第六十話『桃色の医者』
しばらくして。クロエは泣き疲れて眠ってしまった。それを見届けたブランクは、ハッと背中に走る悪寒を感じた。
「じー」
「うっ……」
しつこく食い下がる視線に、ブランクはようやく向き直り、しぶしぶ顔を合わせた。
「あなた、私を利用しましたね?」
「いや、そんなことは」いいえ、と間髪入れずの否定が入った。
「あなたのあの躊躇いのなさ。あれは戦争で回復魔術をアテにして突撃する兵士か、そうでなければ、命を軽く見てる愚か者しかあり得ません」
「……」不機嫌な眼差しが突き刺さり、ブランクは閉口した。
どちらかと言えば後者であるのだが、自分でも得体の知れない能力のことを明かすことを思えば、治してもらった手前、前者であることもまったく否定できず。
「……ごめん」
ブランクにできることといえば、素直に謝ることだけだった。その誠実さが功を奏してか。ニカは、「まあ別にいーですけど」とそっぽを向いて、その矛先を納めた。
「はい」「うん?」
ブランクの目の前に小さな手が大きく広げられた。ブランクがその手を触ろうとすると、ニカは、
「不届きもの!」
と、ブランクの頭をゲンコツした。
「えっ。えっ? えっ!?」
「すぐに女の子の手を握ろうとするな!! 私が握りたいわ、ドアホ!!」
ええ……と呆れ果てるブランクに、ニカは再び手のひらを前に突き出してくる。
「えっと、これは?」
「お金に決まっているでしょう! 地獄の沙汰も金次第。知りません?」
それではまるでここが地獄みたいじゃないか、とも思うのだが、それがまんざら否定できるわけでもないことに、ブランクはため息をつきながら硬貨袋を取り出した。
「いくらなの?」ちゃり、と音が鳴る。
「五十万ネッカです」「高っ!!」
ブランクの口ががぼんと開いて、それから硬貨袋が床に落ちた。
「何してるんですか?」
「いやいや。ちょっと高すぎない?」
ヴリテンヘルクは物価が高いのか、とも思いながら拾い直すのだが。
「治療費なんて普通そんなものでしょう。教会へのお布施なら百万は積まないと受けてくれませんよ。あんなグズグズの、ボロボロになった毒まみれの人間なんて……門前払いされる可能性だって全然ありますからね?」
「うぐっ」
事あるごとに数千そこそこでダザンに治してもらっていたブランクからすると、治療費など高くとも一万そこそこなのではと高を括っていたのであるが──。
(治療の相場ってそんなするんだ……!)
これはブランクにとって大きな誤算であった。もちろん二度の治療を受ければ割高なのも頷けるのであるが、ブランクは、どんぶり勘定で生き抜けるほど世間が甘くないことを思い知らされた。
「……今は、ちょっと持ち合わせがない」
「ふーん。まあいいですけどねー」
いいのか、と安心していると。ニカはブランクの手をいきなり締め上げた。
「うっ、何を──」
「はーい、動かないでくださいねー」
そう言いながら、ニカは胸元から捺印を取り出すと、その底面を舌で這わせ、それをブランクの右手の甲目がけて押し付けた。
「わっ、ばっちぃ!」
ブランクがそう言い終えるのと同時くらいか。ブランクの頬には平手が飛んできていた。
「いった……なんで!?」
「ばっちぃとか失礼でしょう!」
ブランクが困惑して如何を視線で投げかければ、ニカはブランクの右手を指差した。
「え。何これ」
「払えないのでしょう? その捺印は、どこにいても私の魔力が染み付いて、場所を教えてくれます。この国の商人がよく使う魔術式です」
ほら、とニカは自分の手の甲にある印を見せつけた。
「ちなみに私のはレイスさんから。教会の脱出代は高かったです……」
ほろり、とボロ切れで涙を拭う姿に、ブランクは苦笑を禁じ得なかった。
「レイスも捺印? 舐めたんだ……」
あのスカした態度でそんな俗物的なことをしているのを想像すると、それがとても滑稽で。ブランクがどうにも決まりの悪い姿を姿を想像していると、ニカは「いいえ?」と不思議に小首を傾げた。
