メキシコの陽射しの下で
――――――――――メキシコ、ロスカボス。
サンホセダルカ空港からタクシーで移動していたのは、気だるげな表情で窓の外を眺める牙王黎明だった。これから向かう先は世界有数の一流ホテルだ。澄んだ青空に透き通るようなプライベートビーチが望める人気の高いリゾート地、そんな良い評判ばかり耳にする。今日は特に雲一つない晴天だ。チップに数千ドルを平気で出せるような観光客たちで賑わっていても不思議ではない。黎明は流れ去る景色を窓越しに見つめながらタクシーの運転手に話しかけた。
「あとどれくらいで着く?」
「だいたい30分くらいってとこだな」
ぶっきらぼうな質問に対して、恰幅の良いドライバーが答えてくれた。肌は色黒で陽気なおじさんといった感じの男性だ。
「それにしてもお客さん、もしかして地元の人間かい?」
ドライバーが運転をしながら黎明に尋ねてくる。対して黎明は素っ気ない態度で窓の外を眺めている。
「違うが………どうしてそう思った?」
「いやぁすいません。お客さんの話してるスペイン語がこの辺りの訛りだったんで、つい」
「別に気にしてない。俺は世界中を渡り歩いたせいで各地の方言が身に沁みついているんだ。英語に至ってはフィリピンやテキサスより酷いよ」
「なるほど!ってことはお客さん、相当やり手のビジネスマンってことかい?」
「そう見えるかい?」
「見えないね!」
陽気なドライバーは大きな声をあげて笑った。黎明は彼の笑い声を聴きながら、特に反応することもなくタクシーの中で揺られていた。
これから黎明はとある人物と面会することになっている。その人物は牙王一族の中でも彼にとって比較的友好な立ち位置でいてくれることから、これまで何度かコンタクトを取ることがあった。今回も黎明は秘密裏に談論をする為にわざわざメキシコまで足を運んでいた。
黎明が神代に会う為に日本に戻ったのが数日前。彼との接触により少しだけ思惑を知ることができた。しかし未だ隠された闇が蠢いている、黎明はそう確信していた。蚊帳の外で陰謀と策略が確実に世界の水面下で繰り広げられているとなれば、果たして今後の世界がどうなるか検討もつかない。黎明は自身の立ち回りを探る必要がある。その為に彼は飛行機を乗り継いでメキシコまで来たのだ。これから会う人物は、黎明にとって重要な人物であった。
「さぁ!着きましたよ!」
ドライバーがタクシーのドアを開けてくれた。黎明は特に急ぐ様子も見せずにゆっくりとタクシーから降りた。見上げるとそこには立派なホテルがそびえ立っていた。オレンジ色の外観が目に痛い。グランドフロアがガラス張りで開放感のある風景になっている。入口に並ぶホテルマンは規律の執れた整列を成していて、宿泊客を持て成していた。
黎明は外に出た途端に、猛烈な暑さをその身に受けた。大量の汗が額に浮かび上がる。クーラーを最大限まで効かせていた車内から急に外に出たことによって、外気の暑さが全身を襲ったのだ。肌の露出した部分が太陽に痛めつけられる。皮膚を突き刺すような乾いた熱気が全身にまとわりついてきた。
「かぁぁあ………暑っつい」
黎明は思わず愚痴を零した。彼の服装はいつもの白いワイシャツと紺のデニム。神代と会った時とまるで変っていない。確かにメキシコの気候に適した恰好と言えるだろうが、それにしても彼はボロボロになったビーチサンダルを履いている。セレブが集うホテルの客として、およそ似つかわしくない恰好だった。
だがそんな黎明を玄関口で仰々しく出向かる者がいた。執事のように優雅な振る舞い、ダークグレーのスーツに白い手袋が似合う若い男。目鼻立ちがはっきりしているのと肌の黒さから中東系にも思えたが、どこか東アジアの血が見て取れた。そんな青年は黎明に対して日本語で話しかけてきた。
「お待ちしておりました、黎明様。謳歌様は貴方様を歓迎しております。これより私がご案内致しますので、どうぞこちらへ」
物腰柔らかい口調で、しかも丁寧な日本語で黎明に話しかける青年。話し方からして日本人なのだろう。黎明は怪しみながらも素直に彼の案内に従うことにした。2人は冷房の効いたホテル内を歩いて行く。周囲の目は当然、黎明に向けられた。まるでホームレスか乞食のような風貌の男が突然現れれば仕方の無いことだろう。しかし彼は何も気にしない。自分が客観的にどう見られているか理解しているし、その上での恰好なのだ。黎明は周囲の反応など気にも留めずに案内役の青年の後を黙ってついて行った。
