人参
降りやまぬ雨と黒闇の雲をじっと眺めていた。その動作に意味はなく、特に何か考え事をしていたわけでもない。
というよりも何も考えないようにしていた。僕はどうも自己否定が得意なようで、何か楽しいことを考えようとしても、小さな取っ掛かりによってすぐに厭世的になってしまうタイプの人間だった。
だからこそ僕は、ある意味何も考えないことで準備をしていたのだ。
「おーい!うるうー!」
彼と笑顔で帰るために。
セトは見知らぬ男子生徒と共に向かい側の昇降口から出てきた。生徒と別れると、僕のいる西棟の昇降口に走ってきた。さす傘もなく、ものの数秒でびしょ濡れになる。
「すまねえ、待たせちまったよな?」
「ううん。全然平気だよ」
十五分ほど待っていた気がするが問題にはならない。とても些細なことである。
傘を開いてセトを中に入れようとするが、セトの身長に合わせると僕の手はまっすぐ上に伸ばした状態になる。とても保てたものじゃなく、セトに代わりに持たせた。
「うるうの傘がデカくてほんと助かったぜ」
そうは言ってもセトの半身は外にはみ出ていた。僕を濡らさないための優しさにも思えるが、傘を持ってこなかったセトが悪いだけである。ほんの少しだけ身体をセトの方に寄せたくらいで、気は遣わなかった。
大きい水溜まりをいくつも避けながら、それでもセトから離れないようにしながら学校前の細道を歩いていく。路肩の低木が雨粒を激しく弾いて煩く、声を張り上げて彼に話しかける。
「さっき一緒にいたのって、もしかしてお昼に言っていた人?」
「おうよ。変な口調してるが悪い奴じゃなさそうだぜ。今度紹介してやるよ、お前のことも気になってるようだし」
「僕のこと?どうして?」
「さあな。俺がよく話してるからじゃねーかな」
大通りに抜けると、すぐそばの交差点を渡った。今度はちゃんと青信号だ。
「僕はやっぱり地に足がついている方がいいな」
「そいつは違うぞ、安心安全なのは空のが上だ。転ぶこともねえし、車もぶつかってこねえ。空を飛ぶのに慣れてねーからそう思っちまうのさ」
「慣れてないって…そりゃあだって人間に羽根なんて――」
言いかけた言葉を切って辺りを見回す。ふと、見知った気配を視界の端に感じ取った。
道ゆく先で花柄の傘が揺れている。顔は見えないが確証を持ってその名を出した。
「アンナさんだ」
「よくわかるな。結構距離あるぞ」
言われてみれば、目測でも十メートルは先にいた。一つ先の交差点をちょうど渡っているところだった。
「こっち気づかないかな」
アンナさーんと呼びかけてみるも、激しい雨音のせいか彼女は聞こえた素振りを見せない。
「パワーが弱えな、見本見せてやる」
ああああんなぁぁぁさぁああああああんんんん!!、と隣の馬シカが空に向けて叫ぶ。それでは呼びかけじゃなくて救難要請である。
流石に声は届いたようで彼女が振り向く。僕らは早足で彼女に追いついた。
「セトくんこんにちは!うるうくんはおかえりなさいかな?」
「うん!ただいまっ!」
「ちわー。うちのうるうがいつも世話になってまーす」
セトの意識が完全に彼女の方へ向く。傘の持ち手がいい加減になり、おかげで僕の全身がびしょ濡れである。今すぐ返してほしい。
彼女の服装は朝のままだったが、ポニーテールは解いて青紫の髪留めをつけていた。 何やら買い物帰りのようでエコバッグを手首に下げている。中身は多くなく重くもなさそうだが、彼女のスレンダーな腕では何を持つにしても心もとなく感じてしまう。
「この男前が荷物持ちますよ」
バッグへ伸びていくセトの手を捕まえる。
「僕がやるから、セトはちゃんと傘持ってて!」
「ちぇー」
怪訝そうにしながらも傘は元の位置に戻った。バッグを受け渡す彼女が小さく笑う。
