第九十三話『恐いのか?』
「殺す……このわたくしを?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、侍女服を纏うその女は、一つも目を細めずに笑みを浮かべる。それは明らかな作り笑いで、紺碧の瞳はまなじりが吊り上がり、強い憤りが垣間見える。
「あら。あらあらあらあら。おかわいそうに。お姫様。あなたの騎士様は愚かにして無謀にもこのわたくしに勝てると思っているようです。一体どれだけ身の程知らずならこんな思考に至るでしょう。世も末ですね」
「ハオディ」ブランクは刃を横に構え、サラの首の直線上に据える。激昂へ至る前に、冷静に持てる手札を切っていく。言霊を口にすれば、自然と頭にも落ち着きが見えた。その様子にサラは口の端を吊り上げ微笑んだ。
「やってみますか? 若い時は挑戦してみるのも一興ですよ。一つずつあなたの夢の徒花を摘み取って差し上げましょう。現実を教えてあげるのも大人の役目の一つですから」
挑発的な態度で隙を見せるサラの真意が見えず、ブランクは攻めあぐねた。しかしここで何もせずに様子見でハオディの効果時間が切れてしまえば、それは魔力の無駄遣いになってしまう。この軽蔑すべき悪女相手に、ブランクはそのような贅を尽くす気には到底なれやしなかった。薄っぺらい理由だと分かっていても、そのプライドだけは折りたくなかった。
「トートードさんはどうした」
兼ねてより気になっていた疑問。これを聞き出さずに斃しては、真実は闇夜に葬られる。ブランクが一縷の望みをかけて、あるいは半ば諦めの念を込めて訪ねると、サラは「ああ」と心底どうでも良さそうに相槌を打った。
「あの老いぼれですか。今頃どこかで眠っているのではないですか? 明日の朝までか……あるいは永遠に」
「……そうか」
あまり期待はしていなかった。しかしそれでも気にのしかかる負担は大きかった。だが、それは同時に必ずサラを討ち斃すという決意へと姿を変えていく。
「ハオディ!」狙うは細首のみ──「気は済んだかしら?」
「なっ」にと言うまでもなかった。ブランクの剣は添えられたサラの手の甲を滑り、夜空へ切っ先が放られていた。体勢を崩したブランクに、そのまま裏拳が見舞われる。二転、三転とするブランクは、頬に泥が飛ぶと、ようやく異常事態に気がついた。
「うぁあああッ!!」頬は打撃を受けたはずなのに、鋭利な何かが皮膚を突き立てていた。そのせいで傷口に染み込む泥が、ブランクの声を荒げさせる。クスクスと優位にほくそ笑む淑女の体には、よく見ると微細な鱗が生え揃っていた。
「狙いがバレバレ。目線も殺気も隠せていない。そんな青臭い人間など、たとえ女子供でも相手取るには容易い。あなたの存在など、所詮はその程度なの。取るに足らない凡夫」
緋色を映やすその冷たい藍色は、サラが関節を曲げるとわずかに毛羽立ち、触れればたちまち肉を削ぐヤスリになりそうに見えた。ブランクの頬から血を掠めたその鱗を──サラは愛おしそうに舐め取る。ブランクは正気とは思えないその様相に圧倒されて、背筋に寒気が走った。膝が笑っている。
恐いのか。あんなヤツが──?
自分は正面から戦わず、あの気高く無類の強さを誇っていた少女を、陰からいたぶるように蹂躙し、心をなぶり、追い詰めてから姿を現すような卑怯者が?
(こんな奴に負ける方がよっぽど恐い……!)
ブランクは膝の皿を剣の柄で叩いた。乾いた音と、突き抜ける衝撃が、じんと膝の神経を痛める。しかしそのかいあってか、膝の震えは止まっていた。
その様子を見ていたサラは、ふふふと口角を吊り上げる。
「もしかして自分を特別な存在だと思っていた? あなたはどこにでもいるただのお子様よ。そこの小娘となんら変わりがない。それがこのわたくしに楯突いた時……ふふ。滑稽すぎて笑いを堪えるのにとっても苦労した」
ああ、おかしいと言わんばかりにサラは腹を抱えた。しかし目は依然と目は笑っていない。
「あなた達ほど御し易い愚か者たちもいなかったわ。わたくしが貴族に生まれた者だということを忘れていたのかしら。あなた達程度の浅知恵では、決してわたくしに辿り着くことはなかった。現にそこの小娘も、散々わたくしに踊らされていた」
「黙れ!」
ブランクの剣身を前腕を交差させて受け止めると、淑女は嫣然と嗤う。
「毒を盛った張本人であるわたくしの言葉を間に受けて、銀食器を大量に調達された時は、思わず笑ってしまうところでした。しかも、他領の貴族に気をつけるよう進言したら、自ら社交界という情報の場を封じてくれる間抜けっぷり。滑稽すぎてこんな者が貴族の娘だなどとは世間知らずも良いところ。騎士や執事がそんな泥舟に集うはずなどないのに。メイドやダフネ様が見放すまでに時間はかからなかったわ」
「いい加減にしろよ……!」
「そればかりか、勝手に自滅までしてくれている。まるで御伽噺に出てくる料理屋のよう。自らの身に塩まで揉み込んでくれるだなんて……ああ。あなたは一体どこまで愚かなら気が済むのでしょう。どれだけわたくしを笑わせ、満足させてくれたら気が済むのでしょう」
「今すぐその薄汚い口を閉じろ!」
