幕間『雲の上で』
「助かりました……」
「礼には及ばないよ。僕らの仲だろう?」
それは……高くつきそうですね、とニカは苦笑する。服を突き抜けてくる寒さも相まって、ニカは身震いをした。二人が今いるのは雲の上。大鳥の力を駆使し、ニカは一人分の籠の中に入り込み運ばれていた。断熱の魔道具が備わってはいるが、隙間から入り込む寒さは容赦なくニカの体温を奪い、薄い酸素は余計な言葉を奪った。
あの少女はどうなっただろう。弱冠十そこそこの屋敷の主人は、あの少年を抱えて今にも壊れそうになっていた。ともすれば、少年よりもあの少女の方が、目に見えない傷としては重傷であると言えたかもしれない。
そもそも領地運営など十代半ばの少女が抱える責務ではない。元々は執事もいたそうだが、当然ながら部外者には詳しく語ってはくれなかった。離れる直前には使用人もいなくなったと聞くし、訳ありであることだけは確かと言えた。いずれにせよ、あの領地にもう先はないだろう。それだけは確信を持って言えた。
「後悔してるのかい?」
「……まさか」
上から降り注いだレイスの声に、ニカは鼻で笑い飛ばす。あのままあそこに留まり続ければ、教会の手の者に見つかっていた可能性はすこぶる高い。さらにレイスに拾ってもらえたのだから運は尽きていない。それどころか、ツイている。人生とは我が身あっての物種だ。人を助けるのも身銭を稼ぐのに役立つからだし、優しくすれば見返りは何なりと求められる。これまで人を助けてきた理由など、ただそれだけだ。
(……の、はずなのになあ)
あの少女があまりにも哀れだったので、ニカは思わず憐憫をかけた。それをどう受け止められたかは知らないが、自分らしくないな、と素直に思うところはあった。
「唾くらいつけておけば良かったかもしれないですね」
腹の底から湧いて出るのは怒りよりも呆れ。低さばかりは立派だが、そこに中身はない。
「人様の商売道具に唾をつけるだなんて正気かい?」
「わー、うそうそ冗談です! レイスさんじゃないですから!!」
ガクッと緩んだ籠が揺れると、ニカは必死になって命乞いをした。当然冗談ではあるのだが、レイス相手では一つも笑えやしない。クスクス笑うイタズラな青年に、ニカはコイツと心の中で静かに毒づいた。
それと同時に、ニカは普段愛想のないこの男が気にかけている少年のことを思い出した。あの少女もそうであるが、あの少年の何が人を惹き寄せるのか。ニカは降って湧いた好奇心に駆られ「そういえばレイスさん」と切り出し、風の音に負けないよう籠から顔を覗かせた。
「なんだい?」
「あの男の子にいやにご執心ですけど、まさかそっちの気があったり〜?」
ニヤニヤと笑みを浮かべながら、ニカは同類を招くように手を擦り寄せた。どういう意図があるにせよ、こうやって茶化した方が相手の懐に滑り込める、という経験則からだった。しかし、
「なんだって──?」
それを後悔するまでに、時間はかからなかった。
「よく聞こえないよ?」
「なんでも……ないです」ニカは一秒たりと目を合わせることができなかった。
恐ろしいほど冷たい瞳だった。それは先ほど籠が揺れた時よりも肝が冷え、背中に怖気が走り、ニカは、自分の失言を取り消すべく、ひょっと籠の中へと引っ込んだ。心臓は慌てた小動物よりも飛び跳ねていて、ともすれば籠からひっくり返りそうだった。
(こんなレイスさん、初めて見た……)
いつもはどこか飄々としているが、先ほどの殺気は、獲物を定めた猛禽類そのものだった。そして次の瞬間。ニカは拳が固く握られていることに気がついた。
(わたしが……震えている? 男に?)
ニカは自分が許せなかった。男に怯えるのは過去にしたつもりだった。それなのに今の自分の体たらくは何か。情けないったらありはしない。
差し当たってまずは、口角をあげて笑ってやった。次に腿を叩いてやる。笑っていた膝は震えが止まり、胸の鳴りも少しばかりは落ち着いたか。
「あまり暴れないでもらえるかな?」
「すみません、ちょっと寒くて」
顔出すからだよ、と怒られても、もう怖くはない。先ほどのうすら寒さは、きっと高高度の気温のせいだ。ニカはそうやって自分に言い聞かせた。




