第六十一話『爆ぜる思い』
屋敷の地下はジメジメとしていて、時折落ちる雫の音が妙に後を引く。普段ならお化けが出るかもとドギマギするところであるが、今のブランクの脳裏は別の思考が占領している。
シリルが犯人だって? 黒幕はサラだ。実行犯は別にいたかもしれない。確かにシリルもあの場所にいた。でもそれは──。
思い返せばシリルのブランクを見る目は驚きと困惑の色が濃かった。状況証拠だけで見るならシリルが犯人となりそうだが、ブランクはどうにも腑に落ちなかった。
(そういえば、彼女にまだサラのことを伝えてなかったっけか)
燭台を片手に先行く少女の背中を見下ろしながら、ブランクは薄ぼんやりとそう思った。一度落ち着いたら話そうと決意を固めたが、ひとまずはシリルのことだ。
硬い鉄の扉を開けると、そこにはカビた木棚がいくつか置いてあった。その中の一つには、瓶詰めされた液体がいくつか見受けられた。
「ヴァインセラーだったの。お父様が亡くなってからは、収集もしていないけれど」
「そうなんだ……」
湿り気のある地下室の湿度が、より一層高まったように感じた。心なしか、彼女の足取りもすこしばかり遅くなったような気がした。
それでも少女は足を止めなかった。
「あっ」「……どうしたの?」
「いや、何も……」
そ、と一言。雫がうなじに落ちても、彼女はすこしも驚かない。どれだけ自制ができればこのようになるのか。あるいは気づかないほど何かに没頭しているのだろうか。少なくとも、ブランクにはエレノアが今、何を考えているのかが分からなかった。
「この先よ」「……みたいだね」
もう一つの鉄の扉は少し錆びていて、完全には閉まっていなかった。その隙間から、女のすすり泣くような声が聞こえてきていて。それがシリルの声であることは、ブランクもまだ記憶に新しく、忘れるはずもかかった。
「そういえば、どうして僕とシリルを会わせようと思ったの?」
ブランクが何の気なくそう尋ねると。エレノアはドアノブに伸ばしていた手を引っ込めて、くるりと振り返った。
「理由は……後で話すわ。そう言ったら……わたしを信じてくれる?」
その瞳は、ひどく決意めいていて。しかし、それと同時に、手にする燭台から昇る火先のように、頼りなく揺らめいていた。
「……信じるよ。信じてる、ずっと」
「……そ。ありがと」
エレノアは背中を向けた。ブランクは、心なしか灯りがすこし赤くなったような気がした。何故そう感じたのかは分からない。ただ、エレノアから伸びた火影は、より色が濃くなった。少なくとも、ブランクはそう感じた。
「さあ、着いたわよ」
「うっ……」
寒々しい薄着のまま、いかめつい鉄格子の奥でうずくまる少女は、見るにひどく憔悴していて。シリルは真っ赤に腫らした顔を持ち上げてエレノアの姿を認めると「あっ……」と小さく声を漏らした。
「御当主様、私、誤解でございますっ、孤児の身で雇っていただいた御恩を忘れて仇で返すようなマネ、しません、ぜったいしません、私、無実です、無実なんですっ!」
取り乱して要領を得ない会話など、エレノアは歯牙にもかけなかった。エレノアは視線を交えて頷くと、ブランクに会話をするよう促した。
「シリル」「あなた様は……」
ようやく暗闇にいた自分の姿に気がついたのか、シリルははだけそうになっていた寝巻きを急いで着付け直し、ブランクを正面から見据えた。
「こんなこと、あなた様に言っても信じてもらえないかも知れませんが、私は、無実です。本当なんです!」
「シリル、すこし落ち着いて」ブランクはそう言いながら、自分の胸を軽く二回叩いた。
「一つ、聞きたいことがあるんだ」
「……なんでしょう」
シリルはブランクに言われて落ち着きを取り戻し、手のひらで目元を拭いながら答えた。
「君は、どうしてあの場所にいたの?」
「それは……言えないのです」
それを聞かれた途端、シリルは突然視線を泳がせた。まるで聞かれたくないことでもあるようだ。信じてほしいと言った人間がそれでは、エレノアの判断もケチのつけようがない。だがしかし、ブランクの意見は違った。
「もしかして、誰かにあそこにいるように頼まれた?」
「……」
シリルは口を閉ざした。だんまりを決め込まれては、真実を引き出すことは難しい。
