第八十九話『くもを掴むような』
「もう一度した方が良いのかしら。どうかしら」
「うーん」エレノアと悩みながら眺めているものはレイスから受け取ったガラス玉である。ダザンから能力を封印する際に渡されたものであるが、エレノアが時間遡行を使えるようになった理由でもある、らしい。らしいというのは、ブランクはエレノアから聞いたからだ。記憶は未だに朧げで、磨りガラスの向こうにあるみたいに、霞んでぼやけてる。
しかしこのガラス玉を用いたことによって、ブランクの力がエレノアへと渡ったというのだ。にわかには信じがたい話ではあるが、いちかばちかで考えるならば、たしかに自分でも思い至りそうな案ではあった。そして事実エレノアは時間を遡ってきたのだ。断片的ながらも、ブランクの記憶がそれを証明している。
「今、使えるという感覚はあるの?」
「かなり魔力を消耗してしまったから、そんなの今すぐには分からないわよ」
「そっかあ」とはいえ、ブランクにしてみればそれだけでも一つの情報だ。ブランク自身、時間の跳躍にそれほど大きな魔力を消耗した、という自覚はあまりなかった。それだけに、エレノアから得られる情報は、わずかばかりでも大きなものがある。
「やらない方が良いのかしら」
「……いや。やれるならやろう」
ブランクは半信半疑にも指の腹を噛み切り、ガラス玉に血を伸ばした。それを受けたエレノアも、目を丸くしてはにかみ、揚々と自分の指を噛み切り、同様に印を結んでいく。
もしもこの行為が徒労に終わるならそれでいい。しかしやはり必要でした、では魔力回復の時間を無駄にしてしまう。ブランクは冷静に計算を立てながら、ふと思いとどまる。
「……印は自分のもので、だったっけ」
ブランクが何の気なく尋ねると、エレノアはしらーっと冷めた瞳で見てくる。ブランクはその緑青色に気圧されて「なに?」と思わずたじろいだ。
「使い方はあなたが教えてくれたんじゃない」
「そうだっけ……」
朧げな記憶を辿れども、ブランクの記憶はひどく断片的だ。彼女ほど確かなものではない。脳裏に克明と浮かぶのは先ほどの凄惨な光景だけだ。それに対して、彼女はどこまで覚えているのだろうか。自分で破壊した窓を、石を投げられたと泣き喚くなど、決して普通のことではない。果たしてその記憶は残っているのだろうか。
だが、もしもそのことを探ろうなどしようものなら、彼女はきっと自分を許せなくなるだろう。そんな恐ろしい現実と向き合うことなど、今の彼女には到底できっこない。余計な好奇心など抱くな。そうやってブランクはかぶりを振って、エレノアの言動を頭の隅へと追いやった。
「しっかりしてよ。もしかして失敗しちゃったとか?」
「いや……ちょっと確認したかっただけだよ」
大丈夫、と付け加えながら、ブランクは肝を冷やした。なんだ、と目の前で胸を撫で下ろしている少女の命は、自分の一挙手一投足に懸かっている。それを思うと、ブランクの心に置かれた重石は途端に一層その重みを増したように感じた。
「魔力は大丈夫なの?」
「そんなに多く消耗しなかったもの。だから平気」
エレノアは早くして、と言いたげに口を尖らせた。そうなるとブランクも、やれることをやるだけだ。心中深いため息をつきながら、されど表情には出さないまま、目の前の出来事に集中した。
「いくよ」
「ええ、きて」
二人は視線と言葉で通じ合い、力を込めた。
「これは……!」
直後、まばゆい光が走り抜けた。目蓋すら突き抜けてくる眩しさに、ブランクはたまらず空いた左手をかざした。視界に映る左手の模様はかすかに薄らぎ、消えかかろうとしていた。……その時だった。
(なんの音だ……!?)
パシッと悲鳴のような音が上がり、光が途端に落ち着いてくる。同時に右手から熱が溢れかえってくる。ともすれば火傷しそうなほど熱かった。しかしそれも束の間で、玉はすぐに冷たくなった。あれだけ滑らかだった表面も、まるで石を撫でているようだ。それに触れる左手の模様は、薄らぎも戻り、神樹の枝葉には、一つ実が成っていた。これが今ついたのか、先ほどからあったのかはわからない。
「エレノア──」呼びかけようとして、ブランクは言葉を詰まらせた。
「あたたかい……」
わずかに大気を震わせたその言葉と共に、右手を愛おしく胸元へ沈める少女。その恍惚とした艶やかな様は、ブランクの言葉を奪うには十分すぎるほどであった。
「──それじゃあ、クロエの様子を見てくるから」
くいとうつむきながら袖を引く少女に、ブランクはそう諭す。エレノアは魔力回復を優先させるべく、眠りにつくことを選んだ。少女は結んでいた桜色の唇をほどくと、きっとよ、きっとすぐ帰ってきてねと、緑青色を潤ませながら訴えた。
「すぐに帰ってくるよ」
ぽんっと被られたシーツ越しに頭を撫でると、エレノアは猫のように目を細め、ようやく袖から手を離した。すると少女はシュルシュルとシーツを引きずりながら、何度もチラチラとブランクのいることを窺いながら、ベッドへと戻っていく。
「おやすみ」ヒラヒラと手を振りながら閉めたドアからは「ん」と小さな返事が聞こえた気がした。
