第五十八話『不機嫌な目覚め』
動かない空。吹かない風に、木造建築の家屋。
ドマとの一件以来、久方ぶりに訪れた書物の中にある世界。ブランクはさて、と肩を回し慣らすと、棚にある資料へ片っ端から目を通した。
「ダザンは何も知らないって言ってたけど、絶対に何か隠してる。こんなすごい力、きっと時間を巻き戻す力だって……何か文献くらいは残ってるはずだ」
そうなると、真っ先に思いついたのがこの中だった。
(修行の時もそうだったけど、ダザンが教えないのには意味があるんだと思う。でも、今回ばかりは何がなんでも探し当てるぞ)
何よりも。得体の知れない能力を使い続けるのは、いささか不安がある、というのが本音であった。
しかし世の中はそう簡単にはいかない。
「本当に鍛治の記録だけだった……」
その日の気温や湿度、それによって火力を多少調整したり。魔術を使った真空焼きなど、ブランクの理解の及ばない分野もあったが、棚の一段は、流し目で見ても全てが鍛治のものだった。見落としがあればそれまでだが、少なくともそれらしい塊の文は存在しなかった。
(ここにはないのかな。もしかしたら、本当に何も知らないのかも……)
そう思いながら次の段から取った書類をじっと見る。
「……斜め読みだったりして」
あるいは逆読みであるか。賢者の冒険譚で出てきた仕掛けではあるが……今回はそれには当てはまらないらしい。
元々ちんぷんかんぷんな内容が、さらに分からなくなるだけだった。
「あー、もう!!」
ぶん投げたくなる気持ちを抑えて。ブランクは、手にしていた書類をそっと棚へ戻した。それから、肺にたまった空気をはあ、と外へ出すと、変わり映えのしない外の景色へと目を向けやる。
(そろそろ戻らないとレイスが来そうだ──)
賢者の書から出てくるところなど見られたら、それこそ欲しがりそうなのが目に見えて。ブランクは急いで本の外へと向かおうとしたのだが、
「おっと、忘れるとこだった」
そうやって暖炉の上に置いてあった巻き貝に、こしょこしょと何かを話すと、よしと一息ついて、バッグへしまった。
「さあ──開け、賢者の書!!」
ブランクは……そうして元いた屋根裏部屋へと戻ったのだが──、
「……あ」
二人の声が重なった。ブランクの琥珀色の目と、大鷲の金色の目が、しっかりと交わって。続く沈黙が気まずさに拍車をかけていく。
(まさかほんとに出会すなんて……!)
ブランクが頭の中でどう切り抜けるかを算段立てていると。レイスは──、
「え」
ばたん、とドアを閉めて外へ出た。それから、
「やあ、待たせたね、我が友よ!」
「いやいやいや……」ブランクはそれはない、と手振りで一蹴する。
だがレイスは胡散臭い笑顔を貼り付けたままで、ニコニコと続く言葉を待っている。
「や、やあ、レイスぅ……!」
片や仮面の笑み、片や引きつった笑み。薄っぺらい人情とも言えない何かだけで成立している空気に、途端に居た堪れない気持ちになったブランク。
(まさかこれで乗り切れ……いやいやいや。レイスは絶対見てたんだぞ?)
何を考えているか分からない。ブランクが底知れない恐怖を腹に据えていると、レイスは「それで?」と話を切り出す。
「旅支度は済ませたけど、君から肝心の預かり物を受け取ってない。僕も気が短いわけではないけれど、なんと言っても今回は『国越え』をするんだ。少し気が立っている。なるべく急ぎでお願いしたいね」
「わっ、ごめんごめん」
ブランクはそう言われて急いでバッグから貝殻を取り出した。
「なんだい? これ」
「これは……蓄音の魔道具だよ。ガメたりしないでね」
「ガメる? 僕が?」
まさか、とレイスは大仰に手を広げてアハハと笑う。
「君はとても面白いことを言うね。そんな信用を損なうような真似、僕がするはずないじゃないか。それとも何かい。君は、友だちであるところの僕を、疑っていると言うのかい?」
「いや、あの、そんなことは……」
まさしく正論を突き返されて。ブランクがごにょごにょと口ごもっていると、レイスは目だけで笑った。
「ま、いいさ。僕も大人だからね。あんまり深くは気にしないんだ」
レイスはそう言いながらブランクの手元にあった魔道具をひったくり、踵を返した。
「それじゃ」バンッと力強くドアが閉められた。
(……めちゃくちゃ根に持ってるじゃん)
いや悪いのは僕だけど、と自分の行いを反省したブランクに。
「あのぉ〜……」
「わっ!」「ひぃっ!!」
おずおずと忍び寄った声に、ブランクは心臓ごと飛び跳ねた。
「お、お、お、おどかさないでよ!!」
「すみませんすみません!!」
互いに部屋の隅まで飛び退いて。ブランクがお化けかと思った、と呟けば、少女は化け物でも見るような目で見つめ返す。
(そういえばいたっけ……)
ずっとベッドの下に頭を突っ込んでいたのでブランクは顔も見たことはなかったが、その女は見るに小柄で、額をずっと押さえている。
「えっと……確か、名前は……」
「はい! 私、ニカと申します!!」「あっ」
ビシッと直立してそう明朗に答えた女──ニカは、あっと慌ててもう一度額を隠した。
(今のって──!)
