崖っぷちの女優に出会う
夜もすっかり更けて街は静まり返る。
夕暮れ時でも賑やかだった市場も穏やかになり、酒を飲みかわす者たちがひっそりと愉快に盛り上がっているだけだった。しかし、ところ変われば街の姿も変わる。裏通りを過ぎれば、たちまち活気溢れる賑わいを見せてくれた。それは騒ぎ立てる輩の勢いで、街灯の火が消えてしまいそうなほどであった。
俺とアシュタロトが向かったのは一画の酒場、カトーリョ・ティーベ。昼間に俺が荒稼ぎした場所だ。ここはゴロツキどもが喧しくて仕方ないが、マスターの料理の腕は本物だった。どうやらただの酒飲み場では無かったようだ。こんな喧騒の絶えない区画で店を出すなら、外壁が丈夫か一流かの2択になるようだな。
「来たぜ、この俺が!」
俺の大袈裟な登場に、店内の野郎どもが一気に騒ぎ出した。先の一件で俺もだいぶ有名人になってしまい、そのおかげで俺を異邦人と揶揄する者はいなかった。
「おまえさん、また来たのか。これ以上店の中を荒らしたりしないでくれ」
俺を見るなり呆れ顔でつっけんどんな態度を示すマスター。まぁ確かに必要以上に客連中を煽って騒いでいたのは事実だ。俺は申し訳なさそうに苦笑いをしてカウンターに座った。
「俺のおかげで賑わったと言ってほしいな。ま、悪かったよ。そんなことより俺の連れにとびきり旨い飯を食わせてやってくれ。金ならいくらでも払うさ」
俺は背後にいるアシュタロトを親指で指しながらマスターに注文した。ずっと俺の後ろをついて来ていたアシュタロトは、何も言わずに俺の隣の椅子に座った。背が足りないようで、椅子に座ってもカウンターから顔を出すので精一杯だった。その様子を見ていたマスターが怪訝そうな顔で俺のことを睨む。
「かしこまりました。………おまえさん、子持ちだったのか?」
注文を受け付けながら、俺に冷ややかな目を向けてきやがった。
「ふざけたことをぬかすな。さっきも言ったろ、旅の連れだよ。訳あって一緒に旅をしている」
俺はアシュタロトの方を一瞥しながらぶっきらぼうに答えた。当の彼女はここに来てからずっと大人しいままだった。この場の空気に飲まれて面食らっている、訳ではなさそうだ。だが一言も発することなく黙りこんでいる。
俺はマスターを急かすように手で払う仕草を見せた。
「早く飯を出してくれ。俺たちは腹が減ってるんだ」
「かしこまりました。腹が減ってるなら、その嬢ちゃんみたいに静かに待っているんだな」
相変わらずの減らず口を叩くマスター。俺はカウンターを中指で強く叩いて威嚇し、マスターを厨房へと追いやった。
「おいおい旦那。あんたが女を連れてるなんて耳にしたからよ、どんな妖婦を引き連れて来るかと思えばこんな幼いガキとはな」
1人の男が俺の肩を揺すりながら気安く接してくる。ここで最初に俺に喧嘩を吹っかけてきたスキンヘッドの男だ。名前はブトゥロイと言うらしい。若いが建装屋の頭目を努めているそうだ。それもあってか、俺に腕相撲で盛大に敗北したブトゥロイは、それから俺のことを“旦那”と呼んで慕ってくる。逆恨みで敵意を向けてくるよりはマシかもしれないが………。
「お前の口はまだ無駄に動くようだな。まだ懲りずに俺に挑む気か?」
「まさか!俺もそこまで陰湿じゃあねぇよ。敗けは敗けだ。俺は旦那の強さを認めているぜ」
出会った当初の頃の威圧感はどこへやら。馴れ馴れしくて、なんとも気持ち悪い。
「勝手に認めてろ。………ったく、それにしても元気だな、お前らは」
「そりゃあここの通りにたむろしてる奴らはクレイヴェードの逸れ者ばかりだからな。いつだって元気だけが取り柄みたいなもんさ」
「そうかい。騒々しいのが特技だって言うなら、せめてこいつの前では静かにしてやってくれ。今腹が減っていてずっと沈黙してるんだよ」