しかし──、それは何も手札がなければの話である。
「もしかして──サラに頼まれた?」
「どうしてそれを……!」
それからすぐに、シリルはあっと口を覆った。カマをかけられたと思ったのだろう。だが、確信のあったブランクは顔色など変えない。やっぱりか、というのが正直なところで。隣で息を呑む声が聞こえたのも気にかかるが、今はシリルが何故サラを庇うのかが気になった。
「どうして彼女を庇うんだい? このままじゃ、君の命が危ういんだよ?」
「だって、そんな……私、サラ様は、きっと後で助けてくださるって……そうおっしゃってましたッ! 嘘をつくのはやめてくださいっ!」
ブランクはエレノアと顔を見合わせた。するとエレノアは残念そうに首を横へ振った。
「君は……たぶん一つ思い違いをしてる」
「……え?」シリルの目が丸くなった。ブランクは続ける。
「君は、サラを庇ってるからここに入れられてるんじゃない。君はエレノア──彼女の暗殺未遂の容疑をかけられて捕まってる」
それを受けて──シリルの瞳孔が揺れた。
「そんな……そんなデタラメ言わないでください! 私、そんなことしません! してないのに捕まるはずがないです! 真犯人は別にいます、私、してません、ぜったいに。サラ様もそうおっしゃってました!」
シリルの涙ながらの訴えに、ブランクは首を横に振った。
「残念ながら、貴族の暗殺なんて、国家叛逆に等しい罪だよ。僕の国でもそうなんだから、きっとこっちでも死罪は免れない。もし家族がいれば、それこそ一族郎党なんて話もある」
「そんな……」
「君は……騙されてるよ」
シリルは、鉄格子を手放して、すとん、と膝をついた。
かけ違えたボタンを確かめるように「そんなの、嘘です……」と小さく呟いた。
「あなた、身請け人がいたでしょう? これは、彼らも危険に晒す行為なのよ」
己の浅はかさを嘆くように泣き崩れたシリルに、エレノアは乞いるように言った。
「過去に……今回と似たような事件があったわ。その時も、あなたと同じような人がいた。結局、わたしは彼女は助けられなかった。わたしは……もう二度とあんな思いはしたくない。シリル。お願いだから、本当のことを話して?」
シリルは……ようやく頷いた。しかしサラの周到さは並大抵ではなく。シリルがあそこにいたのは花の水やりを頼まれたからであり、それは決定的な証拠とはなり得なかった。
サラを庇った理由は、そこまで大きな罪だとは思ってなかったがための、恩師である彼女への義理立てゆえだ。厳格な指導者たるサラが、まさか、自分を売るだなんて思ってもみなかったらしい。
ブランクは、なんて性根の腐ったやつなんだ、と憤った。自分を慕ってくれている人物の善意を盾にして、そのまま身代わりにしようというのだ。それも、ブランクよりも年若い、無垢な少女をだ。許せるはずがなかった。
「ブランク、ちょっと」
拳が鳴ったタイミングで、エレノアが声をかける。鋭い眼差しは急を要することを暗に示して、この場を去ることを提案していた。
「それじゃあ、シリル。まだあなたを自由にするわけにはいかないけれど、必ずあなたの無実を証明してみせるわ」
シリルは、嗚咽の合間に礼を重ねた。その声を背にして、ブランクとエレノアは錆びた扉をくぐり抜ける。
「……ねえ」「……なに?」
「わたし、やっぱりあなたが思うほど素晴らしい人間ではないと思うの」
「……どうしたの、急に」
エレノアが脈絡もなくそう切り出すものだから、ブランクは不思議に思った。振り返ったエレノアは……すこし、怖い顔をしていて。ブランクは、橋の上での出来事を思い出して、思わず息を呑む。
「さっき、今回と似たような事件があったと言ったわよね」
「……うん、言ってたね」
「わたし、助けられなかったって言ってたわよね」
「うん……言ってたね」
二度目の相槌は、すこし慎重に言葉をついた。そうすると、エレノアは言うか言わまいかを躊躇ってから、結んでいた唇をとうとう離した。
「本当は、すこし違うの」
「すこし違う?」
ブランクの言葉にエレノアは俯く。
「あなたは……どうしてサラが怪しいと思ったの?」
「それは──」