ブランクは自分の記憶を疑った。その記憶が確かなら、彼女はただものではないからだ。
「幻想種の──」「わーわー! 忘れてくださーい!!」
バタバタと騒ぎ立てながら詰め寄られて。ブランクは、どうにも忘れ去ることのできない衝撃に、開いた口が塞がらず、そのまま続ける。
「天馬人」「ちげーます、一緒にすんなあんなカスの──」
少女はハッとし、ブランクはクスッと笑った。
「その様子だと、どうやら本物みたいだね」
ニカは浅はかさを呪って自己嫌悪に陥っていたが、ブランクにしてみれば、予想だにしていなかった出会いだ。
「謀りましたね!」「ごめん、まさかこんな簡単にいくなんて……」
ブランクの弁明も意味を成さず。こんなことならレイスに見つかる前にもっと遠くへ行くんだったと嘆く姿は、その伝説の信憑性を深めた。
(天馬人とは犬猿の仲。やっぱり彼女は聖角人なんだ)
聖角人。馬の亜人で額に角がある。角は魔力の圧縮と貯槽を担っていて、高純度な魔力を溜め込む種族である。額の角は魔力量によって色が変わり、魔力がある時は光り輝くような白であるが、魔力がなければ、途端にくすんだ紫色になるのだ。そして聖角人は、その状態の角を見せることをひどく恥ずかしがる傾向がある。
そうなれば、ブランクにも納得があった。聖角人は回復魔術を得意とする種族で、瀕死にあったブランクを救ったのも、クロエの容態を安定させたのも、その所以であると。しかし、一つ疑問があった。
「あれ、でも聖角人ってルヴェルディア教会が保護してるって」
「ぎくぎくぎくぅッ!」
そう言われると、ニカは素知らぬ顔で口笛を吹きだした。
「もしかして君──」「わーわー! 仕方ないんですー!」
明後日の方角を向いていた女は、だってだってと弁明を図る。
「私は伝説の歌姫『フィーナ・テトストリア』に会えると思って行ったのに、どこにもいなかったんですよ!?」
誰。とブランクが問うよりも早く、ニカはそれにそれにと矢継ぎ早に言葉を付け加えた。
「あそこ、恋愛禁止なんですよー! 私はただ女の子とくっつきたいだけなのに。ひどいと思いませんか!」
「……うん?」「……はい?」
ブランクは聞かなかったことにしようと思った。情報があまりに多かったからだ。
「別に責めてるわけじゃないんだ、不思議だなって思っただけだから」
「……ほんとですか?」
じっと懐疑的な姿勢を崩さないニカに、ブランクは苦笑を交えて頷いた。
「助けてくれてありがとう。僕はブラン」
「どういたしまして、そのうす汚い手を下ろしてください」
「……うん?」
ブランクは聞き間違いかと思った。ニカが満面の笑みだからだ。
「私の手は女の子専用なので!」
「えっと……はい」
ブランクがそうやって虚しさを引っさげて、伸ばした手を下ろした時のことだった。
「うるさいなあ……」
「……え?」
甘ったるい声が響いた。しかし寝起きだから、だろうか。その声はどこか低くて鋭くて。不機嫌を多分に含んだその声の主は、寝ぼけ眼をこすりながら上体を起こしていた。