俺はアシュタロトを指差した。さっきから一言も喋る気配が無い。姿勢正しく椅子に腰かけて、ピクリとも動かない。まるで出来の良い人形のようにじっとしていた。そんなアシュタロトの様子を見て、ブトゥロイは自分の頭を軽くはたいた。
「あぁそれはすまなかった。どうやら旦那の嬢ちゃんにとって俺らの声は耳に毒らしい」
「毒だと分かっているなら向こうに行ってろ」
「はいよ」
俺は厄介払いをするように軽口を叩くブトゥロイを追い払った。別に仲良くなりたくてこの店に来た訳ではないんだ。面倒な連中とは極力関わりたくなかった。
俺は椅子に深々と座り、カウンターに右腕の肘を突きながら小さく溜め息を吐いた。手首を回して指を一本一本折り曲げる。手が、いや腕全体に疲れが溜まっていた。異世界に来てから今日で一週間が経っていた。そろそろ身体を休めるべきだろう。そんなことを考えていると、アシュタロトが不意に話しかけてきた。
「ロードはどうして私の状況が分かった?」
「んぁ?なんの話だ?」
「お腹」
「はあぁ?」
俺はアシュタロトに身体を向けた。アシュタロトも俺の方に顔を向けて、なんとももどかしそうに小さく呟いた。
「私のお腹が減って………もう話すのもやっとな状況である、ということ………」
「マジか、てめぇそんなに腹空かしてたのか。よく堪えていたな」
俺はアシュタロトにグラスを渡して水を注いでやった。今日は誘拐されて散々だったろう。俺も約束した訳だし、酒場で腹いっぱい食わせてやろう。
「遠慮すんなよ、好きなだけ食え」
「わーい。ロードぉ………」
アシュタロトはいつになく嬉しそうに身体を左右に揺らしていた。
俺とアシュタロトの目の前に、これでもかとばかりに料理が差し出された。
ポトフのようなもの。
コンソメスープのようなもの。
ドリアのようなもの。
パンナコッタのようなもの。
料理名や原材料は不明だが、とても食欲を駆り立てる美味しそうな匂いで、俺も思わず唾を飲み込んだ。
「ロードぉ………」
アシュタロトがきらきらした目で俺を見てくる。俺はガッツポーズして言ってやった。
「食え、いつぶりかの真面な食事だ」
「!!!Yes、ロードぉ………」
アシュタロトは嬉しそうにしながら、さっそく出された料理に手をつけた。表情はあまり変わっていないが、喜んでいるのはよく分かる。俺もさっそく舌鼓を打つことにした。スプーンみたいな先の部分が丸く凹んでいる食器を手に取り、コンソメスープらしきものを口にする。口内に広がる野菜の旨みに、俺は思わず溜め息を吐いた。素材の味を活かした自然の美味しさ。濃い味付けではなく、香辛料として山椒のようなピリッとした辛さがアクセントになっている。食感も素晴らしい。噛みしめた瞬間に、具材がほろほろと崩れていく。そして浸み込んだスープの塩辛さが舌の上に広がっていく。
「うまい………」
俺は呟いた。すると俺の呟きを耳にしていたのか、マスターが鼻で笑いながら言った。
「どうも。地元の味が異邦人の口に合ったのなら何よりだ」
言い方がどことなく嬉しそうである。アシュタロトは黙々と料理を口にしていて、俺も満足げに食べている。マスターとしては、これ以上ないくらい喜ばしいのだろう。
「いや本当に旨い。お前、料亭にでも勤めたらどうだ?そっちの方が大成するだろ」
「はん………これでも昔は料亭の厨房頭だったのさ」
「へぇ、ならどうしてこんな場所で酒場なんかやってるんだ?」
「いろいろあるんだよ。いろいろ………」
「あっそ。いろいろ、ね」
俺はどんどん料理を口にして、ほとんど完食してしまった。アシュタロトはまだ食べ終わってないが、それでも嬉しそうな顔で食べるペースが落ちていない。
俺はマスターに酒を頼んだ。出された酒は黄色みがかった透き通るような色で、匂いは嗅覚を鋭く刺激する。口にすると、ウィスキーのような味わいだ。アルコール度数は50%ほどだろうか。普段は酒自体あまり飲まないが、こうしてたまに飲む分には高揚感に浸れて良い。
「そういやマスター、訊きたいことがあるんだ」
