部活動本格始動
――放課後。桜の花びらがまだ空中で名残り惜しそうに舞うころ。
吹奏楽部「初動作戦会議」—金管ドタバタ編
山口農林高校・音楽室。
譜面台の群れが“森”みたいに立ち並び、パーカッション地帯は“太鼓の要塞”。その入口で、温也と郷子はトロンボーンを抱えて正座していた。いや、正座させられていた。
「新入生歓迎! 金管の掟、第一条!」
部長の田中(Tp)がホルン横の机をコンっと叩く。隣で副部長の井上(Fl)がニコニコ頷く。
「スライドは絶対に人には向けない。理由は——」
「水が飛ぶけぇ!」と、トロンボーン先輩の佐々木(Tb)が即答。
「そう、水が飛ぶ。愛も飛ぶ。友情も飛ぶ。全部飛ぶ!」
「飛ばんでええやろ!」と部屋じゅうから総ツッコミ。
「第二条、合図は“イチ、ニ、サン、シ”じゃ!」
田中が手を振り下ろすも、パーカッションの木村が間違えてシンバルを「シャーン!」
全員「まだ鳴らすん早いわーーー!」
最初の基礎合奏。
佐々木先生がタクトを上げる。「B♭ロングトーン、いくよ」
深呼吸。音が出る。——出た瞬間、温也の隣の郷子のスライドがツツーッと伸び、譜面台の足にカコン。
「いってぇ(譜面台の気持ち)」と誰かが言う。全員笑う。
「集中、集中!」郷子は頬を赤くした。
温也が小声で「大丈夫、ここからや」と囁く。
「うん。音に、まっすぐ行く」
次はチューニング。
チューナーのAが鳴る前に、中村(Tu)が「ブォ〜」と“地鳴り”。
「誰じゃ今のGくらいの地底音!」
「ごめん、ウォーミングアップが地球規模になっただけ」
「規模戻して!」
笑いが一周して、ようやくA。
個人音合わせ——郷子がB♭を伸ばすと、田中が「いい芯。はい、今度はハーモニーで三度積もう」
温也が三度下に回り、二人の音がぴたりと重なる。
その瞬間、音楽室の空気が一ミリ柔らかくなった。
(あ、これ。音が“混ざる”手応え)
(わたしと温也、いける)
そこへ、打楽器の高橋がメトロノームを落とし、床を「カタ、カタ、カタ…」と逃走。
「捕まえてー!」
井上(Fl)が素早くキャッチ。「はい、テンポ80、再開!」
基礎が終わると、初見合奏。
曲は学園定番マーチ。「テンポ120、元気よく!」と先生。
——鳴った瞬間、パーカッションの山崎がスネアで「ドドドドッ!」力が入りすぎ、テンポが130に。
田中「誰やエンジン積んだん!」
山崎「うっかりターボONに…」
「OFFにして! 手動で!」
二周目。
今度は木低金低セクションのユーフォ・チューバ・トロンボーンがズシンと土台を築く。上モノ(Fl/Cl/Sax/Tp/Hr)が乗っかり、和音が“校門の白看板”みたいにまっすぐ立った。
(いける。ほんまに、全国、見えるかもしれん)
郷子の胸の中に、広島の芝生が淡い緑で広がる。
(遠い平和を願うことと、いまこの音を丁寧に整えること。似ちょる)
休憩時間。
トロンボーン列に、先輩の石井(Tb)と吉川(Tb)がやってきた。
「新入生、スライド注油は“愛の15滴”じゃ」
「多っ!」
「冗談、実際は1〜2滴。愛は心に15滴」
「うるさいわ!」(でも笑う)
「さて——“新入生あるあるチェック”」と石井がカードを取り出す。
《Q1:スライド落下時に発するべき言葉は?》
温也「すみません!」
郷子「ごめん!」
石井「違う。“地面さん、すみません”」
「地面に謝る文化!?」
笑いが止まらないまま、最後に先輩たちが真顔になる。
「でも、音は真剣勝負。トロンボーンは“笑ってるのに泣ける音”が出せる。二人、お前らなら届く」
「はい」
その夜。LINEに届く先輩からのメッセージ。
