味方
後頭部を支える柔らかさに、平時の朝を感じた。ベッドの中、定時のアラームが鳴り響き、棚の上で黒うさぎのぬいぐるみが見下ろしている。扉の隙間から微かに香ばしい匂いが入り込んでくる。
すべて夢だったのかもしれない、と真っ先に楽観した。だがそれが偽りであることなど、ほうけた頭でもわかりきっていた。
「今日を……始めないと」
眼鏡をかけてベッドを跳ねると、すぐ窓の前に立った。空に張りついていた暗雲は消えて、全面に晴天が広がる。日差しも眩しい。向かいの家のハナミズキは穢れなき花を咲かす。不自然なまでに平穏な住宅街の面構えをしていた。
自室を見回す。昨日は荒らされた状態のまま逃げ出したはずの部屋だが、形跡もなくすべて綺麗に片付けられていた。机に積まれたプリント類。椅子の上に畳まれて置かれた制服一式。充満していた黒闇も、匂い一つ残さず消え去っている。
自分の身体を確かめる。首など全身を通してケガはなく、住宅街を全速力で走った後の筋肉痛などもなければ、大きな疲労もない。
何の変哲もない朝だった。
階段をいつもより慎重に下りていると、最後の段を踏む手前で、彼女が居間から出てきた。すぐに目が合う。僕のことを案じている目が見てきた。
「うるうくん…!」
「おはよっ、アンナさん!」
普段となるべく同じトーンで声をかけた。
「お…おはよっ!…だいじょうぶ?痛いとこはない?」
「平気、今は何ともないよ」
最後の段を降りて、腕を大きく回しながら軽く踊ってみせた。平気だというアピールのつもりだったが、我ながらあまりにも下手くそなダンスであった。
「むふふ…」
彼女にも笑われてしまった。
「よかった…本当に、よかったよっ」
彼女に笑顔が戻る。太陽が昇れば日常はまた色づいていく。やはり僕の日常には彼女が必要だった。彼女は僕にとって光なのだから。
ただ、僕は彼女に一つ謝らなくてはいけなかった。
「でもごめんなさい。一回、死んでしまったんだ」
寝覚者に言い詰められた時のことを思い出していた。今後の僕に必要なのは、反省と自分磨きだった。
「アンナさんがしてくれた心配を、僕はないがしろにした。それどころか、約束を破ることを前提にして行動していたんだ。アンナさんの気持ちをまったく考えてなくて…だから、ごめんなさい」
ぽんっ、と優しい手が僕の頭をなでる。見上げると彼女の笑った顔が現れた。
「うるうくんが謝ることなんて何もないよ。怪我しないでってのは私のわがままなんだから。逆に、『なんで緊急事態だと言うのに僕にそんな無茶を強いたんだ!』って怒ってもいいんだよ」
「お…怒るわけないよっ!僕がアンナさんを裏切ったんだから!だからアンナさんが僕を怒ってよ!」
彼女はおかしそうに笑う。
「私もっ、怒るわけないよ。私が言いたいのは…ありがとうだもの。元気な姿をまた見せてくれてありがとう、だよ。うるうくんとまたこうして会話できることが、今一番の幸せなんだ」
僕はただ驚き、混乱していた。怒られるどころか、なぜか感謝されていた。
彼女は僕を一切否定しない。それこそ昨日だって僕の意思を後押ししてくれた。彼女こそいつも僕の味方でいてくれた。
母性すら感じる。この世の憎悪をすべて受け入れて、尚も優しい言葉を返すような広大な愛だ。
不思議だった。その優しさの源泉がどこにあるのかがわからなかった。
「なんでそんなにも、優しい言葉をかけてくれるの…?」
彼女は間髪入れずに答えた。その答えは、昨日までは気づいていなかった僕の大きな誇りだった。
「それは…そうだよ。だってうるうくんと初めて言葉を交わした時に、私は救われたんだから」




