第九十四『迫り来る未来に』
そうは言ったものの、ブランク自身の体は限界に近かった。目は霞んだままだし、呼吸もしづらい。それに、ここ数日ろくな食事もしていないのだから、精霊の力を借りるゴアドがなければ、ろくに剣も振れやしない。とても五体満足とは言えないが、勝算はあった。
(イチかバチかだ。アレさえ決まれば──)
絶対に勝てる。問題はどうやってそこに至るかであったが、こうして的が大きくなるのであれば、視界の問題と同時に解決できる。だがそれは、リスクがなくなったわけではない。サラは獣身化しても依然として理性を保ったままに見えるし、細身とはいえこの長い体は、容易に二人の体を囲い込んだ。
(逃げ場がない……)
元より逃げるつもりなどないが、サラは退路を絶った。今となっては淑やかさとは程遠い顔を静かに歪めると、鱗を割いて口が三日月状にほくそ笑む。
『坊やには感謝しているのよ。あなたのお陰で、この娘の絶望は完成する。この子にとって、今やもうあなただけが頼みの綱なのよ。それが無くなる瞬間……うふふ、一体、彼女はどうなってしまうのかしらね。どんな顔をするのかしら。見てみたいとは思わない?』
「……思わない」
あらそう、と大してこちらの反応を気に留めていない様子であるが、ブランクはサラとのこの少ない対話のやり取りから、大きな攻略の糸口を見つけていた。
まず第一に。サラにはエレノアを殺す気がない。理由は不明であるが、これはブランクにとっても嬉しい誤算であった。足手纏いなどとは思ったこともないが、動けなくなった少女一人を庇いながら戦うのでは荷が重すぎる。そして第二に──、
(領民は戻ってこない。多対一じゃないのは助かった……)
何より、エレノアは領民を傷つけることにひどく抵抗がある。恐らくは往来の優しさ故であるとは思えるが、先ほどのように無抵抗にされるがままでは戦いようがない。サラの慢心故か、あるいはクロエによる惨殺に恐れを成したからか。先ほどの様相を察し見るに、後者であることは明白だ。人は安全圏からならいくらでも残酷になれる。賢者の冒険譚で、文字が霞むほど学んだ教訓だ。
『さあ踊りなさい。飃枷』
見せ物でも楽しむように、サラはブランクへ風の風を投げつける。魔力を帯びたその枷は、光を纏い、ブランクの両手足首へと噛みつかんとする。
「そんなもの、当たらないよ」
『あら。果たしてそれがいつまで続くのかしら』
しかし、サラはわざわざ大きな仕草で狙いを定めるものだから、さすがにブランクだってすぐに躱せる。狙いが分からないまま、ブランクは、まさに踊るように足踏みを繰り返し、右へ左へと回避行動を余儀なくされる。彼女になぶる趣味があるのは明白であるが、殺意のない行動の違和感を拭い去るには一役足りない。
(なんだ、何が目的でこんな──)
あっと思った時には既に遅かった。周りは一面肉の壁が高積みされていて、ブランクたちを囲んでいた尾の輪は、もう外の景色を見せてはくれない。
『ふふふ……やはり圧倒的に実戦が足りてない。あなたは所詮、坊やでしかないのよ』
「くそっ……!」先ほど魔法剣でも歯が立たなかった背鱗。あるいは腹鱗であればとも思うのだが、サラはそれを器用に隠して迫っている。輪は徐々に狭まり、ブランクの剣を物ともせずにエレノアごと抱き寄せると、そのまま二人を締めあげた。
『ふふふ。本当は愚民たちに拘束してもらおうと思ってたのだけれど……さあ、あなた達にはこのまま明日の朝まで待ってもらいましょう。眠っていても結構よ』
「明日の、朝……?」
サラの目的は更けゆく夜より不透明で、分かりづらい。あるいは燃え尽きた屋敷でも見せつける気かとも思うのだが。果たして、サラは口角を吊り上げた。
『明日の朝には本国から派遣された憲兵団がこちらへ押し寄せてくる手筈になっているの。わたくしが密告したのよ。皇帝陛下へと反旗を翻す〝売国奴の伯爵閣下〟を捕まえにね』
「なっ……!」
まなじりまで下げて満足げなサラの発言に、ブランクの背筋が凍る。エレノアもその言葉の意味するところを理解しているのか、その白磁のような肌が一層青ざめた。
「先ほどあなたが気にかけていた老いぼれも、今は処刑を待つ身。随分と衰弱していたようだから、もってあと何日かしらね」
「どこまで汚いマネを……!」
『用意周到、と言ってほしいわね』
人聞きの悪い、と蔑む瞳に、ブランクは歯を鳴らす。
「お前がさっき自白したこと、そっくりそのまま憲兵たちに言いつけてやる。そうしたら、お前だってタダで済むもんか!」
ブランクは少女の不安を取り除くべく、なんとか便宜を図ろうとする。しかしサラは口元の彫りを深めるばかりだった。
『本当に愚かな坊やだこと。敵国の少年と命懸けの密告者であるわたくし。どちらの言葉が信用されるかなど、火を見るよりも明らか、でしょう?』
