第九十一話『落焔崩壊』
ブランクは内心動揺を隠せなかった。裏表のない性格をしているはずのランツが、まさか主君であるエレノアを裏切るなど、思ってもみなかったからだ。しかし、現に今、目の前にいる青年は企みを阻止されて歯ぎしりをし、苛立ちを露わにしている。
「理由……理由だと?」
常の声より低く、鋭く、唸りを含むその声は、明らかな敵意を含ませていた。ブランクの剣を握る手に汗が滲む。わずかに首に触れた冷たい色をしたその刃に、ランツはひとつの物怖じもせずに凄みを利かせた。
「おめ、本気で言ってんのか? おでがなんで怒ってっか、わがんねーか?」
「……分からないよ。分かりたくもない」
この行いがどれだけあの少女を傷つけるかなどと、想像するのも恐ろしい。もしも嘘ならどれほど良かっただろうと、ブランクは今ですら願っている。しかし現実は無情にも青年を敵対させた。弁明があるなら聞きたかったが、言葉をぼかすのならば、その限りではない。
「ランツ……君が僕たちを裏切って、サラについた。それが全てだ」
「……おめ、何言ってんだ?
」
ランツが怪訝に眉をひそめる。意外な反応に、ブランクも戸惑いを隠せなかった。しかし続く言葉を聞いた途端、
「おでが領主様を裏切ったんでねえ、領主様がおでを先に裏切ったんだろうがッ!!」
ブランクの切っ先は容易く鈍った。跳ね除けられた魔法剣は床を転がり、激昂したランツに、ブランクは獣舎の壁に叩きつけられる。肺が苦しい。息ができない。そうして咳き込むブランクに、ランツは構わず追撃をする。
「いいか、おでは獣舎番だ。いくら元カノに馬鹿にされたって構わねけどよ、おでは今までこの仕事に誇りを持って生きてきたッ!」
それなのに、とランツは歯ぎしりしながら唸った。
「騎獣を食べるってのだけは、おではぜってー許せねえよッ!!」
「……そんな、こと…………」
苦し紛れの弁明も、襟を締め上げられてすぐに止まった。
「くっせ口で喋んなッ。おめも食べたんだろ。反吐が出ら。おめは……騎獣たちの名前すら知んねーだろ。おではずっとかわいがってきたから、騎獣たちが誰が誰だか分かる。おでにとって騎獣はもうひとつの家族だ。家族なんだ」
なんで……と、いう言葉と共に、ブランクの手の甲に雫がこぼれ落ちた。ブランクは気がついた。ランツの顔が、いつの間にか怒りより、悲しみの色が濃いことに。
「領主様は、なんでラプトルを食べたんだよぉ……」
「ランツ……」
悔しさに歯を鳴らす青年は、よく見れば痩せこけていた。体を覆う体毛は毛並みが荒く、必要な栄養が摂れていないことは明白だった。ランツは騎獣を、ラプトルを食べなかった。
それだけははっきりと分かった。
「でも、こんなことしたら、エレノアは──」
彼女はさらに追い詰められてしまう。どうすれば良かったのかは分からない。けど、主人と使用人の関係として、裏切りだけは絶対あってはならない。サラはもう及ぶことがない。だが腹心であるランツを裏切らせるわけにはいかない。絶対に説得しなければならなかった。
「そんなこと、おでだって分かってらッ、敵国の野蛮人が、ナマ言いやがって!」
「あ」
世界が傾いた。頬を殴られたのだと気づいたのは、すぐ────、
「──────────……ぅ、あ?」
ブランクはのしかかる目蓋を持ち上げながら、頬についた砂粒を拭った。
「痛ッ……!」顎に負担がかかると、曲がった首に痛烈な痛みが走る。原因は後頭部のコブで、気休め程度に巻かれた湿った布は、もはや生ぬるくて気持ち悪かった。
「ランツ……」
場所が室内に移っていないということは、これを巻いたのもランツに違いなかった。だがその中途半端な優しさは、ブランクの心へ余計に深い悲しみを植えつけた。
「なんでだよ……」