《明日、朝練6:50。基礎を10分、ハーモニー10分、合奏20分。“音で挨拶”から始めよう》
「音で挨拶……ええやん」
「うん。明日も胸張って行こ」
バドミントン部「相棒未満」—結成前夜の混線
同じ頃、山口第一中学校・体育館。
「新入生、基礎フットワーク行くぞー!」
キャプテン村田(3年)の号令で、前後左右シャドー。
泉はキレ良く動く——が、三本目のサイドステップでつるん。
「す、すべった!」
「ラインテープ濡れとったんか、気をつけーよ」副主将の大谷がモップを持って走る。
「すみません!」
「ええよ。転け方100点。受け身が美しい」
「褒めるとこそこ!?」
基礎打ち。
泉はクリア、ドロップ、スマッシュ……フォームは綺麗だが、力配分が「ぜんぶ全力」。
「泉、そのスマッシュ、午後の授業までもたんで?」
「だって、楽しくて!」
横で仁保宇宙が笑う。「ちょっと肩、貸して。腕の軌道、ここから——」
彼が泉の肘をそっと支え、ラケットの面を一度止めてから「スッ」。
打ち込む泉。シャトルは、ラインのコーナーへスパーン。
「今の、気持ちよ!」
「うん、いまのが“出力7割・音速120%”や」
「単位がわからん!」
次にドライブの応酬。
「泉、美琴、1本ずつ!」
パス回しのはずが、泉の打った球が謎の物理でポスト直撃→ネットを伝って相手コートへ「コトン」。
全員「そんな入れ方ある!?」
美琴「泉、才能の向き、変な方向にも開花しよる」
休憩。
村田が白いボードを取り出す。「新入生ダブルス編成、仮。——“仁保・湯田”の並びが面白い」
泉「えっ……」
ひろ「……(横目で泉を見る)」
「二人、足のリズムが一致しとる。拍の裏で動けるタイプ。混線せん可能性が高い」
その瞬間、体育館に「ピヨピヨ」と小鳥声——いや、美琴のスマホが鳴っただけ。
「アラーム切り忘れた! ごめん!」
一同「空気読まないSEかわいいな!」
ランダムペア練。
村田「じゃ、試しに“仁保・湯田 vs 先輩ペア(市川・藤田)”で3点勝負」
「レディー、プレイ!」
1点目。
サーブ泉。緊張で手が震える——と思いきや、絶妙なショートサーブ。
「ナイス!」
ひろが前へ詰め、相手の甘いリターンに「パシッ」——ネット際プッシュで先取。
2点目。
ラリー長期戦。泉が追い込まれた瞬間、ひろが後ろから「下がって!」と声。
泉は“声の方向へ”半歩引き、ひろが渾身のクリアで体勢を立て直す。
(声、きれいに届く。わたし、走れる)
泉が回り込み、クロスへドロップ。相手が前に釣られた瞬間、ひろのスマッシュが真下に突き刺さる。
「2-0!」
3点目。
先輩、市川・藤田が本気を出す。ネット前で詰められ、泉のラケットが焦って空を切り——
「やばい!」
と同時に、ひろが横から体ごとスライド。ギリギリの面で“すくい上げ”。
シャトルがネットテープを「チュルン」となめ、向こう側へ“転がり落ち”——静止。
「……落ちた?」
「落ちた」
「勝ったぁぁぁぁ!」
体育館がワッと沸く。
村田が笑って親指を立てる。「やるやん、新入生!」
しかし浮かれた直後、泉はラケットを振り上げすぎて天井スピーカーに「コツン」。
全員「そこ当てる人、年に一人!」
泉「選ばれし者!」
「威張らんでええ!」
ダブルス結成式(仮)—コンビ名はどうするの会
練習後。体育館の隅っこ、体育マットの上。
村田が手書きの紙を広げる。《新生ペア案》
仁保・湯田(仮称:未定)
白石・森田
坂本・今井
香川・新井(女子ダブルス)
「で、コンビ名どうする?」と美琴がいちばん食いつく。
「ちょ、いきなり名乗るん!?」