黎明が案内されたのは25mのプールが設置された屋外スパだった。目の前に広がる綺麗な水色のプール。その水面が日の光りを反射して、見る者すべてを魅了するだろう。周囲は白い壁によって囲まれており、完全なプライベート空間となっている。まさに幻想的な光景。現実から隔離された息を飲むほどの風景のコントラスト。黎明の心を一瞬でも捉えて離さなかっただけ、このホテルが最高級と呼ばれる所以がよく分かる。
「待っていたぞ、黎明」
黎明の名を呼ぶ女性の声が突然聞えてきた。鋭く尖っていて、それでいて芯が通っているはっきりとした声。耳にすればすぐに彼女だと分かる声だった。黎明は声のする方へと振り向いて、そして懐かしい顔を目にして思わず微笑んだ。
「時間通りに来たよ、謳歌」
「時間を守るのは当前のことだ。何も誇らしくない」
「そうですかい」
黎明は白いパラソルが並ぶプールサイドを歩く。1つのデッキチェア、そこに日本の中学生の制服を着ている1人の少女―――――いや、女性が寛いでいた。黎明は気さくな態度で隣のデッキチェアに腰かけた。
「変わらず元気そうで何よりだよ、《《女王様》》」
彼女の名前は牙王謳歌。中学生の制服を着ているのも理由の1つとして挙げられるが、彼女はとにかく容姿が若い。見た目が学生時代から一切老けておらず、事情を知らない人が見れば本物の中学生と間違えてしまうほどだ。だが彼女はれっきとした成年の女性である。もっと言えば彼女は経産婦であり、高校を卒業したばかりの娘を持つ母親なのだ。艶のある黒髪をポニーテールにして、きめ細やかな白い肌はメキシコに降り注ぐ日差しにも負けない。爪の先まで十代の若々しさが色濃く残っている。
そんな彼女の正体は民間情報管理組織『璽宇』のリーダーを務める裏社会の女王だ。
民間情報管理組織『璽宇』。ある者は“企業管理機構”、またある者は“情報屋斡旋組織”と呼んだりする。その実態は企業群が自らの生命線を裏社会に託した世界情勢の中枢であった。
現代文明は急加速で進化していき、昨今は高度情報化社会と称されるまでに至った。あらゆる情報が溢れ出し、その価値は形骸するほど身近なものとなっている。そうなれば必然、機密事項などあって無いようなものだった。ハッキングやクラッキングは素人が技術を磨けば会得できるようになり、身体にダイナマイトを巻いて突撃すれば物理的にでも破壊が可能となる。進化し過ぎた文明がかえって人類に牙を向いたのだ。
そんな時、牙王謳歌は立ち上がった。きっかけはアメリカで起こった9.11同時多発テロ未遂事件。宗教の過激派組織による一大テロ計画は牙王一族の手によって未遂と終わった。だが当時の謳歌は情報統制の甘さと共有体制の脆さを嘆いていた。
この機を境に彼女は新たな企業連合の発足を呼びかけた。そして牙王家、ロスチャイルド家、ロックフェラー家、ウォルトン家の四家が基盤となり、企業が今後の事業活動に惜しみなく専念できるように裏社会からの保持管理体制を整えたのである。
それこそが『璽宇』。
現代人は情報の真価を知らず、国の法律も時代の流れに追いついていない。だからこそ、そんな現況を打破する為にこの組織はできたのだ。璽宇に所属するハッカー集団は文字通りの世界一だ。例え人工知能やスーパーコンピューターが襲いかかって来ても撃退できるほどのスキルを持ち合わせている。またオペレーターと呼ばれる情報屋たちは国家の諜報員や軍人に劣らない情報収集能力と戦闘能力を併せ持っている。裏社会の女王、まさにそんなネーミングが似合う。謳歌とはそういう女性なのだ。
「しかし………いつまでそんな恰好をしてるつもりなんだ?」
黎明はデッキチェアの上で背伸びをしながら尋ねた。眩しい日差しは純白のパラソルで遮られ、影越しに太陽の姿が目に入る。目も眩む明瞭に思わず唾を飲み込んでいた。
「その意見は今ので5度目だぞ、黎明。何度も同じことを言わせるな。制服こそ機能美において他に類を見ない至高の服装だ」
謳歌は右手の中指で胸元を突いた。ふくよかな胸の谷間をなぞるようにゆっくりと指を動かす。そのまま右の脇腹、腰、そしてスカートからむき出しの太股と辿った。
