第九十六話『開かれた原罪』
今でも夢に見ることがある。あの日あの時あの場所で。きっともっと違った方法があったはずなのに。当時のわたしは、愚かにも手のひらの上で築きあげてきたかけがえのない幸せの全てを取りこぼしてしまう道を選んでしまった。
幼さとは無限の原動力だ。無知故に、恐れを知らず、どこまでだって突き進んで行ける。ただ周りを巻き込んでしまったのだと気付くのは、いつだって全てが終わってからなのだ。
「──正気ですか、閣下」エレノアが前にした扉の向こうから、そんな声が聞こえてきた。エレノアの手には盆がある。その上には、熱々の紅茶の入ったティーポットと、空のティーカップがある。塞がった手でどうやって扉を開けるのかを思案していた矢先に、そんな声が聞こえてきた。
「このままではタカ派は黙ってはいないでしょう。下手をすれば、御身に危険が及ぶ可能性まで」「分かっている」
皆まで言うな、アルバート。扉の奥からはそう聞こえた。声の主の一人は父で、もう一人がアルバートだ。物々しい雰囲気に、エレノアは息を殺した。最初は聞き耳を立てるつもりはなかったのだが、エレノアは仕事の話をしている父の声を初めて聞いた。気がつけば扉の前で息を殺し、続く言葉を待っていた。
「だからこそ、お前にも隠していたのだ。そもそもこの話はグルドの群蟻種という労働力があって初めて実を結ぶもの。今回の遠征でそれに成功したからこそ、今お前に話したのだ。この改革が進めば、民の生活はきっと豊かなものになる」
それに……と鋭い声は続いた。
「私は友の夢を叶えてやりたいのだ。お前はこれを水盆の月を掬うような話だと思うか?」
「……ツェールドマルク卿の発明ならば、疑いようはないでしょう。旧グルド帝国の労働力ならば人材としても一級品。しかし閣下、私の言わんとしていることが分からない閣下ではないでしょう?」
アルバートの言葉に、エレノアの父は押し黙った。
「魔道列車の開通。試験に成功し、貴族階級の特権化を無くせばどうなるか。物流は、文字通り一つ次元が変わります。そうなれば、貴族の独占している資産は石ころに変わります。胡椒はただの調味料になり、騎獣は気性の荒いペット。商隊は喜ぶでしょうが、護衛で日銭を賄っていた傭兵たちも、職にあぶれることでしょう」
問題は山積みです。そう締めくくられると、土台無理な話に聞こえる。しかし、
「だが──国の未来を思えばこそ、どこかで舵を切る必要がある。この判断は、必ず国益となる。目先の犠牲を恐れてばかりでは、改革は進まない」
「……もはや折れてくれそうにはありませんね」
当然だ、とエレノアの父は二つ返事に答えた。アルバートはため息をついた。
「お茶でも持って来させましょう。ゆっくりと腰を据えてお話を──おっと」
開いた扉を前に、エレノアの肩が飛び跳ねる。執事のアルバートは周囲に誰もいないことを認めると、膝を折ってかしずき、エレノアと視線の高さを合わせた。
「これはお嬢様。こんなところでどうされましたか?」
「あの、わたし、お茶を──」
エレノアが全てを言うよりも早かった。
「入りなさい」
父の低く、鋭い声。エレノアの背筋が伸びた。
「……失礼します」
盆の上で、茶器がカチャカチャ震えている。エレノアが執務室の机まで配膳を済ませると、険しい顔がエレノアを出迎えていた。エレノアの喉がきゅっと鳴る。父は一層眉間の彫りを深めると、エレノアを正面から見据える。萎縮するエレノアに──果たして、父は言った。
「誰の差金だ」
「……え?」
エレノアは耳を疑った。誰の差金だ、とは一体全体、どういう了見なのだろうか。ひとえに父のためにお茶を淹れてきた、それだけのことに、誰の差金も何もありはしない。
「閣下。差し出がましいようですが……その尋ね方では、お嬢様を困惑させてしまいます。私にお任せください」
「……好きにしろ」エレノアの父はそう言うと、忙しなく書類へ目を通した。外れた視線はもう二度と交わらなかった。力なく絨毯へ向かった視線に、影が歩み寄る。アルバートだ。
「お嬢様。お嬢様は病み上がりの身です。このようなことはサラや私めに命じてくだされば、解決いたします。ご無理をなさらぬよう、側仕えを頼ってください」