「大事よ。“口に出して強そう”はもう半分勝ち!」
候補が飛び交う。
「“湯田火力発電と宇宙ステーション”」
「長い!」
「“いずヒロ・クロスオーバー”」
「なんか特撮!」
「“桜ドロップ”」
「かわいすぎ?」
「“右は宇宙、左は温泉”」
「ご当地情報多い!」
最後に、ひろがぼそり。
「“ダブル・ピースウィング”ってのは? 広島で——」
泉は目を見開いた。
(ピースウィング。あの日の芝生の緑、祈りの静けさ。力むんやなくて、ちゃんと“届く”名前)
「それ、ええ。めっちゃ、ええ」
村田がにやり。「じゃ、仮登録。“仁保・湯田=ダブル・ピースウィング”」
美琴がすかさずペンで丸を書く。「フォント太くしとくね!」
「フォントの概念いらんけど、気持ちは嬉しい!」
二つの“はじまり”が交差する夜
その夜、家。
温也はスライドを丁寧に拭きながら、メトロノームを80に合わせる。
(音で挨拶。まずはB♭で“おはよう”をちゃんと言えるように)
スマホの画面に“トロンボーン基礎メニュー(先輩直伝)”が並ぶ。リップスラー、ロングトーン、タンギング——“愛は心に15滴”。
郷子は鏡の前で姿勢を整え、深呼吸してからB♭。
(笑ってるのに、ちょっと泣ける音)
音が部屋の隅までふわっと届き、壁の上の桜の小さな写真がかすかに揺れた。
同じころ、泉はシャドーフットワーク。
「右、左、前、下がる、半歩クロス……」
ひろから届いたメモの写真——《出力7割/声の扉を開ける》《“上から取る”じゃなく“前で決める”》
泉は小さく笑う。「声の扉、ね。開ける」
スマホが鳴った。
《コンビ名“ダブル・ピースウィング”登録完了。明日ペア練、目標:10ラリー×5セット!(村田)》
《OK! がんばろ(いずみ)》
《明日も、7割で120%(ひろ)》
《単位!》(いずみ)
翌朝——音で挨拶、そして二人の合言葉
朝練・音楽室。
「B♭—“おはよう”」
金管が一斉に鳴る。
温也と郷子のトロンボーンが真ん中で“太い線”を引いた。
田中が微笑む。「うん、いい。今日は“音で敬礼”まで行けるかもな」
朝練・体育館。
「ダブル・ピースウィング、いくぞー!」
村田の号令。
泉とひろは、ラケットを胸の前でクロスさせてコツン。
「合言葉は?」
「“届くほうへ”」
二人の声が、体育館の木目に吸い込まれていった。
——吹奏楽は、音で世界を“ならす”。
——バドミントンは、シャトルで心を“運ぶ”。
ドタバタも、ギャグも、ぜんぶ抱えたまま。
三人の春は、ちゃんと前へ進みはじめた。
山口農林高校・音楽室
初めての合奏「碧いうさぎ」—ピアノ、静かに全員の心拍数を上げる
譜面台がずらり、金管のベルが朝日みたいに光る。
佐々木先生が両手を打って告げた。
「本日の課題曲は——『碧いうさぎ』。アレンジは“ピアノソロから静謐に始まり、木管→金管→全体”という構成。最初、息する音まで丸聞こえになるけぇ、全集中」
「息まで!?」
郷子が背筋を伸ばす。温也もスライドをそっと握り直した。
ピアノ前。副部長の井上(Fl)が今日はピアノを担当する。
「テンポは♪=72、…のつもりだけど、手が震えたら74になるかも」
「告白が正直!」(部内ざわっ)
先生がタクトを上げる。
——鍵盤に最初の一音。透明な水面に一滴落ちるみたいに、音楽室の空気がフッと変わった。
木管が息を吸う。フルート、クラリネット、オーボエが薄い絹を重ねるように入り……
金管はまだ“待て”だ。トロンボーンの二人は、楽譜上のppを穴が空くほど見つめる。
(入るまで、心臓の音がうるさい)
(これ、わたしの鼓動も“打楽器”やない?)
