闇
話しながら歩くと、その一歩一歩が自然と小さくなっていく。しかしゼロにはならず、どうしても前には進んでいく。時間も止まらなければ、楽しい一時もいつかは終わりを告げる。
僕らはもう、家の前にいた。
「また明日な、うるう」
セトから傘を返される。ただ、手に取るのを少し躊躇う自分がいた。そんな自分を彼の言葉を借りて説得する。また明日があるのだと。
「うん。また、明日ね」
傘を受け取った。
「アンナさんもまたー!」
去りゆくセトに、彼女は笑みを返した。
玄関を開けてただいまを言うと、すぐ隣からおかえりなさいと返ってきた。用意してくれていたタオルで軽く雨粒を払うと、そのまま自分の部屋に直行した。
制服を脱ぎ捨て、私服に着替える。部屋の中央でリュックをひっくり返す。教科書などが濡れていないか心配だったが、一通り目を通した限り杞憂に終わってくれた。
教科書の山の中、一緒にひっくり返っていた黒いケースに手を伸ばす。今はもう影も形も無いが、確かに甘いハートの入っていた弁当箱である。
「お礼言わないと、かな」
濡れた制服と弁当箱を抱きかかえて階段を駆け下りる。制服を洗濯かごへ放り投げると、アンナさんのいる居間に入った。
「う、うるうくん?」
彼女は咄嗟に持っていたレシピ本で足を隠す。湿った素足がヒーターに照らされて光っていた。白いタイツが椅子の背に掛けられている。
「ご、ごめん。ノックした方がよかったよね」
「んーん。うるうくんの家だもん。私のことは気にしないで、どこでも好きに入っていいんだよ」
足をタオルで拭って、彼女はヒーターの前から離れる。
「私は居候なんだし。うるうくんはもっと亭主関白になってもいいんだよ」
「亭主関白なんて…なりたくないよ。アンナさんにはいつも本気で感謝してるんだから。生活スキルのない僕をアンナさんが支えてくれてるから、こうして元気にいられるよ。…そう、今日もお弁当ありがとう」
弁当箱を彼女に返す。
「とっっっても美味しかったよ。アンナさんの料理はいつも想像を超えてくるんだ。ご飯ってこんなに美味しかったんだな、って。それに今日は…さ……サプライズも…あったし…」
急に照れ臭くなってきて言葉に詰まる。
ラブベントーを受け取った時に返す言葉など僕は知らない。ラブレターだとしても知らない。もっと何が言うべきことがある気がするのに、その答えを出せずにいた。
「私の努力の結晶は、どうだったかな?」
彼女の落ち着いた声、優しい笑顔が返答を静かに待ってくれる。僕はゆっくりになってでも精一杯に言葉を紡いだ。
「美味しかった…けど…その。…ハートは……恥ずかしいよ…」
羞恥心を押し殺してはっきり伝える。今後はやめてほしい、という不満にもとれるニュアンスになってしまったのはすぐに反省した。
「むふふ…」
でも小悪魔な彼女は気にもとめずイジワルに笑う。
「ごめんね、困らせるつもりはなかったんだ。喜んでもらえるかなって…つい…」
「嬉しかった!すごい…嬉しかったよ!」
先ほどの反省を活かすように、強めに喜悦を伝えた。
「誰かからハートの形をしたものを貰うなんて初めてだったから…こう…胸がドキドキしちゃって……ちょっとパニックになっちゃったりしたけど…。…でも!この感情がかけがえのないものなのはわかるからっ!!この嬉しさは本物だからっ!!」
この気持ちの正体がわからないからと言って逃げることはしなかった。まっすぐ彼女の目を見て、とにかく正直な想いを言葉にする。それが僕なりの答えだった。
「そっか…。本当に、ありがとうだよ」
この気持ちはアンナさんに届いたのだろうか。彼女ははにかむ様子で後ろを向いた。
静寂が漂って、彼女は照明を見上げる。お弁当箱を持った両腕を背中で交差させ、逆光を浴びる。
「今日、晩ご飯早めでもいいかな?」
「いいけど…どうして?」
彼女は振り向いて晴れやかな笑顔を見せる。
「ナイショ!うるうくんは部屋で待っててっ!」
何故か背中を押されて部屋を追い出された。彼女が入口の扉を閉める直前、「楽しみにしててね!」と言い残したので、期待していいことのようだ。
階段を上っていく足が少し軽かった。満点ではないものの、自分としては頑張った答えを出せた。アンナさんとの距離もまた一歩縮まった気がした。
でも、隠し事とは一体何なのだろうか。部屋に戻って、電気もつけずにベッドの上で考える。何か特別な料理でも作ってくれるのだろうか。