ブランクがそうして気を逸らすと、サラはフッと息を吐いた。それがブランクの顔にかかると、猛烈に目が染みる。そればかりか、鼻水が溢れ、喉の中に強烈な苦味が広がる。目には見えないが、恐らくは毒だった。ブランクは顔の爆発しそうなほどの熱さに悶絶し、声もなくうずくまった。
「外野はあなたなのよ? 慎むべきはどちらかしら──ね!」
「うぁああああっ!!」
ブランクは腹部を蹴り上げられ、胃液を吐き出した。もうやめて! と聞こえた悲痛な声に、ブランクは自身の情けなさを痛感する。彼女を守るばかりか、彼女を追い詰める要因に仕立て上げられている。この狡猾な女をなんとかしなければならない。しかし視界を奪われ、反撃の一手である魔術もたった今酸素を奪われ即効性がない。呼吸を整えたいのに毒が喉を焼き、それも困難を極めている。
「どうして……どうしてこんなことをするの?」
ぽつりと。そんな声がこぼれた。
「わたしは……あなたに何かした? 一体、あなたのどんな逆鱗に触れてしまったら、あのお母さまのように優しかったあなたをここまで狂わせてしまうの?」
燃え盛る屋敷に負けない湿り気を含ませた少女の声が、懸命に理性を保って出した問い。かすかに戻った視力に、ブランクは絶望した。少女にもはやは気力なく、立つことすらままならないのに。あのか細い手足が、果たしてその現実の重さを支えられるだろうか。
「ねえ、答えてよっ!」
「うふふ……」
「おい。やめろ……」轟々と燃える焔に負けないよう、必死に強さをかき集めて絞り出したその疑問の答えを、ブランクは知っている。あの忘れ去られた未来から戻ったブランクだけが、この場にいるサラを除いて知っている。
「あら。知りたい?」
「やめろ……エレノア、聞くな!」
耐えられるわけがない。ここまで擦った揉んだのボロ切れのように痛めつけられ、ようやく取り戻した理性が、縋るように迫った真実の残酷さに、絶対に耐えられるわけがないのだ。
「うるさいわね、あなた」
「ブランクッ!!」
頭を踏みにじられる。こんな人の尊厳を何とも思わない奴が、手心を加えるわけなどない。ブランクは痛みに堪えながら「聞くな、絶対聞くな!」と繰り返す。サラはただ呆れたようにため息をつくと、ブランクの口へと泥まみれの靴を放り込んだ。いつかと違って毒こそなかったが、無力さという燃料を得た怒りは、あの時よりもさらに腹の内を焦がした。
「聞きたいと言っているのだから聞かせてあげるのが世の情け、とというものでしょう?」
その声は夜の闇よりも冷たく、しかし同時に、どこか喜色を孕んで華やいでいた。まるでこれからサプライズパーティでも開くかのように。あるいは、積日の想いを打ち明けるかのように。実る果実へと手を伸ばす農家のように。
「お前が愚かにも先代様──英雄『クロノア・ラーゼンヴァルグ』の足を引っ張り、殺したからよ」
終わったと思った。少女は体の力が全て抜け切り、魂が旅立ったかのように見えた。この言葉を、自分で覚悟して言うのと、他者から突きつけられるのでは意味合いはまるで違ってくる。少女は──エレノア・ラーゼンヴァルグは、どうしようもない悪意に染められた言葉なのに、自他共に認めてしまったことになる。
少女はすとんと膝を畳んだ。ぺたんと地面に座り込むその姿は、魂の抜け殻にすら見えた。あの気高くあった少女をここまで貶めた。サラを斃す方法を、ブランクは知っている。もはや退路はいらない。ここで──死ぬ気で殺す。
「あの時の毒で屋敷を手づから破壊するか……あるいはあの醜男にでも嫁いでいれば、まだ生き永らえることができたものを。ここで楽しみが潰えてしまうのが残念で仕方がないわ」
サラのくるぶしをつかみ上げ、爪を立てる。ギリギリと血の滲むほど爪を立てると、サラがブランクを見下ろした。
「あら。いたの?」
歯牙にもかけぬ物言いも、もはやブランクの心に波風を立てない。炉内にある溶湯のように、それは静かに熱を溜めていた。
「あなたはもう用済み。さようなら」
一瞬。ブランクの顔を蹴るために一瞬靴が口を離れた。ブランクはあらかじめ決めていた文言を、たちまち口にする。
「ゴアド」刹那。サラは容易く姿勢を崩した。精霊の力を身に宿した膂力は、淑女の細足を締め潰さんとする勢いで圧力をかけた。しかしサラは初めて動揺を覚えた様子で、すぐさまブランクの手中を逃れた。それはブランクが油断をしていたとかではなく、氷柱でも握ったかのように、つるりと滑って逃げ出していた。
「正体を現したな……」
ブランクの眼前に。蛇がいる。上半身はサラのまま変わりがない。しかしそれは形だけであり、全身びっしり鱗に覆われている。だが何よりも特筆するべきは、その下半身の大きさだろう。
(ベルベントよりもすこし小さいくらいか……?)
しばらく見ていなかった見上げるほどの巨大な生物。見た目は本体同様にすこし細ましいのだが、あるいはベルベントよりも大きいのかもしれない。ブランクは固唾を飲み、そんなことを考えた。燃える屋敷を背にして、断たれた退路。傷ついた少女を守りながら、単身では勝てなかったベルベント級の巨大な、それも狡猾なこの大蛇に、果たして自分は勝てるのだろうか。圧倒的に不利な状況の中。
『さあ、始めましょう。終奏の輪舞曲を』
「……あなたのね」
ブランクは不敵に笑った。