俺はグラスを磨くマスターに質問を投げかけた。
「なんだ?」
「俺は今日、ガキどもばかり攫っていやがる人攫いの連中をとっ捕まえたんだ」
「ほう、やるじゃないか。クレイヴェードはずっと耳障りな事件の連続で、気が滅入っていたんだ。おまえさんが仕留めてくれたのなら助かる」
「もっと感謝してくれても良いんだぜ?それだけのことをしたんだからな」
「はいはい。ありがとうございました」
まったく感謝の意がこもっていない言葉に、俺は両手を上げて笑った。まぁ、マスターの言う通り人攫いがこの街の闇として根付いていたのは間違いない。俺の行動がこの街の役に立ったと言うなら、俺も喜ばしいと思う。
………だが、1つ不可解な点があった。俺はグラスに入った酒を見つめながら、波立たせるようにグラスを回す。照明がグラスの中の酒を乱反射して、綺麗に輝いている。俺はマスターの方は見ずに、酒を飲みながら独り言のように口を開いた。
「なぁ、気になることがあるんだ」
「なんだ?」
「人攫いの連中は、ガキどもを攫って………それでどうしていたんだ?」
「なに?」
「単純な疑問さ。供給には必ず需要がある。ガキを攫ってきて喜ぶ連中がいるってことだ」
「そうだろうな………」
マスターが何か思いつめたように言い淀む。恐らく誰もが抱いている疑問なのかもしれない。
「人攫いの集団がいた。つまりだ、そいつらから攫ったガキを買う奴がいるって訳だ。………この街はそこまで腐ってるのか?」
「まさか!」
ブトゥロイが突然カウンターを強く叩いて主張してきた。
「確かにクレイヴェードはクソッタレな馬鹿どもで溢れている。だがな!そんな馬鹿どもでも、ふざけたアホどもでも、そいつらなりにその日を一生懸命生きてんだ!ガキの売り買いなんざ生業にしてる外道がこの街にいる訳がねぇ!」
かなり酔っているのか、ブトゥロイは倒れ込むようにカウンターに肘を突いた。ブトゥロイの発言に周囲の連中も同意の声を上げる。マスター自身も首を横に振っていた。
「俺もこの街で生まれ育ったが、少なくともそんな噂は聞いたことが無い」
「だが、実際に人攫いはあった。じゃあ攫われた奴らはどこへ行った?」
俺の問い詰めにマスターが押し黙る。何かを言いたげにしていたが、すぐに口をつぐんだ。誰も答えられない。それもそうだ、事実としてクレイヴェードで攫われた人たちがいる。その人たちの行方は分かっていない。
―――――だとしたら、一体どこに?俺は酒を飲み干して立ち上がった。
「少し出る。アシュタロト、ここで待ってろ」
「むぐむぐ………Yes、ロードぉ………むぐむぐ」
アシュタロトが口いっぱいに詰め込みながら食べている。俺は彼女の頭を撫でると、酒場を出て行った。
今夜中にでも確認したいことがあった。もともと飯を食い終わった後にでもやろうとしていたが、色々とあり過ぎて予定が大きくずれてしまった。アシュタロトの誘拐、殺し屋の少女アメリアとの遭遇、人攫いの連中との戦闘、審問官による聴収。本来の予定を大きくオーバーしてしまい、今に至る。
しかも予定に無かったことまで確認しなければならなくなった。
2つ。最低でも2つの確認事項を片づけなければいけない。アシュタロトは酒場に置いてきたが、まぁ心配事は無いだろう。ブトゥロイ含めて柄が悪くてうるさい連中ではある。だがアシュタロトにちょっかいをかけるような愚か者はいないはずだ。
あれでもマスターの人となりを評価して預けているのだ、宿屋にいるよりは安心だろう。少なくともここからは、俺1人で行動する方が良かった。
星々が瞬き、夜の帳は深く深く街を飲み込んでいる。こんな時間に活発に動く奴らなんて限られているだろう。俺は立体的な構造になっている街並みを手探りで歩いて行く。小さな橋の下のアーチを潜って、怪しげな雰囲気の漂う通りへと出てきた。人々の異様な気配が立ち込めるこの場所で、俺は歩みを止めた。