どうして、と言葉を続けながら、ブランクは目蓋から溢れそうな熱を拭った。声を殺し、悔しさを噛み締め、黄昏に焼けた天を仰いだ。ずっと仲良くやってきたと思った。それが、サラについたわけでもなく、しかしどうしようもなく、エレノアを裏切ってしまった。
他に解決策が思い浮かぶわけでもない。ランツの気持ちも、分からなくはない。ただどうしても、彼の裏切りを信じたくはなかった。なんとなく、ずっと仲良くやっていけるのだと思っていた。しかし現実はどうか。彼は自分を敵国の野蛮人だと罵倒し、襲いかかってきた。
「くそっ……!」
ブランクは湿った布を地面に叩きつけた。ランツが唯一残してくれた優しさは泥にまみれ、ブランクはすぐに後悔した。しかしかがんで取り上げようとしても、胸の内に燻った醜い心が、それを許してくれやしなかった。
「くそ……くそっ……」
ブランクは何度も同じ言葉を繰り返した。もはや誰に向けているのかも分からない。ただ一つだけ確かなことは、自分がランツを止められなかったということだ。
(最初の時間が半刻、前回戻せたのが四半刻……)
少ない魔力でも発動できていることを思えば、目覚ましい進化ではある。しかしエレノアは今、どれだけ時間を戻せるだろう。またランツを説得できるだろうか。ブランクがそう頭を悩ませていた時のことだった。
「……え?」
ブランクは屋敷へ向かって歩いていた。それが、今また横になって寝ている。時間にして三十秒ほどだ。たったそれだけの時間が巻き戻っている。何が、と考えれば理由は一つしかないのだが、
「まさか──」
ブランクは嫌な予感に駆られ、もはやふらつくほどもない記憶をねじこまれながら、エレノアの部屋へと向かった。その時だった。エレノアの部屋から悲鳴と共に、ガラスの割れる音が聞こえてきた。
「ハオディ!」
ブランクは足を急がせ、階段を駆け抜ける。数秒、時間が巻き戻ったか。ブランクは感覚のズレで床を踏み外し、あっさり転んだ。今回は五秒ほどだろうか。それよりも気にかかるのは、大熊でも暴れているのかというほどの破壊音である。ガラスや陶器の音だけでなく、石壁や柱まで軋むほどの衝撃が、あの可憐な少女の部屋から聞こえてくる。ブランクは痛みを無視して立ち上がり、扉の吹き飛んだ部屋へと立ち入った。
「エレノアッ!」
入りて瞬間。ブランクは息を呑んだ。エレノアの部屋は竜巻の過ぎ去った後のように悲惨な光景になっており、ベッドやタンス、ありとあらゆるものが壁や床に投げつけられ、絨毯はめくれ上がり、そこいら中に穴が空いている。その中央に。少女は座り込んで泣いていた。
「どうして時間が戻らないのよッ、お父さまぁ、お父さまぁ!!」
「エレノア……」
幼子でも見るようだった。その姿に、貴き者の矜持など微塵もなかった。親に捨てられた子どものように、天をつく霊峰のごとき気高さを誇っていたあの少女は今、まさに子どものようにわんわんと泣いている。ブランクは束の間言葉を失った。
「エレノア、エレノアッ!」
しかし呆けている場合ではない。ブランクは天井に向かって泣き叫ぶ少女に駆け寄ると、その華奢な肩を揺さぶった。
「何かあったの?」
「ぅぁ……ぶらんく?」
エレノアは鼻をぷぴっと鳴らした。もはや淑女教育の敗北を見ながらも、ブランクがそう尋ねると、エレノアは「ぶらんくだあ……」と静かにはにかんだ。
「なんだ、やっぱりわたしをみすてたわけじゃないのね、よかった、ずっとまってたのに、あなたったら、ちっとももどってこないのだもの、しんぱいしちゃったわ。ずっとじかんをもどしてたの。あなたがいるということは、いまはきのうになった?」
目は今にも泣き出しそうなのに、口だけ笑っている。ブランクはその痛々しさに胸を引き裂かれそうになりながらも、
「ごめんね」