二人の脳内で、誰かがツッコんだ。
先生「金管、3小節後——合図する。歌いすぎ注意、でもためらわずに」
合図、来る。
温也・郷子、そろえてB♭。やわらかい“支えの線”をまっすぐ引く。
——その瞬間、ピアノと木管の上に、金管の温度がふっと乗った。
(混ざった)
(いま、確かに“色”が変わった)
…と、そこへバルブオイルを倒したのはトランペットの山本。
「ぅわ! 床がつやつやに!?」
先生が微笑で一言。「滑走路にしない」
金管列「りょ、了解です!」
二度目の頭から。
井上のピアノは落ち着きを取り戻し、木管は前より息が揃う。
金管の入りも、呼吸の合図がぴたり。低音のユーフォとチューバが“芝生”を敷き、トロンボーンがその上に“影”を描く。上もの(Tp/Hr)は絵の光だ。
中間部、ハーモニーの厚みが増したところで、先生がそっと言う。
「ここは“遠い記憶を撫でる”音で。強さで泣かすんじゃなく、色で胸を揺らすんよ」
温也は息のスピードを半こま落とす。郷子もタンギングを丸く。
二人の和音が“笑ってるのに少し泣ける”質感に寄っていく。
最後のコーダ直前、パーカッションの山崎がスネアでタカタカ—…のはずが、勢い余ってタカタカタカタカ——!
全員「長い長い長い!」
山崎「すまん、手が四本になった気がして…」
先生「手は二本、心は一個、想いは全員」
テイク3。
終止和音——残響が音楽室の隅へゆっくり消えていく。
静寂。次の瞬間、小さな拍手が自然に起こった。
「よし、“静かな勇気”の芯、見え始めた。金管、ブレス位置マーク。木管、2段目3小節の和声、三度のバランス再チェック。ピアノ、頭のルバートは心拍72で」
温也と郷子は視線を合わせ、小さく親指を立てた。
(初合奏、手応えあり)
(次は、色をもっと塗り分ける)
山口第一中学校・体育館
ダブルス初実戦—「届くほうへ」を合図に
「新入生——実戦形式いくぞ! 8点先取のミニマッチ」
キャプテン村田がホイッスルを鳴らす。
コートA:仁保・泉 vs 2年の市川・藤田。
美琴はタブレットでスコア係。「実況つきでいきます!」
1点目(緊張×物理法則)
サーブは泉。手汗でグリップがすべる——が、結果、予想外に切れたショートサーブ。
相手のリターンが浮く。ひろ、前衛でパシッ。
美琴「先制! いまの“たまたまキレ”は才能です!」
泉「才能の言い方ぁ!」
2点目(合図誕生)
ロングラリー。泉が追われる——
ひろ「届くほうへ!」
合図の瞬間、泉が半歩下がり、ひろが肩越しに高クリアで体勢を立て直す。
泉はすぐ前へ出て、ネット際フリック。相手が上げたところを、ひろが逆クロスにスマッシュ。
「2-0!」
3点目
泉、意気込み過ぎて空振り。ラケットだけが風を切る。
「空気切断完了!」
美琴「ただいまのプレー、空気抵抗の研究に役立ちます」
ベンチ「役立たん!」
4点目
サーブひろ。相手のショートに対し、泉が前詰め→タッチ→そのままローテ。
二人の足音がトン・トンと同じ拍で動き、気づけばコートの“空いてる四角”にシャトルが落ちた。
(テンポ、合ってきた)
(声が、ちゃんと背中を押す)
5点目(奇跡のテープ芸)
ひろのスマッシュを藤田が神レシーブ。逆に押し込まれる。
泉「わ、わ、届くほうへ!」
半歩下がりながらギリギリ当てたすくい上げが、ネットテープをチュルンと滑り——相手コートにコトン。
体育館「おおぉ…!」
村田「それ、毎回は再現できんけど、覚えとけ。**“お守り一本”**や」
6点目(トラップ解除)
相手が前後に振ってくる。ひろが「前、任せた」。
泉は胸の前でラケットを立て、早いドライブで押し返す——カウンター成功。
美琴「いず、目が獲物のネコ科!」
泉「褒めてる? それ褒めてるよね!?」
7点目(事故と笑い)
泉、ジャンプして決めにいったものの、着地で自分の靴ひもを踏む。
ズベッ!
