惨話『遠ざかる背中』
「亡くなってる……」
ドマの胸に耳を押し当てたブランクが、静かにそうこぼした。元々衰弱していたとはいえ、人の命の儚さを、ブランクは身を以って知った。
『おれは……おまえを、しんじてる』
ブランクは、数日前にドマに言われた言葉を思い出した。あれはブランクへ信頼を預けた言葉だったのだ。何も問わず、信ずると告げたのだ、しかし、実際はどうだ。自分は敵国の人間であることを打ち明けず、彼は死ぬまでそれを信じたまま亡くなった。知らなかったとはいえ、ブランクの中に、今更遅い後悔の念が渦巻いた。
「ドマ……ごめん……」
ブランクがそうやって届くはずのない謝罪を述べた時。どこからともなく、低く唸る音が忍び寄ってきた。それはすばしっこく己の俊敏性を誇示すると、ブランクの友の亡骸の上で手を擦り合わせる。ハエだ。
「くそっ、寄るな、離れろよッ!!」
ブランクはそのハエを振り払うように手を振るう。しかし、すこしも掠りはしない。ハエはとうとう二匹、三匹と数を増やし、ブランクの手には負えなくなってきた。
「ドマ……」
彼は亡くなったのだ。ブランクは改めてその事実を突きつけられた。心の中には短くも彼と過ごした日々が克明と蘇った。そんな日々は、もう二度とやってこないのだ。ブランクのまなじりから涙が一つ、二つとこぼれた。
「こ、小僧……」
「が、ガランドさん!!」
既に死に体で虫の息。そのかすかな声が大気を撫ぜながら、ブランクを呼びかけた。見るも無惨にやせ細った親方の元へ。ブランクは目元を擦り急ぎ駆け寄ると、その手を掴み上げた。
(手……軽い。前はあんなにズッシリ重たかったのに……)
筋骨隆々でダザンのようにしこたま脂肪をため込んだ親方は、ところどころ骨張って、皮が余り、年相応の老人になってしまっていた。
「お前、小僧か?」
「親方、目が……!」
ガランドの薄く開かれた瞳は青く濁っていて、しきりに何かを探している。自分だ、自分の顔を探しているのだ。ガランドは視力を失っていた。ブランクの胸にかかった罪悪感の輪が、きゅうっと閉まって苦しめる。
(僕がここへ来なければ、こんなことには……!)
ブランクは現実に蓋をするように、目蓋を固くつむった。
「ドマは……ドマはどこにいる。アイツは、ビビりだからよぉ、俺が守ってやらねーとなぁ……ドマ、ドマどこだ?」
ガランドの手がしきりに虚空をさまよう。衰弱したまま地面を這いずる様があまりに痛々しく、ブランクはガランドを抱きしめた。
「ドマは──」
何と言うのだ。死んだというのか? ブランクはハッとした。ここでギリギリで生きてるガランドにそんな事実を告げたら、彼はどうなってしまうのか。そんなこと、考えるだけで恐ろしかった。
「ドマは……ドマは、無事だよ! 今、手当てしてもらってるんだ、だから、親方も安静にしててよ!」
ブランクがそう告げると、ガランドは「へへっ」と鼻を鳴らして笑った。明らかな安堵の笑みだった。
「ったく、アイツは。師匠より先に休むやつがあるかよ、ったく、仕方のねーやつだ。ドマ、後で叱ってやらねーと…………」
「……親方? 親方ッ!!」
ガランドはとうとう息を引き取った。どれだけ揺さぶろうとも、その大きな体は継ぎ接ぎ合わせたガラクタのように、指の先一つ動きやしなかった。
「……くそっ」
ブランクは誰にともなく悪態をついた。あるいは無力な自分へ向けてだったかもしれない。
轟々と風を受けて囃し立てる焔柱。木柱がキュウっと悲鳴を上げて捻じ曲がる。窓や漆喰が割れ、屋根が傾いた。ため息でもつくように噴き出された火の粉が、大気を逆巻き、灰となって消えていく。
屋敷を焼べて煌々と光るこの貴い炎は明日の朝には消えているのだろう。温められた空気が上で黒い雲を作って今か今かと待ち構えている。だがその恵みの雨もまだ機が熟しているわけではない。雨が降らなければこの火は消せるわけがない。人の手に余る惨状は、もはや天に任せるより他がなかった。
(この様子じゃ、クロエはもう……)
いいやクロエだけではない。あのまま地下に取り残されていれば、グエンやシリルだって無事では済まない。火災で危険なのは火だけではない。地を這う気体が危ないのだと、賢者の書でも語られていた。なまじ炎を免れ生きていたとして、地下という逃げ場のない空間であれば、それはその場しのぎの時間稼ぎになるだけだ。恐らく命はないだろう。
「……」
それをただ憮然と立ち尽くして見つめる少女は、果たして今、何を考えているのだろうか。ブランクには分からなかった。ただその背中はあまりに儚く、今すぐ声をかけなければ陽炎のごとくたちまち消えてしまいそうな気がして。ブランクは何か声をかけないとと察した。
「エレノア、危ないからここから離れよう。もし屋根が降ってきたら一巻の終わりだよ」
いくらエレノアが怪我を治せるとはいえど、燃え続ける炎で炙られ続ければひとたまりもないはずだ。ブランクは聞こえているようにと願いながら少女へと歩み寄った。
「ブランク」
毅然とした言葉だった。どこか他人行儀な印象を受けたその声色を放った少女は、背中はしゃんとして、胸を張り、スッと立ち、一歩、前へと踊り出た。ブランクから逃げるように遠ざかった少女は、炎の壁へと向かっていく。その姿がまるでこれから処刑台へ向かう囚人に見えて。ブランクの背筋を生ぬるい汗がつうっとなぞった。
