第五十九話『役立たずなんかじゃない』
「クロエ……?」
切り揃えられた髪からむすっと寝癖が飛び出している。その黒髪の下からは、久しく見なかった青月二つ。以前のようにぱっちりした感じではなく、心なしがしばしばとしょぼくれているように見えた。
しかし、それでも確かに目覚めている。褐色の肌は色艶が良く、それが不思議でないことを示唆している。
「ほんとに、クロエなんだね?」
「……そうだよ」
二度の確認に辟易したか。クロエは忌々しそうに頭を抱えて、首を振る。夢現にある彼女の姿に、夢でないかと頬をつねり、ブランクはニカを見た。
「とーぜんです、私ですよ?」
どうだと不敵に笑う少女に、ブランクはとにかく感謝の握手を果たそうと手を伸ばした。
「ちょっと! おさわりはやめてください、死んでしまいます!」
「そこまで……?」
全力の拒絶を受けて、ブランクは当惑を超えてもはやショックが大きかったのだが、苦笑混じりにクロエを見れば、その顔色は、遥か遠くにある空を詰めたような鈍色だった。
「クロエ……?」「……」
完全に身を起こすわけでもなく、どこか無気力な姿にどこか違和感を覚えるのだが、その正体が雲のようにとんと掴めず。ブランクは居ても立っても居られずに、不安を覚えながら執務に励む少女の姿を思い浮かべた。
「あっ! 僕、エレノア呼んでくるよ!」
まあ、ほんの少し? あなたの応急手当てのおかげもありましたが。と得意気に語るニカの傍を通り抜け。ブランクは、部屋の外へ向かった。しかし──、
「やめてよ!!」
ピリッと咆哮が大気を痛めつけると、浮き足立っていた室内はものの見事に静まり返った。
一瞬何が起きたか分からななくて、ニカとブランクは顔を見合わせ、それがお互いでないと知ると、やっぱりクロエを見る。
「クロ──」
あ。とブランクは思った。
歯痒さだとか、悔しさだとか。そういうものが煮詰まった顔はブランク自身、これまでの人生でよくよく辛酸を舐めさせられたもので、すぐにも理解した。
そうしてもう一度見直してから、ようやく気がついた。先ほど感じた違和感の正体を。
「クロエ……もしかして、起き上がれないの?」
クロエは何も言わず、何も示さず、ふいと窓の外を見た。しかし、その沈黙こそが何よりも雄弁に語り、酷薄な事実をより一層浮き彫りにしていた。
ブランクがニカを見ると、ニカは先ほどの軽妙な姿勢とは打って変わって、真剣な眼差しで首を横に振る。
再びクロエに視線を戻せば、クロエはかかっていた布団を握りしめていた。鋭利な爪先が繊維を引き裂き、中から羽毛が溢れ出す。しかしその拳すらもあまり強く握れないようで。
ブランクがなんと声をかけるべきか考えあぐねていると、パタっと雫が布を叩く音がした。
「ピノちゃんが……いないんだ……」
「ピノちゃんって──」
ブランクはハッとした。ピノとはクロエのもう一つの人格で。ブランクがこの領を訪れてから言葉を多く交わしてきたのは、どちらかと言えばピノと呼ばれる人格との時間が多く、助けられたことも多々あった。
(彼女が──もういない……?)
ブランクは、何とも形容しきれぬ恐怖を抱いていた。頭を撃ち抜かれたような。足元から何かが崩れていくような。膝があるともないとも思えないまま、自分がなぜ今ここに立てているかすらも理解できず、ただ呆然と虚空を見つめていた。
(これは、夢か……?)