ブランクは言葉に詰まった。今はまだ言えない。その時ではない。サラのことを言えば、自分の力を明かすことになる。ブランクの心づもりとしては、もう彼女に力そのものは打ち明かしても良いと気持ちが固まりつつあるのだが、自分でも説明のできない力を、一体どう説明すると言うのか。
何かよく分からないけれど、時間を巻き戻せます、などと言ってしまえば、気でも狂れたかと疑われることは必須だろう。
だから、ブランクは言う。
「理由は……後で話すよ。そう言ったら……君は僕を、信じてくれるかい?」
ブランクがそう言うと、エレノアは面食らったように目を丸くして。それからフッと口だけで笑うと、寂しげに目を伏せて、言った。
「ずるいわね、その言い方」
「……ごめん」
いいわ、と少女は首を振る。そうして緑青色の双眸を薄らと寂しげに細めると、遠く過ぎ去った過去を見つめた。
「過去に同じ事件が起きたの。それが、二年前」
「二年前……」
そして──、と。エレノアは噛みしめた唇を、ため息混じりに離して、言った。
「執事が亡くなったのが、二年前」
「二年前……執事……執事って、まさか──!」
ブランクがたどり着いた答えを、エレノアは聞くまでもなく頷き、肯定した。
「ずっとわたしを……いいえ。ラーゼンヴァルグ家を支えてくれていたアルバートを、愚かにもわたしは失ってしまって。あろうことか、当時のわたしは、教唆された召使いを……」
エレノアはキュッと唇を絞った。緑青色は悔しさに滲んでいた。ブランクはもういいよ、と肩に手を置いた。
「ずっと、後悔してたんだね」
「あの時、執務の仕事を引き継いでくれていたアルバートは、わたしの全てだった。お父様の遺してくださった、全てだったの。でも、わたしは、そんな彼も、守るべき民も、すべて……」
エレノアは泣かないためにか、薄暗い天井を仰いだ。そうしてうっすらと白んだ息を弱々しく吐くと、すこし息を整えて、ブランクと向き直る。
「あなたとシリルを会わせたのは、こんなわたしでは信じてもらえないと思ったから。雇い主なのに、頼りないわね、わたし」
すこし赤らんだまなじりを下げて。エレノアは弱々しくはにかんだ。ブランクはその痛々しい笑顔に、かける言葉を失っていた。
「実は……わたしも、あなたと同意見なの。サラを怪しいと思ったからこそ、わたしはサラを手元に置いて見張ってる。でも、なかなか尻尾を出さなくて。本当にサラじゃなかったのかもと思った矢先に、今回の出来事だから。偶然ではないと思ってるわ」
「そっか……エレノアも気づいてたんだ」
ええ、とエレノアは頷いた。
そうなると、先日あったサラとの確執も合点がいった。あれは腹の探り合いというよりは、表面上は親しい主人と侍女長で、実態はただの冷戦だったのだ。だからこそ空気がピリピリとしていたし、ブランクが余計な首を突っ込まないように、釘を刺してくれていたのだ。
(なんだかんだ、優しいよね、エレノアって)
口当たりの強さは、思い遣りの裏返しなのかもしれない。ブランクがそう思っていると、エレノアは言った。
「サラは今朝からどこかへ出かけたみたい。家政婦長がいるから仕事は回るみたいだけれど、このタイミングで外出するなんて怪しいから、トド爺につけてもらってるの」
「そっか……あっ、そうだ」
ブランクは、先日屋敷の玄関であった出来事を思い出した。
「実はテハスってやつが一枚噛んでるかもしれないんだ。あの人はどういう人なの?」
実際目の当たりにしていてろくでもない人間であることは見て取れるのだが、サラの言葉も忘れられない。警戒をしておきたいので尋ねたのだが、エレノアの顔は渋そうな嫌悪感が一層増していた。
「彼は……求婚されてるの」
「えっ」
ブランクは思わず声を上げた。腹の底から汗が込み上げてきた。突然、足の裏から地面がすっぽ抜けたように、心が浮き足立った。
ブランクは、いやいや、と断りを入れた。
「だって、あの人おじさんだよ? 歳だって、君と二回りも違って見えたけど」
ブランクがそう言うと、エレノアは、貴族の社会では珍しいことではないわ、と切り返す。
「政略結婚なんてよくある話だし、わたしも多方から縁談を持ちかけられているわ」
「そんな……」
ブランクの中に、何とも言い知れない嫌悪感や、彼女に対する形容しがたい忌避感がとめどなく溢れて、どんどんドス黒く煮詰まっていく。この場にいたくない。何も聞きたくない。今すぐ逃げ出したい。目の前が真っ暗になったようだ。
