破章『あの日と同じ』
「エレノアッ!!」痛んでもいい。死んだって離すものか。そう思ったはずの手が、不思議な温もりに包まれていた。光の粒子が離れると、ブランクの手はいつもの状態に戻っていた。どうしてか、など今は瑣末なことで、そんなことは心底どうでもいい。
「ぁ──」
この大粒の涙を拭えれば、今はそれでいい。
「やめて……もうわたしのことはいいから……あなたが優しいのは知ってるから、わたしにこれ以上、優しくしないで……生きたくなってしまうから、どうしようもなく、恥も外聞もなく生きたくなってしまうから、もう、そんなことになったら、わたしは耐えられないっ、死んでしまいたいのにっ……」
ああ。この少女はまだ袋小路の中なのだ。一抹の光すら差さぬ暗闇の中、紅蓮の灯火へと目がけて飛び立つ蝶のように、現実の苦しさに目を焼かれたままなのだ。
「エレノア」
だから。今から自分はその現実をぶち壊す。歴史をあるべき姿へ正してやる。ブランクはエレノアの手を取り上げ、握りしめた。
「今から、君のお父さんを助けにいこう。三年前へ。全ての悲劇を変えに」
ブランクの言葉に、エレノアは虚を衝かれた顔をした。それから、一層悲しみを滲ませると、悔しさに唇を噛み締めていた。どうしてそんな酷いことを言うの、とでも言いたげな、諦観の涙がこぼれていく。
「わたしは……もう魔力がないの、ずっと、気づいてた、本当は。わたしには、そんな才能がないのだって、ただの小娘に過ぎないって、そんなこと絶対に受け止めたくなかったのに、どうしてっ……」
「エレノア」
曇った彼女の瞳は絶望に縁取られている。心が痛んだ数だけ──あるいは塞がらぬ古傷の代わりにずっと、血が流れている。ブランクはその色のない血を拭い去ると、こつんと額をぶつけた。
「魔力ならある。僕の中に、たくさんある」
「それは……でも、あなたからどうやって魔力を──」
吃逆に跳ねる少女に、ブランクは優しく微笑んだ。そうして自分の上着を脱ぎ、肩まで服をまくりあげると、自身の首筋を差し出す。エレノアは困惑していた。
「エレノア、僕の血を吸って」
「……えっ?」エレノアの顔が途端に青ざめた。ブランクがトチ狂ったとでも思ったのか、エレノアはとにかく顔を横へ振った。
「だめよ……そんなの、だめ、あなたをこれ以上利用したら、わたしは……!」
とんでもない、とエレノアは拒絶しているが、ブランクは困ったようにはにかむ。
「もう、ここまで来たんだ。今さら梯子を外して一人になんてさせないでよ。最後まで付き合う、いいや、付き合わせてくれよ。僕を薄情者なんかにさせないでくれ」
ブランクがそうやって笑いかけると、エレノアは申し訳なさそうにまなじりを下げて俯く。それから、一つ、二つと急かすように屋敷から木の軋む音が鳴った。
「……ごめんなさい」
エレノアは、ブランクのももに重みを預け、膝をかけた。そうして背中へ手を回し、肩と首へと細指を引っかけ、二人は抱き合うような形になる。
「え、エレノア? その、胸が──」「ジッとして」
少女はためらうように息を呑んだ。その必死な様に、ブランクも口をつぐむ。これはもう、惚れた腫れたの話ではない。ブランクは自身を恥じた。彼女は、いつだって真剣なのだ。
(いつまで浮き足立ってるんだ、僕は……!)
そうだ、男になれ。ブランクは自分をそう諭した。ジャンのような大人の男に。堂々と、あるいは自信満々に。
「ん……」
ブランクの肩の皮膚を、エレノアの鋭く尖った犬歯が突き破る。多少の痛みはあったが、堪えられないほどではない。すうっと頭の中の血の気が引いていく。それと同時に、少女の喉がこくこくと、あだっぼく鳴る。ブランクはその煩悩を取り払うべく、瞳を閉じた。
──ああ。同じだ。あの時と──。
青い空。白い雲。吹く風がいたずらに髪をなびかせるのも全て、寸分違わず、一切の狂いなく、あの日と同じ世界が、今目の前に広がっている。
夜から一転して眩しい朝日に、小さくなった手のひらをかざす。帰ってきたのだ、全ての悲劇が始まった、三年前に。
エレノアの頬を、温かな雫が滑った。