全員「そこ踏む!?」
泉「選ばれし者2年連続!(※初年度)」
審判大谷「意味わからんけぇ、紐結び直して」
8点目(合言葉で決着)
マッチポイント。
相手がストレートに速い球を通す。ひろがブロック気味の面で受け、泉へ浮かす。
ひろ「届くほうへ!」
泉の足が自然と最短の一歩を刻む。前で捉える。
——カコン。ネット際プッシュ、決まった。
「8-3、仁保・泉!」
美琴、スコアに**◎**。
村田が拍手。「合図が武器になっとる。次は“沈むサーブ”と“ローテ後の即声”練習な」
泉とひろはラケットを胸の前でコツン。
「合言葉」
「届くほうへ」
汗で前髪が額に貼りつき、息は上がっているのに、二人とも笑っていた。
(楽しい。苦しいのに、楽しい。いまの一本、忘れたくない)
(いける。一緒なら、いける)
放課後の残響
音楽室。
「ラスト、コーダから。ピアノ→木管→金管、空気を薄く塗り替えるつもりで」
先生の合図。
ピアノが水面を撫で、木管が光を撒き、トロンボーンが静かな勇気の帯を引く。
終止。
——誰もすぐには喋らず、音が消えるのを見送った。
体育館。
「ダウン。ストレッチ——はい、呼吸を整えて、声で終わる」
村田が笑う。
ひろ「おつかれ」
泉「おつかれ! 明日も——」
二人「届くほうへ」
外では、まだ散りきらない桜が、のらりくらりと空に残っている。
音もシャトルも、それぞれの春を運びながら、同じ季節の中で少しずつ強くなっていった。
湯田家・玄関ドタバタ
夕暮れの坂道を下り、汗をぬぐいながら三人は玄関を勢いよく開けた。
「——ただいまーーっ!」
小町が「にゃ?」と顔を出し、郷子の脚にまっしぐら。
「こまちゃん、ただいまぁ!」郷子がしゃがみ込むと、小町はゴロゴロ喉を鳴らしてすりすり。
温也は羨望を隠せず、半分本気で言った。
「……俺も郷子の脚にすりすりしたーい」
間髪入れずに泉が仁王立ちでツッコミ。
「お兄ちゃん、今日もまた減点! このエロ温〜!!」
小町も「にゃあっ」と鳴き、兄を断罪。
温也は胸を押さえ、芝居がかった声で崩れ落ちる。
「猫まで俺にツッコミ……家庭内での地位が……」
郷子は笑いながら小町を抱き直し、
「すりすりは猫の専売特許。人間代表は皿洗いで勇気を見せなさい」
と突き放した。
そのとき、奥の台所から声が響いた。
「おかえりー! お風呂わかすの忘れんでねー」光(父)が鍋をかき混ぜながら叫ぶ。
「泉、野菜洗っとってー」瑞穂(母)がエプロン姿で顔をのぞかせる。
泉は「はいはい」と靴を脱ぎ捨て、台所へ直行。
温也は渋々、風呂掃除の担当を引き受ける。
郷子は小町をなでながら微笑み、
「じゃ、また明日。ごちそうに呼ばれる日を楽しみにしとくね」
と手を振り、自宅の上田家へと向かった。
上田家(望・桜)、真正面にただいま
道路を渡って真向かい。郷子が上田家の玄関を開ける。
「ただいまー」
居間から父・望が新聞をたたみながら出てくる。
「おかえり。向こう(湯田)寄って来たんじゃろ?」
郷子は靴をそろえ、笑ってうなずく。
「うん。こまちゃんが“歓迎モード”でな、可愛ゅうてたまらんかったわ」
台所から母・桜がひょいと顔を出す。
「郷子、手ぇ洗うてから座りんさい。ご飯、冷めてしまうけぇ」
「はーい。…あ、向こう、今から風呂洗う言いよった」
望がニヤリ。
「温也くん、働き者じゃの。ええこっちゃ」
桜がちゃぶ台にお椀を並べながら、ちらりと娘を見る。
「向こうは賑やかでええね。うちは一人っ子じゃけぇ、ちいと静かすぎる時あるけど」
郷子は手を拭きながら、肩をすくめる。
「静かなのも好きじゃけど、やっぱ向かいが賑やかじゃと、つい渡ってまうね」
望がうんうんとうなずく。
「それでええ。それが“向かいのご縁”ちゅうもんじゃ」
窓ごしの手ふり、行き来する声
ちゃぶ台に座る前、郷子は窓を少し開けて、向かいの湯田家の窓へ手を振る。
向こうで泉が気づき、泡まみれの温也の背中を指さして、声を張る。