「それで……あの人と結婚するの?」
それなのに。ブランクは聞きたくもない情報を、いの一番に聞き出そうとしていた。脳裏で黒い炎が激るように広がる中、エレノアはまさか、とそれをバッサリ切り捨てた。
「わたしにはお父様の遺したこの土地と、そこに住まう民を守る義務があるのよ? 社交界に出られなくとも、それだけは必ず守ってきたわ。それをあんな、心から尊敬できもしない人にこの土地を任せるだなんて、そんなの絶対に嫌よ。それだけは許せない」
エレノアは顔を曇らせて「それに──」と儚げに続けた。
「これは、わたしがしないといけないことだから……」
「そっか……そっか」
ブランクは、途端に胸の内が安らいだ。先ほどまで肺に真綿でも詰まったようだったのに、今は息の通りがとても良い。胸のつっかえが取れたようで、ブランクの心には、燭台の火が灯ったようだった。
ブランクが密かに胸の内を撫で下ろしていると、エレノアはとにかく、と切り出した。
「サラのことはわたしがなんとかするわ。もし、本当に侯爵家の彼も関わっているのなら、なおのことあなたには荷が重いわよ。もう二度と危ない真似はしないでちょうだい」
「いや、でも僕は君の──」
ブランクがそうやって食い下がろうとすると。エレノアは息のかかるほど近く顔を寄せ、
「わかったわねっ!」
「……はい」有無を言わせぬ圧でブランクを言いくるめた。エレノアはよろしい! とまだ過分に冷めやらぬまま息巻いており、ブランクは肩の狭くなる思いをした。
(ほんと、気が強いんだから……)
一度決めたら梃子でも動かなさそうだ。ブランクが心内でそう苦い顔をしていると。エレノアは、途端にしおらしく表情を崩した。それが、妙にブランクの心を掻き乱した。
「どうしてかしらね」
エレノアは、困ったように笑う。
「昔は、姉妹みたいに良くしてもらったのに。いつからこうなっちゃったのかしら」
サラとの昔のことを思い出しているのだろうか。どこか哀愁の入り混じった思い出話に、ブランクは疎外感にも似た寂しさを感じた。そんなブランクの心中など知る由もなく、エレノアは我が身の両腕を抱いた。
「きっと──それもわたしが至らないせいね。もっとわたしが……お父様のようにしっかりしていれば、きっと──」
「エレノア」声が震えた。
「……どうしたの?」
遠くで水滴の落ちる音が聞こえた気がした。洞窟の湿った空気はずっと重くなるばかりだった。そうだと言うのに、エレノアの乾いた笑みは見るに滑稽で、ブランクは、これ以上は見るに堪えないと思ってしまい、ついには口を挟んでしまった。
「自分がこうだから人が変わったと君はよく言うけれど、それは違う」
何故だろうか。ブランクは、彼女が自分を苦しめる言葉をつくと、悲しいだとか、苦しいだとか、クロエの時とはまた打って変わって、そこに怒りのような、すこし雄々しく爆ぜる、小さな何かを感じていた。
「良くも悪くも、人が変わるのは、その人の本質でしかない。良く変われたならきっとそれは努力の賜物だし、悪く変わってしまったのなら、それはきっとただの堕落だよ」
だからだろう。こうもムカっ腹が立って、ブランクはムキになって言い返してしまいたくなる。
「他の誰がどう思おうと、過去を悔いて君は変わろうと努力を続けている。その努力だけは、僕は立派だと思ってる。そこだけは、絶対に否定しないでほしい」
それは、もはや祈りにも似た願いだった。しかしそれは勢い任せに出た言葉で、ブランクのエゴだった。それに気付いたからか、ブランクはとてもエレノアの顔など見れなくなってしまい、とうとうエレノアの先を行く。
「僕は、今の君しか知らない。だから──僕は、今の君を否定してほしくない」
それだけ言い残すと。あっと後ろ髪引く声を振り切って、ブランクは駆け出していた。
「探し物があるから、先行くよ!」
ごめんと言い残して、ブランクは背を向けたままひた走った。言わなければ良かったという自己嫌悪と、言って良かったと言う自己満足とがせめぎ合い、胸中で激しく渦巻いている。
エレノアの残した灯火を頼りに、ブランクは地下を飛び出した。