それに、と。サラは目元の歪みなき笑みで二人を覗き込んだ。それから捕食を待つ小動物のように震える少女の細顎を掬い上げると、緑青色の瞳と自身の黄色とを示し合わせる。
『わたくしは命などもう惜しくはない。ただこの美しい宝石のような瞳が滲めば、それだけで満足なの』
「……そうか」
ブランクの中にあるわずかな揺らぎが消えた。
「それを聞いて、すこし安心したよ」
この人にも本当は何か本当は理由があるのかもしれない。かすかに脳裏を掠めていた不安は容易く裏切られた。一切の同情の余地はない。あるいは人としての心は永久的に失われてしまったのかもしれない。それならばもう遠慮はいらない。
『あら、気でも狂れた?』
ブランクは剣を手放し、サラの皮膚を掴んだ。これだけ密着していればサラは避けようがない。頭の中での演算も終わった。あとはそれを唱えるだけだった。
「ゴアド」精霊の力が腕に宿る。大蛇の尾をぐいと引っ張るが、みちみちと音は鳴れども、びくともしやしない。サラはその様子を見て、ほほほと静かに嘲り微笑んだ。
『無駄なことね。わたくしの体は、そこの小娘でも引き裂けやしない。今のあなたにできることは、ただこの場で絶望に酔いしれ、坊やらしく泣き喚いてこの子の絶望を引き立たせることだけ。さあ泣いてこうべを垂れなさい。それとも──』
サラは……顔を下品にしかめて嗤った。
『あなたがこの子を傷つけてみる?』
ブランクの頭の奥にあった何かが切れた。体の中には沸騰したかのように血液が駆け巡り、全身全霊を懸けてこの女を殺せと叫びあげた。
「ゴアドッ!!」ブランクが二回目の言葉を重ねた時。
『だから無駄だと──!』
ブランクの掴んでいた肉がみちみちと音を立てて引き剥がされていく。鱗は隙間ができ、隙間の皮膚からまだらに肉が顔を覗かせる。不思議と血が噴き出すことはなく、ブランクが雄叫び上げて引き裂いていくと、サラは体をたわませてブランクを体から引き離そうとする。
『コイツ……!』
しかしブランクは離れない。割いた肉に指を突き入れ、次に地面に足が触れるか触れないかのところで、
「ゴアドッ!」
ブランクはもう一度言霊を加えた。精霊の力が身に宿り、サラの体はカエルの卵でも裂くように簡単に引き離された。置き去りにされた体の断面から見える白い骨に、サラの瞳孔が小さくなって揺れ動く。
『あぁあああッ!! クソガキが』そう言い切るよりも早かった。
「ゴアド」
死刑宣告のように、ブランクは呟いた。その直後、大きな土煙と地響きが発生した。それはブランクを中心に地面へと叩きつけられた、巨大な管状の……サラが震源であった。
(手……どころじゃない。指まで、折れてる……)
呼吸が落ち着かない。心臓が定まる気配がない。肋骨に押しつぶされそうだ。手はもう指の先一つ動かない。立つことすらままならない。かろうじて膝をつくことができただけで、満身創痍そのものである。全てはゴアドの反動だ。細胞の一つ一つを針で刺されているような痺れを受けて、ブランクは歯を食いしばった。もしここで叫べばエレノアに無用な心配をかけると思ったからだった。
「エレノア……」
少女はわずかに視線を持ち上げた。虚ろな瞳は焦点が合わず、ブランクは目があってるのにエレノアがどこを見ているのかが分からなかった。すこし距離があるからかもしれないと立ち上がろうとした時だった。
「だめ……やめてッ!!」
怯える少女の様子に、何を──、と言い切るよりも早かった。
「いやあぁあああッ!!」
少女の悲鳴が聞こえた気がした。ぽーんと低い耳鳴りがする。ブランクは前へとつんのめるように倒れ込み、今までにない不思議な感覚に大きな違和感を覚え、足元を見た。
「は──」
なんだよこれ、とも言えなかった。その前に喉奥から込み上げてきた血潮が酸素の出口の全てを塞いだからだ。こぼれ落ちる熱。熱。熱。命が溢れて消えていく。ブランクの体は、腹部から下がなくなっていた。痛みがない。恐らくそれを口に放り込んだであろう大蛇の顔が、わずかにほくそ笑んだ気がした。
「──ぁ?」それが──ブランクの中に雪崩れ込んできた記憶だ。ブランクは両膝をついたまま、突如現れた下半身の感覚に、全身の毛穴から汗をかいた。それからハッと振り返ると、大蛇が音もなく忍び寄ってきていた。そこにサラとしての上半身はなく、完全にベルベントと相違ない怪物へと姿を変えていた。そしてその大蛇は今まさに、ブランクを食らわんと大顎をかっ開き、眼前へと差し迫っている。
何が起きた。エレノアが時を戻したのか。自分が時を戻したのか。そんなことは分かりやしない。ただ頭の中でめくるめく思考の数々を押し退けて現れた生存本能が何もしなければ死んでしまうその状況で、反射的にその言葉を選ばせた言葉は──、
「プロテマッ!!」
やはり、この防御魔術であった。