「郷子先輩ー! お兄ぃ、泡だらけー! ちゃんと流しちょるんかねー!」
温也も窓越しに親指を立てる。
「流しちょる、流しちょる! ほれ、ピカピカじゃけぇ!」
瑞穂の声がすぐ飛ぶ。
「はい、遊ばん! 早よう上がりんさい!」
光の低い合いの手。
「泡、床に落とさんようにのー」
郷子は吹き出し、窓をそっと閉め直す。
「…ほいじゃ、うちも座ろ。お母さん、手伝うことある?」
桜が笑顔で首を振る。
「今日は座っとき。話、ようけ聞かせて」
望が湯呑みを差し出す。
「ほれ。まずは一服。学校、どうじゃった?」
郷子は湯気に顔を近づけ、素直に話し出す。
「合奏、ええ感じにまとまってきちょる。…明日も、がんばるけぇ」
桜がうん、と頷いて箸を手渡す。
「ほんなら“おかわり頑張れ”の味にしといたけぇ、食べて力つけんさい」
望もにやり。
「向かいの“応援席”もついとる。なんぼでも行き来しんさい」
その夜、それぞれの家で
――湯田家では、皿がカチャカチャ鳴り、猫が境界線で見張りをしちょる。
――上田家では、ちゃぶ台の上で湯気がゆらぎ、望と桜が合いの手を入れながら、郷子の話を最後まで聞いちょる。
道一本、真正面。
「また明日ね」という手の合図が、夜のあいだも行ったり来たりし続けた。
食卓のあと
光が食器を片づけながらぼそっと言う。
「泉、よう食うたなぁ。もうご飯なくなっとるやん」
泉は口を拭いながら、悪戯っぽくにやり。
「そら部活帰りやもん。お兄ぃの三倍は動いとるんやで」
「誰が三倍や、誰が!」温也がすかさず突っ込む。
瑞穂が笑いながらお茶を差し出す。
「はいはい、兄妹喧嘩はそこまで。温也は風呂洗いやで」
「ほな、しゃーない。小町監督、点検頼むわ」
にゃー、と小町がすぐに応じて、足元をうろちょろ。
風呂あとの廊下
シャワーを終えた温也は、タオルを首にかけて廊下を歩く。
ふと窓の外を見ると、向かいの上田家の二階に灯りが揺れていた。
カーテンが少しだけ開き、郷子の顔がひょいとのぞく。
温也が片手を軽く上げる。
「(口パク)今日もおつかれ」
郷子が笑って返す。
「(口パク)あんたもやで」
二人の間に沈黙が落ちる。だけど、その沈黙は気まずさやなく、心地よい。
小町が窓辺にぴょんと飛び乗り、「にゃ」とひと声。
「小町まで参戦か」温也が肩をすくめると、郷子は両手で口を押さえて笑った。
寝る前のやり取り
布団に潜り込むと、スマホが小さく震える。郷子からや。
《お風呂あがった? こっちは今、お母さんに温かいお茶もろた》
温也は打ちながら笑みをこぼす。
《あがったで。小町が真ん中占領してんねん。俺どこで寝たらええんや》
《そら端っこやろ。猫様最優先や》
《そない言うと思ったわ。せめて夢の中ぐらい真ん中で寝かせて》
《夢の中やったら特等席あげるわ》
画面が暗くなる。布団の上、小町がとん、と尻尾で合図を送る。
「お前も聞いとったんか。…しゃーない、端っこで寝よか」
「にゃ」
向かいの家の灯りが静かに落ちたのと同時に、温也の目もゆっくり閉じていった。
入浴後の郷子
湯気をまとったまま、郷子は髪をタオルでざっくり拭きながら自室へ入った。
窓越しに見える湯田家の明かりは、もう一つ、また一つと消えていく。
(温也も、もう布団入っとるんやろなぁ)
パジャマに着替え、布団に腰を下ろした郷子は、迷いなくスマホを開いた。
指先で文字を打ち込み、少しだけ照れながら送信ボタンを押す。
《明日もまた頑張ろうね♡》
送った瞬間、胸の奥があたたかくなった。
(言えへんことも、文字やったら素直に言えるわ…)
灯りを落とす前
スマホを枕元に置き、カーテンを半分だけ閉める。
夜風がすこし入り込んで、髪をさらりと揺らす。
郷子は布団に潜り込み、声を潜めてぽつりとつぶやいた。
「…おやすみ、温也」
その響きは誰に届くわけでもないけれど、向かいの家にいる彼へまっすぐ届く気がして、郷子は安心した笑みを浮かべる。
やがてまぶたが重くなり、胸に小さなときめきを抱いたまま眠りに落ちていった。