「よぅ、あんた。見ない顔だね?」
暗がりの中、壁に寄りかかる1人の年老いた男が俺に話しかけてきた。しわがれたその声には見るものすべてを嘲笑うかのような厭味が込められている。
「ようこそ、欲望と渇望が渦巻くワスターバーン通りへ。ここは誰もが己の願望を願い、欲望を満たす為に集う場所。さぁ、あんたの願いは何かね?」
「俺の願い?」
俺は顔色を窺うように男にゆっくりと近づいていく。手にはそれなりの金を握りしめて、男にチラつかせた。
「なら、極上の女を頼む。とびっきりの良い女だ」
そう言って俺は男の前に金を差し出した。
「ほう………女、か。良いだろう。ここにはあんたが望む女の1人や2人、必ずいるさ」
「そうか、それは楽しみだ」
男は俺の手から金を抜き取る。
その瞬間、俺は金を手にした男の右腕を掴んだ。壁に押し当てて身動きを封じ、空いた腕で男の首に押し込んだ。口は動くが息苦しい、そんな状態に男は必死の抵抗を見せる。だが俺との力量差は明らかだ。身じろぎもできずに、もがくことしか出来ないでいる。
「受け取ったな、俺の金を?」
「ひ、ひいぃ!」
男の表情は一変して恐怖に包まれる。俺はナイフを見せて、さらに恐怖を増すように脅した。
「金を受け取ったってことは俺の要望を聞くってことだ。だったら手抜きは許さねぇぞ?俺の御眼鏡に適う最高の女を用意しろ。そうでなくちゃ、お前の首がストリートのオブジェに早変わりだ」
男は声にならない悲鳴を上げながら、首を何度も縦に振った。脅しの効果は上々のようだ。俺は促すように男を前へ歩かせた。逃げ出す機会を窺っているのか、チラチラと後ろを確認してくるが関係ない。俺は男の背中を強く蹴飛ばして無言の圧力をかける。するといよいよ身を屈めて俺に従うようになった。
この街を探索している最中に噂には聞いていた。街の一画にギャンブルや風俗が並ぶすワスターバーン通りがあるということを。そして歌劇場ティフィレーゼムに潜入した時に、俺はあるものを見つけていた。もしアレが正しければ、きっとここに奴がいる。俺はそう踏んでいたのだ。
「ここですよ、あんたが望む店だ」
男が一軒の店の前で立ち止まる。妖艶な雰囲気が漂う陰湿な店構え。店番をおらず、窓から木漏れ日のようにわずかな淡い光が見えるだけ。鉄板らしき金属で補強された分厚く大きな扉は、来る者を拒むほどの威圧感があった。
「本当か?今日入ったばかりのキャストはいるか?」
「えぇ………?あぁそうだな、新人の若い子がいるよ」
「よし、なら良いだろう」
案内を終えた以上、男に要は無い。
「もういい。さっさと消えろ」
俺は手で追い払う仕草を見せて、男を帰らせた。男は怯えた顔で身を震わせながら、逃げるようにそそくさと立ち去る。俺はその様子を眺めながら、準備運動がてら両肩を回して首を鳴らした。
正直、こういった場所で交わされる言葉は信用できない。新人と言っておきながらベテランが出てくることもあるし、若くて綺麗なんて常套句みたいなものだ。要望通りの子に会えるとは限らない訳である。ましてや、俺は今ピンポイントでとある人物を探していた。確率的に今夜だけで巡り合えるか難しい。
だが駄目で元々だ。見つからないなら、見つかるまで探すまでだ。一軒一軒しらみつぶしに探せば良い。俺はそんな覚悟で店の扉を叩いた。
彼女は身を強張らせながら待機室でじっとしていた。椅子に座り、膝の上に手を置いて俯いている。手は握り拳で力が入っていて、わなわなと震えている。息が徐々に荒くなってきた。彼女は胸に手を当てて深呼吸をした。
「落ち着くのよ、レーシア。これも夢のため、私自身の未来のため………」
自分に言い聞かせるように呟く彼女は、全身がうっすらと透けている純白のドレスを着込んでいた。身体のラインをはっきりと際立たせるその衣装は、彼女の色香が増していた。