「あの、わたし、お父さまに喜んでもらいたくて……サラに紅茶の淹れ方を習って、だから、わたし、お父さまに──」「アルバート」
低く鋭い声が遮った。エレノアの肩が飛び跳ねる。父は……一瞥もくれていなかった。
「お前が飲め」「はい、喜んで」
「……っ」その後、アルバートの呼び止める声を置き去りに、エレノアは駆け出していた。悔しさだとか、悲しさだとか、言葉にすれば色々あるだろう。ただ、エレノアはもうその場にいることができなかった。
──……それから二年経った。体はすっかり元気になり、外を駆け回ることもできるようになった、体もひと回り大きくなった齢十二の頃。エレノアは考えていた。
わたしは自分が楽しいと思うからこそ、何事にも全力で取り組むのだわ。歌や踊り、絵画に乗馬。そして……『狩猟』も。二人三脚で病を乗り越えたラプトルと狩りを成功させた日のことは、今だって忘れられない。
その戦果を使用人やお付きの人たちは褒めてくれていたというのに、お父さまときたら、やれ「女なのだからもっとお淑やかにしろ」だとか、やれ「危険なことに首を突っ込むのはやめろ」だとか。あまつさえ「紅茶を淹れたり料理やお菓子を作るなんて、使用人のすることだ」ですって?
分かってない……お父様はなんっにも分かってないっ。こうなったら、わたしだって一人前なんだというところを見せつけて、お父様にしっかり認めてもらわなければ!
そう野心を燃やしたエレノアは、その第一歩へ向けて行動を開始した。
「──ねえリーリエ。何か困ったことはないかしら?」
「突然どうしたの、エレノア」
ここはエレノア・ラーゼンヴァルグの父、クロノア・ラーゼンヴァルグが治める領内だ。もっと言えば領主であるクロノアが所有する別荘である。その中庭では藍色混じりの真紅の花が咲き誇り、庭園を賑わせている。時刻は昼下がりで場所はテラス席。女二人の水入らず、二人ぽっちの茶会を楽しんでいる真っ只中だ。
エレノアがふわふわとした亜麻色のボブを揺らしながら尋ねると、リーリエは鳩が豆鉄砲でも食ったように目を丸くする。それを受けたエレノアは「突然じゃないわ!」と、お転婆に卓を叩いて立ち上がった。
「前々から考えていたのだけれど、お父さまはわたしのことをいつまで経っても子ども扱いしている気がするの。わたし、お父さまを見返したい。何か大きな問題を解決して、わたしだって一人前なんだってところを見せつけてあげなきゃ。このままじゃ、いつまで経っても半人前扱いされたままな気がするの!」
「なーんだ、いつものヤツね」
「いつものじゃないわよ!」
いつもの、とはエレノアがよくリーリエに相談しているからだ。その中でも父であるクロノアに関する悩みはままよくある、というよりエレノアの話はほとんど父クロノアが中心だ。やれお父様が国より勲章を賜っただのやれお父様が昔挙げた武勲だのと、リーリエにとっては耳にタコができるほど繰り返し聞いた言葉がお父様であり、もはやそれは日常と言っても差し支えがない。リーリエには今回も一緒くたにされてしまったが、エレノアにとって今度の相談は、件の話とは訳が違うのだ。
「はいはい、エレノアはかわいいわよ」
「もーう、また調子のいいことばかり言って!」
それなのに橙色した馬の尾のような髪は、あしらうように左右へ揺れる。うらめしそうな視線を送られてることを知ってか知らずか、リーリエは一つ肩をすくめると、ついとカップを口元へ運んだ。
「ふう……」一息つけば、艶っぽく漏れ出た白い吐息が、まだすこし肌寒さの残る春薫る風によって運ばれていく。その立ち昇る香りと彼女の優雅な仕草に食指を唆られたエレノアは、粟立つ心と荒げた声で痛んだ喉を慰めるべく、リーリエの優美な振る舞いを記憶に焼きつけながら、同じようにとカップをついと運んだ。しかし、
「あっ、つうっ……!」エレノアは忘れていた。
自分が極度の猫舌だということを。エレノアは麗しい微笑みから一転して、酷暑日の犬のように舌を出し、必死に大気で冷ましている。その優雅さとは正反対な醜態に、リーリエはウフフと上品に笑ってみせた。
