第八十八話『晴天の霹靂』
時刻は早朝だ。ブランクは鍛錬のために野外で剣を振るっている。以前なら咎める人間もいたかもしれないが、今はそんな人もいない。ブランクは羽を伸ばす思いで剣先を振るうのだが、一向に心の中にある靄は晴れない。軌跡に迷いが生まれ、少年は鍛錬の手を緩めた。
昨日の一件からエレノアは再び自室に閉じこもった。執務にもまったく手をつけていない。屋敷の中はいつの間にか人よりも蜘蛛の方が幅を利かせていて、ここに迷い人が訪れれば、幽霊屋敷だと思うかもしれない。それぐらい手が回っていない。
ブランクもすこしは手伝いはするのだが、やはりこの屋敷を一人で掃除して回るのは無理がある。クロエは足が思うように動かせず、グエンは料理以外はからっきしだ。埃を叩いて広げるだけで、掃除にも才能があるのだと落胆したものだ。
茜色を置き去りにする蒼天を仰ぎ、過日の疲れに黙しながら。ブランクは中庭で一人薫風に煽られながら佇んだ。頭にあるのはやはり腕の中で泣き崩れたあの少女のことである。
彼女はもう限界だ。あまりにも重荷が過ぎる。一つ歳上とはいえ、自分が一年後、彼女の背負う現実を背負えるかと問われれば、甚だ疑問である。むしろ彼女の背負っている過去を思えば、心がその形を保っているだけ奇跡に等しいとさえ思えた。
心を病んでしまえば楽になるだろうに、彼女はそれを自分に許しはしない。きっと、過去の自分の行いが許せないからなのだろう。だからこそ彼女は自分を罰するように働いてきた。しかし、もはやそれすら手がつけられていないとなると、その心労は推し量ることすらできやしない。
ブランクはそう考えながら、左手の甲にある紋様を見た。
「王のルーン……」
ブランクはぼそりと独りごちる。神樹の枝葉が分かれるように左右へ伸びていて、中心には何もない。黄金色をしたその紋様はうんともすんとも言わない。いくら念じたって、その力を発揮しない。
(何が条件なんだ?)
苦虫を噛んだように渋い顔をする少年は、脳裏で過去の出来事を思い浮かべる。一度目は蜘蛛男『ナハク』と戦った時のことだった。指の先が冷え、死を覚悟した時のことだ。
二度目は思い出すのもおぞましい、精神を汚辱された時のことだ。あの時のことはもはや脳裏を過るだけでも寒気が先立つ。
三度目は生きたまま氷漬けにされた時か。思えばあれほど強大な力を操る彼女であるが、その心まで氷のようであれば、ここまで苦しむこともなかったのだろう。皮肉なものだ。
(四度目は……あの時か)
サラによる暗殺劇。あの時は恐怖よりも怒りが強かった。今にして思い返せばゾッとするが、それでもすぐに湧き立つのはやはり怒りである。
サラは今まで相手にしてきたどの敵よりも恐ろしい。直接手を下すわけでもなく、あくまで影から手引きをしてエレノアを追い詰めていく。本懐が見えない。底知れない計略が、袋小路に突き当たったような閉塞感を生んでいく。
(いっそ、僕の力を渡せたら──)
ブランクがそう思った矢先、ガランと空が唸った。見ると三度ほど、雷が駆けては消えた。ブランクは晴れた空に雷の奔ることは文字では知っていたが、実際に見るのは初めてであった。
(晴天の霹靂、だっけ)
賢者の冒険譚で目にした覚えがある。東の果てでそう呼ぶことを。実際目の当たりにすると、驚きよりも畏怖の思いが膨らんだ。
「……屋敷に戻ろう」
ブランクは魔法剣を鞘に納めた。いくら晴れているとはいえ、もしも雷が落ちればひとたまりもない。剣の鍛錬は十分にはできなかったが、いくらか気持ちは落ち着いてきた。
「エレノア、いる?」
真っ先に足を運んだのはあの少女の部屋だった。ノックを繰り返すも昨日のような返事はなかった。布を引きずる音すら聞こえない。もしかして、と最悪の展開が脳裏に尾を引いた時──、
「痛っ!」「きゃあっ!」
扉は開かれた。ブランクの鼻っ柱を折りながら。少女は驚いたように顔をのぞかせると、あら、と意外に高い声で驚いた。
「ここにいたの?」
「ノックもしたのに……」そうやって愚痴っぽくこぼしながら、赤くなった鼻の先を慰めるブランク。エレノアは悪かったわよ、とぷいと顔を背けたものの。ふて腐れたブランクの肩をしっかり掴み、それよりも──、と嬉々とした顔で迫った。
「ブランク、もう一度やりましょう!」
「もう一度って……」何の事だとブランクが記憶を振り返ると──、
「あ──」
脳裏には、あるはずのない記憶が蘇ってきた。エレノアの部屋へと飛び込んだブランクの視界には、おびただしいほど飛び散ったガラス片が散乱していた。
『エレノア、無事!?』
近くにはかすかながらも血痕が飛んでおり、一目に只事ではなかった。ブランクは部屋の隅でうずくまる少女にブランクが駆け寄ると、少女は頭を抱えて震えた。
『石が……石が飛んでくるの……』
『石……?』ブランクは周囲を見渡す。周囲にはガラスの破片が散乱しているものの、カーテンをまくり上げるほど大きな穴を開ける異物は見当たらない。ブランクが疑念に駆られて窓の外を見ると、中庭には白を基調とした金のツタ状の紋様の豪華な鏡台が、見るも無惨に破壊されている。原因は明らかに窓枠をへし折って二階から投げ捨てられたことだった。
『エレノア、あれは──』ブランクは振り返り、ゾッとした。
石よ、あれは石だわ、きっとそうよ。とうとうわたしを殺しに来たのね。そうやって自分に言い聞かせるように恐ろしいほどの繰り言を呟き続ける少女の姿は、いっそ痛々しいまであった。その怖気に口角が強張った。
『エレノ──』
そうやって声をかけようとした時だった。
「──あれ?」
途端に景色は変わっていた。室内にいたはずのブランクは扉の前でエレノアに支えられている。ハッと我に帰ると、ブランクはエレノアが出てきた部屋から外を見遣った。窓の外の太陽は記憶よりもずっと地平線に近く、絨毯や大理石の上にガラス片は飛び散っていない。ついさっきまで脳裏に焼けついていた真実との齟齬に、ブランクはようやく確信を持った。
(予知夢じゃない。確実に時を遡った。それも、僕の力じゃない……!)