彼女、レーシア・オーストラは覚悟を決めていた。この店でお金を稼ぐ為に働くという、一世一代の覚悟を………。
何故ならレーシア・オーストラは金欠に苦しんでいた。自信の夢でもある舞台女優としての成功、それを叶える為にクレイヴェードにやって来た。歌劇場ティフィレーゼムに入団できたのは奇跡と言えるだろう。街一番の舞台に出場できるのは、それだけで名誉なことだった。
だがしかし、彼女は圧倒的に金銭面で苦労していた。衣装は劇場が用意してくれる。だがメイクアップに必要な化粧道具を揃えるのは自分だ。さらに踊りや歌のレッスン費用もかかる。住まいとしている借家の家賃や食費だって、生活していれば当然。もはや今のレーシアにはこれらに費やせるだけの金銭的余裕が無かった。
そんな時にレーシアの下に舞い込んだ、今回の仕事。決して気兼ねなくできるものではなかった。むしろ気が進まない、こんな仕事できることならやりたくない。もし関係者にバレたらただでは済まないだろう。だが彼女にとっては窮地の策だったのだ。舞台にレッスンと忙しい日々。そんな毎日の中で、合間の時間を縫ってできる高給の仕事などあるはずもない。となると、必然的にこういった職種に行き着いてしまったのだ。
「それじゃあエルメ、仕事の時間よ」
オーナーが待機室に入ってきて、レーシアに声をかける。人の好さそうなオジサンではあるが、どこかオネエのような仕草が目立つ人だ。オーナーに声をかけられた彼女は肩をビクッと揺らして答える。
「は、はい!頑張ります!」
「良いわよ、その意気込み。初めてのお仕事で最初の御客様だけど緊張することは無いわ。相手をする時はいつでも笑顔を絶やさずに!」
「はい!」
ええい、もう吹っ切ってしまえ。私はここではエルメという女性だ。レーシア・オーストラという名前ではない。それに仮に関係者が来ていたとしても、私だとバレることも無いはずだ。まだ舞台に出て間もない。そんな私のことを覚えている人なんて、ほんのわずかばかりだろう。いざと言う時は必死に誤魔化すしかない。
とにかくなるようになれ!彼女は両腕でガッツポーズをし、自身に気合を入れ直した。
レーシアは歩く。薄暗い廊下を抜けて、お客様が待っている部屋へ。やることは分かっている、頭の中で何度も反復させて覚えた。必要なことを、時間内にやり切る。彼女は部屋の前まで辿り着くと、再度心を落ち着かせる為に深呼吸をした。いよいよ自分はこの身を穢すこととなる。
だが、もう迷いは無い。すべては夢の為、未来の自分の為。
「よし!」
レーシアは強く意気込んで部屋の扉を開けた。
「はじめまして!御指名ありがとうございます!本日入店したばかりのエルメと言います!よろしくお願いします!」
顔には満面の笑みを浮かべ、元気よく挨拶をする。可愛らしい仕草で扉から部屋の中に入った。
「おぉ。はじめまして、レーシア・オーストラ」
「――――――――――へ?」
レーシアは身体を硬直させた。いや、そんなはずはない。彼女は自分の耳を疑う。あり得ない、絶対にあり得ない。
「えっと………私はエルメ―――――」
「あぁ、そういうの良いから。いちいち源氏名を語る必要もねぇぞ。俺はお前が目当てでここに来たんだからな、レーシアさんよ」
明らかに男性は自分の名前を呼んでいた。レーシア、間違いなく自分の名前である。彼女は放心状態のまま男性の顔を見つめた。
部屋にいたのは黒髪で長身の男性。全身に筋肉がしっかりとついていて、脚が長くてスタイルが良い。顔も整っている。もしかしたら劇団の関係者かもしれない。私がここで働こうとしていることに気づいて、後をつけてきたのだろうか。
「え、えっと、その………私のことを知ってるの?」
「あぁ、もちろん。ティフィレーゼム所属の舞台女優、レーシア・オーストラだろ?」
あぁ………。
レーシアは吐息を漏らしながらその場に座り込んでしまった。無気力に項垂れて、そのまま固まってしまう。もはや魂の抜けた空の人形のように茫然としていた。