「明日の朝には、憲兵団が来るそうよ。もし見つかったら、あなたもただでは済まないわ。あなたは先に領の外へ逃げて。……ごめんなさいね、わたし、あなたの助けになれなくて」
「待てよ……あなたは先にって──君はどうするんだよ!!」
ブランクがそうやって問いただすと、少女は顔を向けないまま炎の中へ向かって歩き出す。熱さとはまったく違う汗が、ブランクの腹の底から湧き出した。
「わたしはクロエやグエン、シリルたちを助けにいかないと。使用人一人守れなくて、領主は名乗れないもの」
生きてるはずがない。生きていてくれたらどんなにいいことだろう。ブランクだってそう願ってはいる。だが現実として、この炎の中を生き残れる人間などいやしない。ただしそうやって否定することもできやしない。ブランクは待てよ……と小さく呟いた。
「待ってよ、お願いだよ……エレノアッ!!」
少女の華奢な肩に手をかけると、電流でも走るような痛みが走り、ブランクは隙歯で息を吸いながらしゃがみ込んだ。見れば手は大きく腫れていて、曲げるだけで激痛が走る。確実に骨が折れている証であった。アドレナリンという魔法も消えている。
「その怪我も……わたしを庇ったせいよね」
違う。その否定の言葉を、無言の背中が嫌っていた。彼女だって馬鹿ではない。先ほどのように我を忘れているならまだしも、今の少女は、最悪なことにいつもの毅然とした領主としての顔だ。ブランクの嘘などすぐに見抜かれる。ブランクは小さく反抗するように否定の言葉に連ね、弁明を重ねた。
「これは……僕が勝手に──」「もうやめてよ!!」
平手でも打たれたように、ブランクに衝撃が走った。乾いた声は、少女から爆発するように放たれていた。奥に構える火の鳴りが、一層獣のように低く唸っている気がした。
「もう、放っておいてよっ……!」
少女の足に雫がこぼれ落ちる。ともすれば炎に呑まれそうなほどにか細い声が、かすかにブランクの鼓膜を揺らした。
「誰も救うことができない。何も取り戻すことができない。時間を戻せないなら、お父様のお屋敷を失ってしまったわたしには、民から見放されたわたしには、もう、生きている意味なんてないの、一つと、たった一つとないのッ」
一つ、二つ、三つ……数えきれないほど大きな粒が、少女の頬を伝い、地面へ吸い込まれていく。エレノアはそれを袖口で拭い去ると、袖口を握りしめ、俯いた。
「お願いだから、もう終わりにさせて。わたしを、独りにさせてよ……!」
絞り出したような声がそう突き放す。ブランクは一つも触れられてなどいないのに、肩を押されたように一歩、二歩と後ずさる。瞳孔が小さく震え、息が荒くなる。どこへも焦点が定まらない。何も言葉にできない。もう気休めも意味を成さない。少女は『諦めた』のだ。全てを。
大丈夫ではない。何も大丈夫ではない。彼女の大丈夫は、いつだって『助けて』なのだ。ブランクはそれをどこか分かっていたはずなのに、彼女があまりにも上手に笑うのだから、分かったつもりになっていたのだ。
「待てよ……待ってよ……」下膨れた手を伸ばす。なくした握力同様声に力がない。少女の耳に届かない。蚊の鳴くような声は、炎の壁に阻まれる。轟々と風に煽られる火が、まるで嘲笑うように低く唸った。ブランクは足がすくんで前へと動けなかった。怖さではない。無力さだ。世界を裏切ってでも彼女を助けると決めた覚悟が、この程度のものだったのか。師の言葉へ背き、世界に背き、全てを投げ打った自分の力は、その程度のものだったのか。
「エレノア……エレノアッ!」
やっと大きな声が出せたのに、まだ声が届かない。少女はただこれから家にでも帰るように静々と歩いていく。どうすれば彼女を救えるのか。どうしたらこの声が届くのか。今は何も分からない。……今は?今が全てなんだぞ。ここで声をかけなければ、彼女は永遠に炎の中へ消えてしまう。そんなこと許されるはずがない。許されてたまるものか。
(何か、考えろ、考えろよ、考えるのは得意だろ、しっかりしろよ、賢者の弟子なんだろ、お前ならやれる、ブランク・ヴァインスターなら、得意の知識でこの袋小路を突破しろよ、頼むから、なんでもいい、何か方法があるはずだ、彼女の悲劇を、歴史から消す方法が──絶対にあるはずだ、探せ、探せ、探せ、なんでもいいからッ、早くッ!!)
ブランクは走馬灯を辿るように記憶を巡った。時間を遡る王のルーンの力が本人を起因とするならば、ブランクの力では不可能だ。だがエレノアだって不可能だ。彼女には絶望的なほど魔力がない。たとえ通常の魔術を扱うことができたとしても、ルーンの力を行使できる魔力が彼女にはないのだ。そうだ、魔力が──、
『魔力が体液に宿るなんて常識じゃないですか』
ブランクの記憶が止まった。辞書をめくる手が止まるように。時間すら止まった気がした。ブランクは記憶の中の言葉を指でなぞるように反芻した。それは数日前にニカと話していた、何気ない会話だった。
『あなたの持っているその魔力、選ばれし者なんですよ! 巷に溢れてる魔力ポーションは薬草を煮詰めたものや魔物の血液を精製したものを利用されていますがあなたの血液なら、精製しても純度が高いままなんです──』
これだ、これしかない。これならいけるはずだ、行け、ブランク・ヴァインスター、彼女を二度と独りになんかさせるなよっ!
「エレノアッ!!」手が温かくなった気がした。視界の霧が晴れた気がした。ブランクは今一度、遠ざかる背中へと駆け抜け、まっさらな手を伸ばした。