一つ考えられるのは、やはりエレノアである。彼女が自分の力を使ったのだろうか。何故。一体どのようにして、という答えは、既に頭の中にあった。夢の終わりを振り返ったような、まどろみの狭間に意識のたゆたう感覚。それがブランクの海馬を侵食してきた。鼻から脳が溶け出しそうな感覚に、ブランクはたまらずふらふらと壁へもたれかかった。
「ちょっと、あなた大丈夫?」
「……平気」
ごめん心配かけて、とブランクは目一杯はにかむ。その努力が功を奏してか、怪訝に眉をひそめるエレノアも、そう、とあまり深くは追求しなかった。
「それよりも……ねえ。早く、こっちへ来て?」
「わっ」
お転婆に手を引く少女の姿に、昨日の憔悴した面影はどこにも見当たりはしない。まさかもう乗り越えたとでもいうのだろうか。それとも夢だったのだろうか。もしかすると認知に歪みが出ていて、自分が思っている以上に時間を遡っているのだろうか。ブランクは結んでいた唇をうっかり開いてしまった。
「ねえ、昨日のことだけど──」
それは、ブランクが言い終えるよりも早かった。
「やめてッ!!」ブランクの手は振り払われた。雷の落ちたような痛々しい金切り声だった。少女は亜麻色の髪を引っ掻き回しながら、呼気を荒げ、ぐしゃりと耳を塞いだ。ブランクは背中に走る寒気に己の不躾さを恥じながら「ごめん、僕が無神経だった」とすぐさま後悔に気圧され謝罪を述べた。するとエレノアは聞こえていたのかいないのか。ゆっくりと耳から手を離すと、前髪の隙間から、鋭く緑青色を光らせた。
「昨日の話は……二度としないで」
「……ごめん…………」瞳孔が開き、汗が一筋、輪郭をなぞった。
エレノアは窓のカーテンがすこし開いてることに気がつくと、窓の外が見えないように幕を引いた。その横顔は今にも死にそうなほど青ざめていた。そうだというのに、瞳を伏せて数秒呼吸を整えると、また少女は笑顔を咲かせた。
「さっ、早く続きをしましょ。わたしったらまだ力の扱いに慣れていないのに、半刻以上も時を戻せたのよ?」
わたしってばきっとすごいのだわっ、ときゃあきゃあ飛び跳ね酔いしれてるエレノアに、ブランクはそれはすごいねと同調してみせる。無意識下での使用だったことを加味しても、エレノアに底知れぬ才能を感じたのはブランクの本心であった。
(けど──)同時に底知れぬ無力感が、ブランクの心を苛んでいる。ブランクは知っていた。この肯定が何の気休めにもならないことを。同時に、根本的な解決には至らないのではないかということを。
ブランクは自分の大きな思い違いに気づいてしまった。時間を跳躍すれば、彼女の悲劇を消せると考えていた。強い思いさえあれば、何年だって超えられると信じていた。しかし実際はどうだろう。彼女の身に起きた悲劇は三年前だ。せめて直近の悲劇さえなくせたらと思っていた。過去自分が何回か時間を巻き戻した時は、ほとんど魔力を消耗していなかった。だが今、もし彼女の全力が半刻とするのならば、その残酷な真実とは──。
「魔力が回復したらまたできるはず! まずはラプトルを取り戻すのっ。それから、寄付金を手付金にして商会に待ってもらって、町工場の職員たちを説得して、もっと戻せるようになったら三年前までっ。クロエの足だって治せちゃうのよっ! すぐにとはいかなくとも、時間をかければきっと辿り着けるはずっ」
ああ、楽しみだわ! と夢を語る少女に冷や水を浴びせることなど、ブランクにはできやしなかった。何故なら皮肉なことに、目の前にいる少女の笑顔は、一切の不純物のない希望を焼べて輝いているからだ。もしこの灯火が失われてしまったら、彼女はどうなってしまうのだろう。考えるだけでも恐ろしい。
「……僕にも協力させてよ」
だから。ブランクは何も言えなかった。