鼻の奥に鋭い臭いが立ち込める。それが苦しくて呼気が荒くなる。いつかの夜に橋の上で感じた失意の足音が、ひたひたと近づいてくるような気がして。その気配に、ブランクの背筋が凍りつく。
「夢の中で、ピノちゃんがあとは任せたって。さよならって。待ってって言ったのに、ボクを一人置いてけぼりにして。目が覚めたら、もうどこにもいなくて……」
「……」開いた声帯は、息が通ろうとするとすぐ締まった。
かける言葉が見つからなかった。普段塩っ気の強い姿ばかり見てきたからか。ブランクの目の前にいる少女が泣きじゃくれば泣きじゃくるほど、ブランクにとってはそれが、彼女がこの世界から存在しなくなった証左を突きつけるようであり、逆にそれが現実と思わせない。
クロエは小さな子どものように手のひらで涙を拭っていた。
「ボクは、一人じゃ何にもできない。掃除も、洗濯も、炊事も……ピノちゃんと二人だからできたのに。戦うことしかできやしないのに。こんな足じゃ……エレナおじょーさまを守れない」
手のひらに収まらない涙が、ポタポタとシーツを叩いた。
「ボクは、なんて役立たずなんだろう。一体、何のために生きてるんだろう」
「クロエ……」
あはっ、と力なくこぼれた笑いには、ちっとも喜色が見当たらない。ブランクは、ニカにどうにかできないかと視線で訴えるが、彼女はやはり、首を振る。
「残念ながら最善は尽くしました。あなたの腕にある古傷が治らないのと同じように、魔術による回復だって万能じゃありません」
「でも──! あ、いや、ごめん。君に当たったって仕方ないか……」
手を尽くしてくれた相手にこれ以上を求めるのは酷だ。ブランクが現実の非常さに打ちのめされて頭を抱えていると──。
「クロエさんッ!!」
悲痛な声に驚いて。ブランクは、目を剥いた。それから、何を考えるでもなく、声よりも早く、自然と手が伸びていた。
「ッうぅ……!」「……え」
とめどなく汗が流れた。体は電流の駆け抜けたように痺れが奔り、体は火がついたように熱を帯びて、鼻は焦げついたような鋭い棘がこもり、それらの痛みに歯の根がうるさいほど鳴った。
「ブランクさん!!」
それは、床板の隙間から集めた砂鉄で作られているらしく。誰の手を借りるわけでもなく、一人でにクロエの喉を狙って止まっていた。──ブランクの手を、境にして。
「なん、で……」
「あははは……なんで、だろうね」
狼狽に揺れるクロエの瞳に微笑みかけたブランクは、自分の手を貫いた刃を引き抜こうとしたものの。
「うっ、ぐっ……」
あまりの痛さと痺れに、体が抜くことを拒絶した。刃の代わりに赤い血がじんわりと姿を現して。それを受けたニカはハッと我に返り「ちょっ!」と声を荒げて駆け寄る。
「それ、抜かないでっ、そのまま!!」
「ははは……さすが。名医」
おバカ、と軽口を叱喝する女医に治療を任せ。ブランクは、自失にポロポロ泣き続ける少女と視線を交わすと、下手くそな笑顔で口角を引きつらせた。
「君は……何か勘違いをしてる。君は、役立たずなんかじゃ、ない。少なくとも、僕は君に死んでほしくなかったし、エレノアだって、ずっと君のことを、見てたよ……」
奥歯で息をしながら、ブランクはなんとかそう言葉を繋げる。肺に溜まった熱を、口だけでは足りないので、鼻でも抜いていく。
「一望せしは苦痛なき世界。永久に不変を望み、永遠を謳う者よ。ここに墜ちたる戦火の証を薄らうべく、慈悲深き心の一雫を遥か天の果てより、あまねく風に乗せて我らに分け与え給え!」
リァ・リュフヌーヌ・ヌォ・ビィ・ローウ──と、ニカの声が続いた。それを受けてから、ブランクはニカと顎を引いて示し合わせ、一気に刃を引き抜いた。
「ぐッ……!」
「癒しの兆し!」
ぽうっ、とニカの手から温かな光が染み渡っていった。するとブランクの体内に根付いていた小さな怪物の荒ぶるような痛みが、みるみるうちに引いていき。骨はあるべき姿を思い出し、筋肉たちはみちみちと喜びに打ちひしがれていた。
「……ふう。ほら、もう大丈夫。そんな顔しないで」
ひらひらと振る手の後ろから、しらこい視線が突き刺さる。恐らくニカのものと思われる訴えが後頭部で熱を帯びているものの、今はそれよりクロエのことが先んじられた。
「クロエ。自分を役立たずだなんて、そんな悲しいこと、言わないでほしい。君は、今までだってたくさんエレノアを助けてきたし、僕だって、ここに来てからどれだけたくさん君に助けられてきたか分からない。」
「でも、だって。それは、ピノちゃんが──」
クロエの言葉に、ブランクが首を振る。
「クロエ。君の中にいたピノって子は、『あとは任せた』って言ったんだ。それは決して、君に死んでほしいってわけじゃない。そんなことは絶対望んじゃいないはずだよ。それだけは、きっと確かだ」
「ぅ、あ……」
クロエは頭は頭の上にあった猫耳をうなだれさせた。声の湿り気が一層増した。でもそれは鋭さや低さが削ぎ落とされていて。ブランクは、ひとまずクロエが納得してくれたようで、ホッと胸を撫で下ろした。