そうしてブランクは屋根裏部屋へと向かった。屋根裏に続く階段はどこか埃っぽい。一目に見て分かるほどではないが、足跡が残るほどではある。行き来をするものがめっきり減って、ここでもやはり大きな顔をしているのは蜘蛛ばかりだ。
「うわっ!」
顔に張りつく蜘蛛の糸に、ブランクは近くの蜘蛛を恨めしそうに睨みつけた。それから糸を断ち切ると、久しぶりに屋根裏部屋の前に立つ。
(昨日はエレノアに任せちゃったからな……)
二日前に戻らないなどと言った手前、話し合うタイミングを見つけられなくて、とうとう一日も顔を合わせじまいだった。このままずるずるいくときっと良くないと、ブランクは意を決して戸を叩く。
「クロエ、いる?」
いくら待てども返事はない。先ほどまでのエレノアの件もあり、大事があるのではないかと一抹の不安も過りながらも、大方手持ち無沙汰で寝ているのではないかと思い扉を開けるのだが、ブランクの予想はどちらも外れていた。
「……起きてたんだ」
「……うん」
ぼうっと窓の外を眺める黒髪の少女は、褐色の頬をこちらに向けるばかりで口数が少ない。入り口に立ち続けるのも何だと思ったブランクが、寝台の近くにあった椅子に腰かけると、クロエは「何か用?」と鋭い声で言った。
「様子を見に来たんだよ。一昨日はあんなこと言っちゃったからさ」
「……何かあったっけ」
ボク覚えてないや、と低い声は取りつく島もない。ブランクは説明しようかと口を開くのだが、本人が気にしてないならそれも良いか、と後ろ頭を掻いて呑み込んだ。
「エレノアが心配してたよ」
「うそだよね」
これまで一つの反応も見せなかったクロエの耳が、ピクリと飛び跳ねた。しかしその声は相変わらず素っ気ないままであった。これは只事ではないなと察したブランクは、ひとまず思い当たる要因で口火を切ることにした。
「エレノアと何かあった?」
「……べつに。かんけーないじゃん」
「クロエ……」
ぷいと窓辺の向こうへ視線を放り投げたままのクロエに、ブランクは十中八九何かあったのだと確信を持った。しかし話の切り口が見当たらない。二人の間の確執は、二人のものである。そのプライベートな領域に、自分などが易々と踏み込んでいいものだろうか。そう頭を悩ませていた時だった。
「おじょーさまに……エレノアに、ひどいこと言った」
「……!」
クロエは、手ずから答えを明かした。その声は先ほどまでとは打って変わって湿っぽく、耳をすませばパタパタと雫が衾を叩いている。悔しそうに唇を噛みながら、少女は動かなくなった膝を拳で叩いた。
「ボクの足が動かないのは、ボクのせいなのに……あの子とどんな顔して会えばいいのか、もうわかんないよぉっ!」
「クロエ……」
歯の根が擦り合い、ミシミシと拳が泣いている。ク
ロエは目からこぼれ落ちる涙の色は、悔しさ一色だった。当然だろう。彼女の動けない、という事実は、結局のところ何一つ改善していないのだから。それに蓋をしたって、こうなることは目に見えていたはずだ。
(僕のせいだ……)
自分の見通しの甘さに反吐が出る。かと言って、ブランクに彼女を歩かせることなどできやしない。医者が──ニカが匙を投げたものを、知識もない自分がどうやって動けるようにするというのか。
(でも、そんなの、魔法でもない限り──魔法?)
思いかけて、ブランクはハッとした。魔法。魔術。それがあれば、できるのではないか? 脳裏に浮かんだのは、この屋敷の主人になりつつある彼らだ。
「クロエっ!」
ブランクは目の前で泣きじゃくる少女の手を握りしめた。
「……なに?」
ずぴっと鼻をすする少女は、珍しく目に戸惑いの色を灯している。ブランクは内に宿った仮説の熱意に押され、それを構わず口にする。
「蜘蛛だよ!」
「くも?」首をかしげるクロエに、ブランクはたまらずもどかしさに「そう!」と勢いだけで肯定する。クロエはその空色の瞳をパチクリさせながら、言葉を待っていた。
「クロエ、君の魔操術は、いくつの鎖鎌を動かせるの?」
「指と同じ数だから、ふつーに十本だけど……」
それが何? と言いたげな眼差しに、ブランクは「だよね、知ってる」と得意げだ。そんなブランクの確認に、クロエの疑問の色は濃くなるばかりだった。
ブランクはちょっと待ってて、とその場を離れると、部屋の片隅に置いてあったケースを引っ張ってくる。それはクロエの使っていた鎖だ。あまりの重さに腰が抜けそうだったが、ブランクはなんとかそれをクロエの目の前まで運んできた。
「そんなもの、ボクにはもう──」
「そんなことない!」
あまりの大きな声に、目を伏せかけていたクロエの肩が飛び跳ねた。ブランクは、ケースから取り出した鎖を握りしめながら、それをずいとクロエの方へと突き出した。
「僕の心が読めるんだろ? 目を逸らすな、ちゃんと見て」
「……あっ」
ブランクの琥珀色と交わった瞬間、少女の止まっていた涙が再び溢れ出した。曇っていた空色がみるみる晴れていく。クロエはすがるように、ブランクの手に、自分の手を重ねた。
「君の魔操術を使えば、鎖で自分の体を支えられるよね? 二本でダメなら四本で。四本で無理なら六本で。君の鎖は足になる。殺すためじゃない、生きるための足にできるんだよ」
「……ありがとう」
くしゃくしゃの顔はすぐに黒髪に隠れた。だが少女の手の震えは、もう止まっていた。