「どうして彼がそんなことをするんです?」
「え。だって今、捺印はみんなが舐めてるって──」
ブランクが狼狽えながらそういうと、ニカは一度面食らってから、軽快に笑い飛ばした。
「レイスさんがそんな事するわけないじゃないですかっ、彼は血判でしたよ!」
「ええ……それはそれでやだな」
ああ、おかしい、と腹を抱えて笑いが後を引くニカ。そこまで大げさにケラケラ笑われると恥ずかしさやらで顔が赤らむのだが、今の立場で強気に出ることなどできやしなかった。
「そもそも、なんで君は印鑑なんか舐めたのさ」
ぷいと顔を背けながらそう言うと、ニカは「えっ!」と驚きをあらわにした。
「逆になんであなた如きに流す血があると思うんですかっ。私の血は女の子専用ですよ!」
「いやそうじゃなくて……そもそもなんで血だとか唾液なの?」
ブランクが恥も外聞もなくそう尋ねると。ニカは、まるでかわいそうなものでも見るように、憐憫でまなじりを下げた。
「魔力が体液に宿るなんて常識じゃないですか。魔道具を使っていれば分かるでしょう?」
「え」
ブランクは驚いた。何故なら普段ブランクは、魔道具を使う時にそのような手法を用いたことがないからだ。唾液や血液をわざわざ魔道具につけるなど、ダザンがやっているところすら見たことがない。
「僕、そんな事したことないんだけど」
「またまたぁ。そんなことできるのなんて賢者様くらいですよ? 私ですら──」
ニカは言いかけて言葉を止めた。それから自分の捺印を見つめると、先ほど唾液をつけた部分を拭き取り、神妙な面持ちでそれをブランクの親指に擦りつけた。
「ちょ、何すんのさ!!」
慌てるブランクを組み敷きながら。ニカはそれを自分の手の甲へ押し当てると、ついた印を細い目で見据え、ブランクから離れた。
「発動してる……魔力総量と純度があり得ない。でも確かに……」
ブツブツと独りごちるニカに、ブランクの疑問は深まるばかりだった。やがてなるほど、と一人納得すると、ニカは片腕を組んで、人差し指でこめかみを叩く。
「なるほど、分かりました。あなたの傷が治った理由が」
いきなり一人相撲な論理を展開されて、ブランクは何が何やらである。しかしニカは得意気に続く言葉を放った。
「最初は私の圧倒的な才能の賜物だと思っていたのですが」
自分で言うんだ、とブランクは言えなかった。
「どうやらあなたの魔力は総量も濃度も一級品。非常に、ひじょーっに残念ですけど、それは認めざるを得ません」
「僕って君に何かしたっけ……」
何故ここまで嫌われるのだろうと思っているブランクを一人置き去りに。キラリと光る目で振り返ったニカは「そこで!」と近くにあったカバンから刃物と大量の小瓶を突きつけた。
「さあ、ここからがあなたにオススメな儲け話です!」
「うわっ、何これ」
熱意と本気の目に。ブランクの口角がいよいよ引きつった。
「あなたの血液、売ってみませんか?」
「……ごめん、なんて?」
怪しい売り文句しか聞こえなくて。ブランクは我が耳を疑った。するとニカは失礼、と咳払いを一つ挟み、それから、花咲く笑顔で言った。
「あなたの血液、売ってみませんか?」
「聞き間違いじゃないことあるんだ……」
血を抜かれる前から頭が痛くなったブランクに、ニカがさあさあ、と詰め寄り小瓶を突きつける。
「あなたの持っているその魔力、選ばれし者なんですよ! 巷に溢れてる魔力ポーションは薬草を煮詰めたものや魔物の血液を精製したものを利用されていますがあなたの血液なら、精製しても純度が高いままなんです! さあこの小瓶全部をいっぱいにして売れば、三百万ネッカはくだらないです!」
さあ、さあ! と力説されるものの、ブランクはかねてより抱いていた疑問を口にする。
「この量全部満たしたらさすがに死んじゃうよ……?」
カバンの中にズラリと並ぶ小瓶は数多く、全てを満たせばおよそ貧血などでは済まない。致死量である。ブランクの懸念を受けて。ニカはあっけからんと答えた。