と、少女に負担をかけないように笑いかける。気を失っていたとはいえ、自分が半日近くいないだけでこうなってしまった。これは間違いなく自分の責任だ。薄氷の微笑みの裏で、ブランクは静かに自分を責め立てた。──その時だった。
「なんだ……?」
ブランクはガラスの割れる音を聞いた。この部屋でもない。クロエのいる屋根裏からでもない。一階からだ。ブランクはエレノアを待たせながら、恐る恐る窓から外を眺めた。
「なっ……!!」
ブランクは、言葉を失った。眼下に広がるのは人の群れだ。それは、兵隊ではない。この領の民人たちだ。彼らはただの烏合の衆などではない。松明や農具、樫を尖らせた槍など、ありとあらゆる原始的な武器を持ち、屋敷へと集まっている。とても話し合いをしにきたとは思えない光景に、ブランクが背筋を凍らせていると、そのうちの一人が、何かを引きずりながら前へと躍り出た。
「いるんだろ、出てこーい! コイツらがどうなってもいいのかッ!!」
コイツら──? ブランクは視線を滑らせ、ゾッとした。
「ガランド親方、ドマ……!!」
先頭の男が引きずっていたのは、縄で縛られたガランドとドマ達だった。既にここに来るまでに散々痛めつけられているからか、蹴りを受けても大きな反応を見せない。一見すると死体のようにも見えるが、わずかに蠢くのだから、まだ生きていることは確かだった。
「あいつら、何てことを……!」
ブランクがはらわたの煮えくり返りそうな思いを抱いて歯ぎしりしていると、痺れを切らした民衆は、恐ろしい手段を取った。
「出てくる気がねーならこっちにも考えがあるぞ!」
「……おい。やめろ、それだけは──」
ブランクの胸で、戦慄が駆け巡った。暴れる鼓動が酸素を無駄にし、ブランクは鼻と口とで呼吸するのに、苦しさが増すばかりで、ともすれば、肺でも潰れるかと思った。しかし、ブランクの懇願など民衆に届くはずもない。
「死ね、売国奴ッ!」
「やめろぉおおおッ!!」
火炎瓶は放たれた。無情にも放物線描いたその瓶は、物理法則に逆らうことなく、屋敷の一階へと投げつけられた。ガラスの割れる音が響き、低音が広がっていく。ブランクは本当にやりやがったと血の沸き立つ思いで彼らの異常性を理解した。楽園は、容易く崩壊した。
「エレノ──」「いやぁああああッ!!」
ブランクが振り返ろうとした時。そんな悲鳴がブランクの背中から聞こえてきた。声の主はエレノアだ。エレノアは頭を振り、抱え、四つん這いになり、再び泣き叫びだした。
……もう、この状況で逃げ出すのは無理だ。声を聞かれた以上、ここで逃げればガランドやドマは殺されてしまうだろう。何よりも、泣き叫ぶ少女を連れて逃げるなど、怪我をしたまま猟犬から逃げるようなものだ。退路はない。もうブランクは腹をくくるしかなかった。
「エレノア、捕まって」
「お父さま、助けて、お父さまぁッ!」
ブランクはエレノアを抱えながら、自身にプロテマをかけた。
「もうやめろッ!!」
二度、三度目の投擲が行われようとした時、ブランクは高らかにそう叫びながら、二階の窓から飛び降りた。地面の衝撃はプロテマが引き受けたので痛くはなかった。しかし今、目の前にいる群勢は、泣き叫ぶ少女の姿を見て、憐れむわけでも、怒り狂うわけでもなく……、
「あ……」
落胆の色が強かった。やっぱりという興醒めの色。民衆を前にしたエレノアの喉がヒュッと鳴る。するとエレノアの鼻にあった爪一枚ほどの提灯がすこし膨らみ、パチっと弾けた。
「ぷっ」
その時だった。一人の女が、そんな笑い声を噴き出した。高らかに抱腹して笑う様はこの場においては明らかな異質であり、人々は波の割ったように道を開けた。
「情けないカオっ!」
腹を抱えて大笑いするその女は──紛れもなくサラだった。