「エレノアは猫舌だから冷まさなきゃね?」
「らってぇ……」
あなたがあまりに美味しそうに飲んでいるから、とは言わなかった。言わずともリーリエには分かっていただろう。含み笑いを続ける彼女の、毛茸の残る新芽のごとく温かな緑色の瞳が、その全てを物語っていたのだから。美しい歪みを見せる双瞼の隙間から、ただ優しくエレノアを見据えていたリーリエだったが、
「でも──そうね」ひとしきり笑ってから満足すると、熟れたオレンジの如く鮮やかな髪を、ふわりとなびかせながら言った。
「あたしは別段困ってはいないのだけれども、ヴェレニオン家のアルフレッドなら、この間あたしに相談しに来たわよ」
「……えっ、うそっ?!」「ほんと」
寝耳に水でも打たれたような話だ。エレノアは声を荒げた。対してリーリエは冷静に言葉を返して再びティーカップを口へ運ぶ。エレノアはむむむと口を尖らせた。
「……どうしてわたしには何も言ってくれなかったのかしら。ついこの間、舞踏会で会ったばかりだと言うのに」
「さあ、その理由は定かではないけれども。『四大貴族』に次ぐ実力派貴族、ヴェレニオン家の長男の悩み事よ。あなたのお眼鏡に適うかは分からないけれども、あたしと一緒に話を聞くくらいの価値はあるんじゃないかしら?」
四大貴族。それは、ここヴリテンヘルク大帝国に於ける最も力を持つ貴族たちの家柄の事だ。斯く言うエレノアの家柄もこれに当てはまる。生産と学問を司るラーゼンヴァルグ家。リーリエのいる発明と物流を司るツェールドマルク家。芸術と医療を司るホーエンハイム家。法律と軍事を司るレーヴェルハルク家。実態としてはこの上に大公爵家が存在するが、王族として扱われている上に公国として独立しているため、国内ではこの四つの家柄を四大貴族と呼んでいる。
その四大貴族と言えば、国内で知らぬ者はいないし、他国にすら名を馳せている。その中で四大貴族には一つ及ばないが、近い将来五大貴族になるのではと噂されるヴェレニオン家は商業を担っている。四大貴族に次ぐ地位を持つヴェレニオン家が抱えている問題となれば、やはりこれは大きな山に違いない。
「やりましょう!」エレノアは拳を握って食いついた。
「うん、いい子ね」
そう言い終えると、リーリエはカップをソーサーに置いた。中身は既に空だった。
「えと……お代わりは?」
「ええ。あなたの淹れた紅茶は格別ですもの。ぜひいただくわ」
「ふふ……ありがとっ」
リーリエはよく褒めてくれる。エレノアが上手く事を運べば、たとえ自分が上手くいってなかったとしても必ず褒めてくれるし、失敗した時なんかも慰めてくれる。かけがえのない唯一無二の素晴らしい親友だ。彼女がもし何か困っていたら、いの一番にわたしが助けたい。エレノアはそう思っていた。
リーリエが紅茶を口に運べば、エレノアもカップを煽る。やや冷めたものの、まだ温かみのある紅茶はその体を温め、鼻の中で花開き広がる豊かで、芳醇な香りはエレノアの心すら満たしてくれるようだった。
「お嬢様」
突然呼び止められて、エレノアは振り返った。黒髪の長身の侍女。
「サラっ!」
エレノアはその淑女らしい佇まいを見せる侍女を認めると、脇目も振らずに駆け出した。
「いつ帰ったの!」
「お嬢様、はしたないですよ」
にんまりと頬を緩めるリーリエの視線に、サラは咳払いでエレノアを一蹴しようとする。しかし当のエレノアといばお構いなしで、抱きついたままサラから離れない。仕方なしに、サラはため息一つを漏らした。
「先ほどです、アルバート様も戻っておいでですよ」
「……お父さまは?」
真っ先に出てこない名前に少女の顔が曇ると、サラは困ったように眉をひそめた。
「御当主様は帝都へ向かわれました。此度の遠征の成果を報告に上がられましたよ。しかしお嬢様のことを大変気にかけておられで、いの一番に確認をと」「もういい」
「お嬢様……」
エレノアはぷいと顔を背けた。こんなことはサラの方便だ。何度聞いてきたか分からない。いざ家に帰れば顔を合わす機会すらほとんどない。最近は声を聞いた覚えもない。
それがエレノアの父『クロノア・ラーゼンヴァルグ』だった。




