からでもよく見えるふくらみ。これに触れても良いのか。僕は今から触れるのか。
そんな疑問を覚えていると、ブランクはふと気がついた。少女の細首から胸元へ向かって、薄茶けた古傷が伸びていることに。
ブランクが言葉を失っていると。エレノアは、ああ、と気がついた。
「ふふ……この傷が気になる?」
「え?」
ブランクの視線をなぞるように、エレノアは肩にある傷を撫でた。
「わたしを慕っている下世話な貴族たちも、この古傷を目にしたらみんな一様にして背中を向けて去るでしょうね。当然よ、貴族の令嬢が疵物だなんて。ほんと、醜いわよね」
エレノアがどこか寂しそうにそんなことを言うものだから。ブランクは、空いて塞がらなかった唇を結び直すと「エレノア」と呼びかけて、両の腕の袖をまくって差し出した。
「ほら、僕の腕。右にも左にも、こんなに大きな古傷がある。君はこれを見て、醜いと思うかい?」
「それは……」
エレノアは言いかけて、言葉を詰まらせた。ブランクは、手にした布が、ひんやりするまで言葉を待った。
「ずるい」
すると。エレノアは、不服に口をむすっと尖らせた。
「そんなこと言われては、わたしは何も言えなくなるじゃない。ずるいわよ、あなた」
「え。そうかな……」
ブランクが困ったように後ろ頭を掻くと。エレノアはクスッと笑みをこぼして、それから背中を向けた。
「そうよ。あなたっていっつもそう」
エレノアはふう、と一息つくと、当惑するブランクをチラッと見た。
「何をしているの? 早く済ませてちょうだい」
「え、あっ、うん」
ブランクは、石鹸入りのお湯に、再びリネンを潜らせた。