色々な想像が膨らんでいって、創造となって僕の周りに浮かび上がる。ただ、早々に全部食べて飲み込んだ。変に期待しすぎて、いざ違って落ち込むのは筋じゃない。
ならば考える必要などない。彼女は確実に僕の舌をうならせてくるのだから。
部屋の電気をつけた。まだ山になっていた教科書を一通り机に移して、創造学の教科書を栞から開く。
カーテンが朝のまま開いていたので、一度机を離れて手をかける。
視線は窓の外に向く。僕は無意識にその“違和感”に引き寄せられていた。
静寂。吹きすさぶ風も打ちつける雨もそこになくただ静寂であった。
ついさっきまで結構な嵐だった。とても明日まで止みそうにないほどに。それが今元栓を閉めるようにピタリと止んでいる。ただし世界は決して晴れておらず異様に暗い。上空を見上げると低く厚い雲が空を覆っていた。まるで――煙のような。
胸騒ぎがした。外を確かめようと窓を――――
けほっ。
咳き込む。窓を開けた瞬間に何か、黒い何かを吸いこんだ。身体が本能的に拒絶し交わろうとしないもの。光と、相反するもの。
“闇”。
高笑う爆発音と唸る雷鳴、いずれもそう遠くない場所で同時発生した。
一帯の電気が途絶え黒闇に覆われる。届いた爆風に黒闇が乗り、一気に部屋の中になだれ込む。宿題のプリントを巻き上げながら呼吸の余地を穴埋めされていく。
手探りでドアノブを見つけ部屋を飛び出した。階段を下りる足が焦る。躊躇なく居間の扉を開けてすぐ彼女の姿を探す。
「アンナさん!!!大丈夫っ?!!!」
「やっぱり…」
その背中を確かめてひとまず安堵の息をこぼす。彼女は外を眺めていた。
「うるう…くん…」
ワンテンポ遅れて彼女と目が合う。今にも泣き出しそうな瞳から、彼女の不安が直に伝わってきた。
彼女が震えた手を伸ばす。僕の身体に触れかけて、一度止まった。僕は臆さずその手を握り返した。
「大丈夫。僕が…そばにいる」
そういう僕の手も震えていた。安心してと言うにはあまりにも情けない手だ。鼓動が乱れて落ち着く気配もない。それでも、その震えが伝わってでも彼女の手を取りたかった。
「そば…に……」
彼女の握り返す力が強まる。彼女は感情をさらけ出して大粒の涙を流していた。
「ごめん…ごめんね…」
握った手は離さず、涙を隠すように俯く。僕は「大丈夫だよ」と何度も繰り返しなだめた。
彼女の心が落ち着くのを静かに待った。ただ同時に、あまり時間の余裕がないこともわかっていた。
近くに、脅威がいる。おそらく住宅街は今、戦いの舞台となっている。先ほどから爆発音が鳴りやまない。
幸い外に漂う黒闇の濃度はまだ薄い。これがあと二十分もすれば僕は息も出来ず動けなくなってしまうだろう。今すぐこの手を引いて彼女と逃げるべきだった。
しかし、頭の隅で別の懸念が膨れている。僕には彼女ともう一人、大切な人がいる。
窓の外を光が駆け雷鳴が再度聞こえる。その音は先ほどよりも弱々しく、内なる不安をえぐってくる。
「…アンナさん」
結果として彼女の支えを自ら外すことになっても、僕は焦燥を抑えられなかった。
「きっとここもすぐに安全じゃなくなる。アンナさんは一人で山を降りて」
「うるうくんは…どうするの…?」
「セトを探してくる。多分、家にはいないんだ。クラスメートの家に遊びに行くって、言ってたから」
彼は昔から何かと無茶をする。誰かが止めないと、彼は何かを犠牲にしてでも突き進もうとしてしまう。
「セトを止められるのは…この世界に僕しかいないんだ」
彼女は俯いたまましばらく黙っていた。問い詰めることも引き留めることもせず、ただ静かに手を強く握る。
沈黙の間、部屋の影が輪郭を帯びて絡みついた。僕をひび割れた花瓶の中に押し詰めようとしながら、引き裂いて水槽底の珪化木へ埋める。一途な心根が張りつく。
「…うん」
彼女が顔をあげた。手が離れていく。
「怪我しちゃ…ダメだよ」
「大丈夫。ちゃんと無事でセトと一緒に逃げてくるから」
目を滲ませながら僕の言葉に優しく頷いてくれる。彼女は僕のわがままを許してくれた。
玄関で一旦両手に光を纏わせる。授業の時に使った〈精神〉は完全に回復している。準備は万端だ。
〈精神〉を体内に戻し、今一度彼女と顔を合わせる。涙で顔を崩しながら、それでも笑ってくれていた。彼女が笑ってくれるなら、僕も笑顔になれる。恐怖心さえも紛れてくれるのだ。
「それじゃあ、いってきます」
「……いってらっしゃい…っ!」
勇気を以て家を飛び出した。