「二人ともありがと。本当に仲良しなんだねっ」
彼女の言葉は嬉しくもくすぐったかった。「そんなことないよ」と反射的に返した。
アンナさんの歩幅に合わせながらゆっくり足を進める。僕は自然と、この世界にたった二人だけいる友達に挟まれていた。三人で並んで歩くなんてことは今の今まで無かったのに、不思議と馴染み深くて心休まる空間になっていた。
アンナさんとセトの直接的なつながりは薄い。話したことも数えるほどしかないはずだ。ただ気が合うようで、互いに話しやすそうではあった。
商店街のアーケードに入り傘を閉じる。朝通り抜けた時よりも賑わっており、町中の奥様方やご老人が集まっているような印象を受ける。爽田中高の学生も多かった。
「色んなとこから旨そうな匂いがすんなあ。お、焼き鳥発見」
セトは一片の迷いもなく焼き鳥屋で、ももとつくねを買ってきた。その速さはあまりにも欲望に忠実と言えるほどだった。
「何も考えずに買ったね」
「考えたかどうかなんて関係ねえの。何か食いたい腹の虫と、美味いもん食いたい俺と、食べられたい焼き鳥と、焼き鳥売りたい店主。その全ての意思が一つになっただけだ」
また何か知的っぽいことを言っている。
「セトくんってもしかして哲学的な人なの?」アンナさんが言う。
「違うと思う」
「もしやアンナさん、俺の天性に気づいちゃった?」セトが言う。
「違う。絶対違う。ぜーったいに違う」
「なんか俺にだけ当たりきつくねえか?!」
機嫌を直せと、セトが串の根元に一つだけ残ったももをくれた。持ち手が突っかえて食べにくいものの、美味しさに間違いはない。鶏肉の柔らかい噛み応えと濃いタレが絡み、一口サイズでも大きな満足感を得られた。
「うん、美味しい。おかわり」
「欲張りかよ」
そうは言いながらつくねもくれた。優しいかよ。
その小ささに反してつくねも、ももに負けず劣らずの食べ応えがあった。段々お米が欲しくなってくる。
つくねを堪能していると、ふと、アンナさんと目が合う。彼女は僕をじっと見ていたようで、誤魔化す素振りで微笑んだ。
「うるうくんって本当に美味しそうに食べるよね」
「そうかな?」
つくねを飲み込む。
「うんっ。その笑顔は料理を作った人を幸せにする笑顔だよ」
褒めすぎなくらいの言葉に、照れて返事が出来なくなる。きっとその“料理を作った人”の中にアンナさん自身も入っているのだろうと思うと、余計嬉しくなる。
「でもタレが付いちゃってるよ」
彼女はシルクのハンカチで僕の口元を拭う。前傾姿勢になって顔がぐっと寄る。鼻をすんすんさせながら、眉根を寄せながら、僕目線ではどこにあるかもわからない焼き鳥のタレを拭き取っていく。
昨日今日分かったことなのだが、彼女は必要以上に距離を詰める癖がある。とにかく近いのだ。
「はいっ、取れた!」
「ありが…とう……」
おそらく無意識なのだろうがこちらとしては意識せざるをえない。今もまだすぐ目の前に彼女の顔がある。触れてしまいそうな鼻先がくすぐったい。薄紅色の唇が近くて、もはや僕のそれと重なってしまいそうだ。……何を考えているんだ僕は。
疑問符を浮かべる彼女の瞳に視線が吸い寄せられていた。僕の全神経が奪われて、丸ごと食べられてしまいそうだった。とはいえ彼女に呑み込まれるのなら本望だろう。……だから何を考えているんだ僕は。
「…おーい二人とも。あんまり人前でいちゃいちゃするもんじゃないぜ」
完全に意識の外にいたセトの声にお互いハッとする。目が逸れて白昼夢が覚めいった。
「うるうお前…まさか、いつもあの距離感でいちゃいちゃしてんのか?」
「い…いつもいちゃいちゃなんかしちぇないよっ!!」
噛んだ。