「おいおい。大丈夫か?」
男性が心配そうに声をかけてくる。だがレーシアの耳には届いていなかった。
「あぁ……終わった。私の女優人生が………あっけなく終わった」
ぶつぶつと呟くように独り言を言うレーシア。だが無理もない。せっかく今日までコツコツと積み上げてきた舞台女優としての経歴。ティフィレーゼムの劇場という夢のチケットを掴んで、ようやくスタートラインに立ったとも言える状況だった。
しかし今、その夢も潰える。誰かは知らないが、この男性に自分の正体がバレてしまった以上、もはや言い逃れの余地は無い。レーシアが思い詰めて何も言葉を発せない状態の中、男性はずっと心配そうにしていた。
「おい?さっきから大丈夫か?何か嫌なことでもあったのか?」
「え!?な、なに?」
レーシアはようやく男性の声に反応した。よく見たら男性もレーシアと同じように身を屈めていて、目線の高さを一緒にしている。その目には彼女を脅迫しようだとか、恐怖に陥れようだとか、そんな邪な感情は宿っていなかった。
「まぁ落ち着けよ。俺は客でも無ければ、お前を揺すりに来た訳でもねぇよ。少し話をしようか」
そう言って男性はベッドに腰かけると、脚を組んでくつろぎ始めた。
俺も幸運な男だ。まさか最初の一軒目でお目当ての女に出会うことができるとは。新人女優、レーシア・オーストラ。彼女が夜の街で金を稼ごうとしているのは、歌劇場で彼女の楽屋から新人募集のチラシを見つけた時に気が付いた。別におかしな考えではない。生活に困窮してれば、そして誰にも頼れない場合なら、恐らくはその発想に至ってしかるべきだろう。己の夢の為ならば、己のプライドすらへし折ってやる………なんて珍しい話でもないからだ。
特にレーシアのような女性は自分をどこまでも犠牲にできるタイプだ。演目を覗き見した時に俺は彼女の本質を理解した。誰よりも気高くあろうとし、誰よりも輝こうとひたむきに頑張れる、そんな女だ。そこに躊躇いは一切無い。目の前の壁を、自身の身体が傷つくことを厭わずに何度でも体当たりして乗り越えようとする。
そんな無茶を平気でできる女なのだ。
だからこそ、俺はコイツに決めた。この女こそ俺が育てるに相応しい女だ。
「あの、話って何ですか?」
レーシアは床に座り込んで、弱弱しい声で言った。彼女は不安と懐疑が入り交じった表情で俺を見つめている。まぁ無理もないだろう。急に現れた謎の男が正体を看破し、明らかに不徳な交渉を持ちかけようとしている。………みたいな感じに見えているだろうさ。
これは俺の登場の仕方も不味かったのだろう。もう少し警戒心を解いてくれるような振る舞いをすべきだったか。俺はそういう気遣いは面倒臭くて嫌なんだよなぁ。
「ま、お前もよく分かってるだろう。女優としての、レーシア・オーストラとしての話だ。エルメなんて名はここではいらない」
「私の、話………」
「そうだ。ティフィレーゼムの新米女優がこんなところで日銭稼いでるなんて知られれば一貫の終わりだろ?それなりの覚悟があってここにいるんだろうが、リスクが大きすぎるって考えもしなかったのか?」
「わ、私を脅す気なの?こんな店で働いているという事実を盾にして、私にあれこれ命令する気なの!?店でもできないような過激なことまで―――――」
「まぁ最後まで話を聴け」
俺は彼女の言葉を遮るように一喝した。どうも被害妄想が激しいようだ。俺は仕方なく本題を切り出すことにした。ここであれこれ遠回りに会話を広げていっても、かえって話題が逸れて時間を無駄にするだけだ。そもそもこの如何わしい空間に、俺が長居したくなかった。
「レーシア、お前、女優として活躍したいんだろ?」
「え、えぇ!………そうよ!私はクレイヴェードで一番の女優になるのが夢なの!」
