雷炎
不自然があふれていた。
雨が降っていない。しかし外に出てみてわかったのは、台風の目のように局所的なものであるということ。遠く、麓の町を眺めると、上空を覆う黒闇が途中で途切れており、その先ではしんしんと雨が降っていた。黒闇が傘となって雨を受け止めているだけのようだ。理屈はわかったとはいえ、住宅街を全て覆うほどの規模感には困惑せざるを得ない。
それと、人がいない。誰かとすれ違うことが一切なかった。それだけならまだしも、隣を過ぎていく家のいずれも明かりがなく、中に人のいる気配もない。避難している様子もなければ、隠れているとも違うように思える。まるで元々そこに人など住んでいなかったような、抜け殻のようだ。
何が起きてもおかしくはない歪な状況にいる。それでも住宅街を走り回って彼を探す。
「どこにいるんだ…セト…」
セトの家には鍵が掛かっていた。インターホンを鳴らしても返事はなく、既に彼は家を出た後だった。
彼の行先が具体的にわからない以上、住宅街の通路を総当たりすることも考えた。しかし実行していない。あてが一つだけあった。
上空を漂う黒闇の発生源と思われる場所が、連なる屋根の奥に見えていた。黒闇が縦に伸び、狼煙のようになっている。おそらく爆発音と雷鳴が起きた地点も同じだろう。危険ながらも行く価値はあった。
狼煙が徐々に近くなる。近づけば近づくほど体感温度も上がっていく。角を曲がればもうすぐ、といったところで突如何かが空に打ちあがるのを見た。
咄嗟に家の物陰に隠れ、それを確かめる。造形は人、畏まったホワイトタイに長い黒刃の剣を背負う。黒く燃える仮面で顔を隠し、真っ赤な眼光を周囲に向けている。
セトではなかった。この事件の元凶――“夢報者”だ。
教科書の言葉を借りるなら「獰猛にして狂気そのもの」。夢報者の全身は闇で構成されており、人を形作る光を忌み嫌う。人の世界を突如襲っては不敵な笑みとともに去っていく。意思を持っているのは判明しているが、目的や出現方法など謎の多い存在だ。
鋭い眼光が一瞬こちらを向いたように見えたが、気づかれた様子はなく反対側へと飛んでいった。これをチャンスと捉えすぐに狼煙の元へ走った。
角を曲がった瞬間、尋常ではない質量の熱風が襲いかかる。視界が一気に曇る。猛烈な焦げ臭さと熱さにやられて身体がうだり、呼吸もしづらい。
先に広がっていたのはまさに地獄絵図だった。地面は割れ、大穴がそこかしこに開き、地滑りしたような大きな起伏が出来ている。横並びの家々に黒い炎が纏わりつき、屋根、壁、庭木、柵、自動車、物の分別なく自身を強める火種と化す。
地獄の中心に、セトが倒れていた。
「セト!!」
なるべく身を低くして彼の元に走り寄った。
「うるう…!?おい、なんでここに来た!」
彼は僕を見て声を荒らげる。
「セトを助けるために決まってるよ!」
「バカ野郎ッ!さっさと…逃げろ!!」
「何言ってるのさ!見捨てることなんて出来ないよ!今、手を貸すからっ!」
彼の軽装は傷だらけの肌を晒した。全身の血脈をなぞる様な深い斬り傷が痛々しい。創造力の痕跡なのか、足の筋肉が微かに光って膨らんでいた。とても一人で立てる状態ではなく手を貸そうとするも、彼は再度拒む。
「俺に構うな…ぁっ!一人でここから離れろ!!」
「嫌だ!絶対助けるからっ!」
「お前には見えねえのか!!空を飛んでる奴が…!!」
「夢報者ならさっき遠くに行ったよ!」
「違う…。蝙蝠がいるだろ…!!!」
「蝙蝠…?」
空を見る。さっきまでは狼煙のせいで見えていなかった。鳥とは違う動物が大きく羽根を広げて、円を描いて飛んでいる。その造形は奇妙で、蝙蝠というには目の辺りが出っ張り、胴体もやけに大きい。
「何…あれ」
「趣味悪ぃ。あいつの身体にはアクションカメラが埋め込まれてる…。俺らは撮られてるんだよ!!監視されてるんだよ!!だからーー」
こんにちはぁ。
あるはずのない手に、突如うなじを掴まれる。
地面から足が離れていく。身体が宙に浮かばされていた。
「彼のお友達ですよね。少し付き合ってもらえませんか?」
有無を言わさず、食い込んだ指が一本一本異常な熱を纏う。鉄板に擦り付けられるような、皮膚が溶け、剝き出しになった血肉が破壊されていく感覚。
神経の痛みすべてを吐き出すように、ただ叫んだ。
動ける範囲内で精いっぱいあがくが、手は離れない。
「がぁぁぁあああっっっっっ!!」
強い憎しみを現実に呼び起こし、右手のひらに光の剣を取る。力のままに首の真後ろに向けて突き刺した。闇雲に、何度も試みたが、空を切るだけでそこに相手の腕はない。
「可愛くも可哀そうなご様子、素晴らしいですよ」
喉を焼いたカラカラ声で夢報者は笑う。やがて食い込む指の熱だけが引いた。欠くことも掻くことも出来ない強い痒みに、相手の指がさらに噛みついてきた。
息が、うまくできない。いつの間にか光の剣が手元から消えていた。そもそも、腕が動かなかった。
「その手を…離しやがれ…ッッ!!!」
セトが地を這いながら唸る。
「いいですよ。その代わり、先ほど言った条件は呑んでくださいね。今ならサービスもお付けしますよ。ご覧ください、喉を斬るには程よいナイフだとは思いませんか」
「ふざけんじゃねえッッ!!」
すかさず雷鳴を伴って雷が落ちる。落下地点は夢報者の声がしていた位置だった。稲光が一瞬、闇だらけの世界を明るく照らした。
だが、一瞬だけだ。
「はぁ。つまらないですね。もっとアツい男を想定していたのですが…」
背中からの陽気な声色に揺らぎはなかった。
うなじを引っ張られ、さらに身体が上空へと浮かされていく。抵抗も出来ぬままひたすら地面が遠ざかっていく。
セトが何か叫んでいるが聞き取れない。黒闇が濃くなっていき、段々と吸える空気がなくなってきた。
身体を流れる血の動きが鈍くなっていくのを理解した。耳の中に灰が積もって、鼓膜を覆っていくのを理解した。たとえ命令をしようとも自分の身体はもうどこも動けないのを理解した。
感覚的に全て理解できてしまった。ここで、終わるのだと。
垂直距離一八・四四メートルに達したところで首輪が外れた。枷も拠り所もない自由落下。朦朧とした意識の中、愉しげな声だけが聞こえた。
「ツーアウトからの満塁ホームランっ♪」
僕は銀色の刃に討たれた。