「大丈夫ですよ、治療してあげますからっ。こんな金の成る木、錬金術師だって鉛を捨てて飛びつくはずです!」
「それはもうただの拷問だから!!」
終わりのない苦痛などまっぴらごめんだ。ニカとブランクがぎゃあぎゃあと喚き立てていると、ドアの方から「こほん!」と、わざとらしい咳払いが聞こえて。ブランクとニカがゆっくり振り返ると、この屋敷の主人が扉の前で腕を組みながらつま先で床を叩き、不機嫌に緑青色を細めていた。
「……ここは病室であって。あなた方の逢引部屋ではないのだけれど?」
「エレノア」言い終えるよりも早く。ブランクへ拒絶の手のひらが突き出された。
「不潔さん、わたしの名前を呼ばないでくれる?」
「……」
ひどい冤罪だ。ブランクはそう思いながら、元凶となった人物へ、君のせいだぞと抗議の視線を送らんとする。しかし、その人物の変わりように、ブランクは目が点になった。
「ああん、お姉様……!!」
誰だこいつ、と、ブランクは思った。ニカは目をメロつかせながら、クネクネとした姿勢でエレノアへ擦り寄っていく。
「あなた、確か」「そうです、あなたのニカです!」
「……ニカさん。クロエの容態は?」
「今は眠りましたが、さっきまで起きてましたよ!」
全て食い気味の返事で返されて。エレノアは距離を取るように顔をすこし遠ざける。
「そう。それで?」「はい!」
エレノアの視線がちらとこちらを見遣る。心なしか、ブランクにはその眉根が寄って見えていた。
「彼と何の話を?」「つまらない商談ですよ、彼の治療費の返済方法とその提案です!」
ニカにそう言われて。エレノアは不思議に首を傾げた。
「なぜ? あなた確か、治療費はいらないって──」
エレノアが全てを言い終えるよりも早く。ニカは「ああ!」と明るく膝を打つ。
「それはクロエさんのことですよっ、彼は例外です!」
どういうこと? と視線で助け舟を呼ばれるのだが、そんなことブランクにだって分からない。もはや首を左右に振るしかなく、その答え合わせは当然ニカが行った。
「だってクロエさんは女性で彼は男性です。つまり私の気持ちの問題です!」
「そ、そう」
その答えを聞いたってブランクもエレノアも納得できなかった。ひとまずブランクがこれ以上エレノアに迷惑はかけられないと、ニカの提案を呑もうとした時、
「で。いくらなの?」
「へ?」
有頂天にあったニカの声は、冷や水浴びせられたように高くなり、疑問を頭の上にて並べ立て始めた。
「一応彼は私の使用人なの。治療費は私が支払うわ」
「いやいや、そんな、お姉様から治療費なんて──」
いただきませんよ。と言おうとしたのだろう。しかしエレノアはムッと口を尖らせると、ズイと一歩踏みだして詰め寄った。
「あなた発言に一貫性がないわよ。いると言ったりいらないと言ったり。彼が男の子だから必要だとか、そういう差別主義な発言もよく分からないし。結局のところお金はいるの? いらないの? はっきりしなさいよ!」
「はいぃ、いりますいります!」
その圧に負けてか。ニカはへこへこと姿勢を低くして頷いた。
「いるのね?」
「あ、いや……」「何?」エレノアの視線が鋭く光った。
うー、と低い声で唸るニカ。その顔には様々な葛藤が煮詰められていたものの、頭をポカポカと殴りだし、やがて観念したように消沈すると、小さくぼそりと呟いた。
「いりません……」「……いらないのね?」
今度の確認には、はいと確かに頷いた。
「いらないのね」「いらないです……」
ブランクは、エレノアが怒ると怖いことを思い出した。そこで話に蹴りをつけたのか。エレノアはムスッとしたままクロエのベッドの横にある椅子に腰掛けると「ところで──」と話を切り出した。
「ブランク」
「うん?」
エレノアはすうすうと規則正しい寝息で眠るクロエの頭を撫でながら言った。
「犯人のシリルを捕まえたわ。今は地下牢に閉じ込めてるけど……憲兵に突き出す前に、話をしてみる?」
「犯人の……シリルだって!?」
聞き間違いか。ブランクに衝撃が走った。