俺の問いかけに強く言い返すレーシア。先ほどまでの曇った表情は一変して、眩しいほど彼女の目が輝いている。希望に満ちた表情だ。気が付けば彼女は両手の拳を強く握りしめ、わなわなと震わせている。余程叶えたいのだろう、トップ女優への頂きに立つことを。
「ほう………」
俺は思わず舌なめずりをした。やはり良い女だ。ここまで己の夢に真っすぐ向き合う純朴な女はいくらでも利用できる。
コイツは――――――――――プロデュースの甲斐がある。
「なら、決まりだな」
俺はベッドから勢い良く立ち上がり、レーシアを見下ろした。腕を組み、仁王立ちで彼女を睨みつける。
「な、なによ………」
「いいか?お前がここで働こうとしたことは黙っておいてやる」
「ほ、本当に!」
「あぁ、ただし―――――」
俺は不敵な笑みを浮かべた。レーシアは俺の顔を見てわずかに身体を震わせる。今の俺は、明らかに邪悪な計画を企てている人間の顔だっただろう。
そんな俺が溜めて言い放った言葉は、彼女の思考を真っ白にさせた。
「―――――俺がお前をこの街一の女優に育て上げてやる。それが条件だ」
「………はい?」
腑抜けた表情でレーシアは首を傾げる。予想だにしない俺の発言に理解が追いつかず、頭が混乱しているのだろう。だが俺の決意に一言一句間違いは無い。俺はコイツを舞台女優として大成させてやると言ってるんだ。これほどありがたいことも無いだろう。
「なにも不思議に思うことはねぇ。俺がお前をプロデュース兼マネージメントしてやるって言ってんだ。俺の言う通りにお前は行動すれば良いんだよ」
「そ、そんなの………急に言われても」
「急だろうがなんだろうが関係ねぇんだよ。お前に選択肢は無いんだ」
俺はレーシアの顔を覗き込むように、自分の顔を近づけた。その気迫に気圧されて彼女は思わず身を仰け反ってしまった。
「金銭面も俺が何とかしてやるよ。もうこんな場所で働く必要も無くなる。それでも断るって言うのか?」
俺のしていることは半ば脅しだ。だがレーシアにとっても悪い提案ではないはずである。見ず知らずの他人が急にプロデューサー兼マネージャーになると迫ってきても、素直に分かりましたと言えるはずも無いだろう。けれど夜の街で働かなくて良い、しかも女優としての活躍を後押ししてあげると言ってるんだ。
彼女にとって、こんなおいしい話は無い。
「………本当に、ここで会ったことは黙っててくれるの?」
レーシアの心が揺らいでいるのが分かった。ここで畳みかけるように言葉を紡いでいく。俺は両手を広げて、口角を上げて笑いながら言った。
「あぁ、約束は必ず守る。お前をこの街で最も有名な女にしてやるよ。俺を信じなくていい。お前がこれまで培ってきた努力と、これから経験していく女優としての実績だけを信じろ。そうすればお前はクレイヴェードで右に出る者がいないほど成長できるさ」
俺は彼女の心の隙間を抉るようにして甘い誘惑をした。
「うぅ、どうしよう………」
レーシアは小さく呟くと押し黙ってしまった。かなり苦悩しているようだ。無意識なのか、両手で頭をかかえて唸り始めた。目には涙が浮かんでいて、うるうると大きな瞳を揺らしている。威勢が良いのか気が弱いのか、まったく分からない女だ。
俺はレーシアを見下したまま静かに返答を待つ。今の彼女は心が揺れ動いている状態なのだろう。このまま夜の街で働こうとしたことをバラされて役者人生をふいにするか?それとも目の前の不審者の怪しい口車に乗ってしまうか?冷静に考えれば、後者の方がまだ今後自分が助かる可能性が高くなると分かるはずだ。
だがレーシアは今ひどく混乱している。ただでさえ隠し通したい秘密が暴かれた。そして心の整理がつかぬまま交渉を持ちかけられている、この状況。俺は呆れるように鼻を鳴らした。
「フン………」
俺が無理矢理ここから連れ出したって構わない。だが、それではコイツから自分自身で夢を叶えようとする気力を奪ってしまうかもしれない。俺は彼女に助け舟を出してやることにした。
「お前、今日はここで幾ら稼ぐつもりだったんだ?」
俺の言葉に、ようやく思考が現実に戻ってきたようだ。レーシアは不意に話しかけられたことで顔を上げる。驚いだ表情を見せながらも、冷静に頭を働かせて俺の質問に答えた。
「えぇっと………初めての出勤ってことで、特別手当も含めて700ゼパだけど………」
指折りで数えながら、恐る恐る答えるレーシア。俺はその数字を聞いて思わずほくそ笑んだ。
―――――これは釣れる。再びベッドに勢いよく腰を下ろして脚を組んだ。
「俺について来るなら、今夜だけでも1,000ゼパ稼がしてやる」
「1,000ゼパ?1,000………1,000ゼパ!?え、ええぇ!?」
レーシアは何度も金額を繰り返し口にして驚愕の声を上げた。こういう時は金額を上げてやると、さらに効果を増す。
「なんだったら1,500ゼパでも良いんだぜ?」
「1,500ッ………!ほ、ほほん、本当に言ってるの!?」
「あぁ、本当だ」
「そんな急に、そんな大金………わた、私をど、ど、どうするつもり!?」
混乱と興奮が相まって呂律が回っていない。彼女はとっさに身を守るようにして自分を抱きしめた。何やらふしだらな想像をしているようだ。まぁこんな店で働こうとしたんだ、頭の中がそういうことでいっぱいでも不思議ではない。
「先に言っておくが、別に俺はお前をどうこうしようなんて、これっぽっちも思ってねぇからな?」
俺は冷ややかな視線を彼女に向けて言った。これは俺が彼女を女性としてみていないとか、そういうことではない。むしろレーシアはその顔立ちとスタイルだけでも相当恵まれていると言える。俺が元いた世界ならトップモデルも夢ではないほどに、すべてが綺麗に整っている。まさに女の美を体現したような奴だ。
しかしそれはそれ、これはこれだ。俺はこの街で富を得る為、そして情報を得る為に彼女を利用しようとしている。これも牙王家の血筋故なのか、目的の為なら手段を選ばずに冷酷になれる自分がいた。今の俺に、一時の欲など存在しなかった。
「自意識過剰なら充分だ。誰もお前に床上手なんて求めてねぇんだよ、演技と歌を上手にしやがれ」
「じゃ、じゃあ私に一体何をさせようって言うの………?」
「それは現地に到着してからのお楽しみだ。ほら、どうするんだ?俺と来るのか、ここに残るのか、どっちだ?」
俺はこれまでに無いくらいの鋭い目つきで睨みを利かせた。静かに、けれど殺意を込めて言い放った言葉は、レーシアは顔を蒼白させた。彼女を迷わせるのも時間の無駄だったようだ。迷うくらいなら、迷うだけの思考の余地も与えないくらい、頭の中を支配してしまえば良い。
俺がこうして睨みつけるだけで、一般人どもは思考が恐怖に支配されて身動きができなくなるそうだ。中には呼吸困難に陥り、意識を失う者もいる。俺の目がいつからこんな眼力を得たのかは定かでない。だが少なくとも、傭兵時代には既に備わっていた力だ。そんな俺の睨みつけを間近で目にすれば、ただの町娘であるレーシアには刺激が強すぎる。
「ぁっ………ぁっ………」
身体が小刻みに震えている。もはや口を動かして声を出すだけでもやっとなのだろう。
「どうするんだ?もうこれ以上は訊かねぇぞ?」
きっと俺の声が、彼女の脳内に鈍く響いているはずだ。例えるなら鈍器で思い切り頭を殴られた時のような放心状態。ただひたすら、俺に対する恐怖だけがレーシアの心を蝕んでいた。
「これが最後だ、俺について来るのか?」
俺は優しく問いかけた。レーシアの耳元で、赤子をあやす様に。水面にさざ波ができないよう注意を払うように、俺は彼女に囁いた。レーシアは何度も首を縦に振った。声を発することもできない、今の彼女なりの最大限の肯定表現だった。俺はそれを見て不敵な笑った。
「よし、ならついて来い」
俺は放心しているレーシアの腕を掴んで、そのまま部屋を出た。