「制服とは生活環境下で過ごしやすい設計になっている。身体は動かしやすく、通気性も優れている。そして何よりも制服があれば毎日のファッションに頭を悩ます必要が無くなる。学生時代はこれさえ着ていれば、オシャレなどという非生産的な活動をしなくて済んだ。ちょうど君みたいな服装だよ。私は今までも、そしてこれからもこの制服を着続けるつもりだ」
「その説明も今ので5回目。ほんと………女を捨ててるのか自分に自信があるのか分からないなぁ」
「どういうことだ?」
「あんたの年齢で若かりし頃の服が着られるって言うのは、同姓にしてみれば厭味ったらしく聞こえるんだよ。あんたは見た目が老けないからその肌艶も相まって学生に間違われるんだろうな」
「外見については私も気にしている。ちょうど娘が高校に入学した頃だ。入学式に顔を出した時に、父兄の者共に妹と勘違いされてしまった。いくら学生服を着ているとは言え、私には大人の威厳が無いのか?」
「裏社会の女王と恐れられている人物が自分の娘と姉妹に間違われるとは!十中八九その恰好のせいだろ。まぁ、あんたと可憐ちゃんは見た目がそっくりだからな。知らない人が見れば姉妹と勘違いしても仕方ない」
「ひどい話だ。私も年相応に老化したかったよ………」
「それも厭味になるから気を付けなよ」
謳歌は口を尖らせて不満を表した。同じ挙動を彼女と同年代の女性が取ったら限界があるだろう。しかしそう感じさせないのは、彼女に単純な外見的若さがあるだけでなく、内面から溢れ出す美しさあってこそだった。
謳歌は脚を組み直してグラスを側のテーブルの上に置いた。グラスの中身はハワイアンブルーの綺麗なカクテルが揺らめいていた。グラスの中で光を乱反射して、水面は静かに波を起こす。そして彼女は一呼吸置いてから口を開いた。
「ここには盗撮、盗聴の類は一切無い。私たち2人だけの空間だ」
無駄話はここまで。
声色が一瞬にして変わった。先ほどまでの彼女の声は鋭いナイフのようでありながら、親しみのある雰囲気がどこかにはあった。しかし今は違う、まったくの別人に変わっていた。
例えるなら狩人。獲物を前にして冷静沈着、わずかな感情の機微も無く淡々と眼前の対象に牙を向ける。彼女から放っている威圧感は、泣き止まない赤子ですら息を飲んで黙り込むほどだろう。
「黎明。君がここに来た理由はオペレーション:ユビキタス、そして異世界についてだろう?私も君と話をすべきだと思っていたんだ」
静かに話し始める彼女の口から“異世界”という言葉が出てきた。これによって黎明はすべてを察した。彼は少しばかり俯いて鼻で笑う。
「なんでもお見通しと言ったところだな。まさか俺と神代との会話も………」
「知っていて当然だ。璽宇の情報収集能力を甘く見られたものだな」
謳歌は得意げな表情で口元に笑みを浮かべて言った。しょせん何もかもが自分の掌の上で転がされている。そんな傲慢さを感じてしまうくらいに、彼女は不遜な態度を取っていた。
「さすがは璽宇だ。そこまで把握しているとはな」
「本国の連中に比べればまだ情報量には差がある。だがオペレーション:ユビキタスは牙王一族が本腰を上げて遂行しているからな。世界の裏の裏まで知り尽くしている私が事情を深く知らないのはありえない」
「確かに。その通りだな」
黎明は背伸びをしながら空を見上げた。
この広い空は地続きで、別の国、別の大陸へと繋がっている。そして空の先には広大な宇宙が広がっている。だが異世界にその認識は通用しない。自分たちのいる世界とは地続きではなく、まるでねじれの位置にある2本の線のようにまったく別の常識が存在するという。魔法を使う人間がいて、獣に似た人間がいて、想像上の生物までいる。そんな非現実的な話があるだろうか?しかし世界は自分たちの予想の遥か上を越えていき、“異世界が存在する”という暴力じみた現実を黎明に叩きつけてきた。誰が何を言おうとも、それこそ神ですら現状を否定しようとも、異世界は確かに存在している。
黎明は今一度その事実を噛みしめながら謳歌の方へと顔を向けた。
「今回の作戦、一族が世界を牛耳りたいってだけじゃないだろ?それぞれに思惑があるはずだ」
「なんだ。そんなことか」
黎明の質問に対して謳歌は拍子抜けた声を上げて溜め息を吐いた。期待外れと言わんばかりに露骨に眉をひそめた。
「なら一度整理しようか。オペレーション:ユビキタスに関わる牙王家の現況について―――――」
彼女はそう言って不敵な笑みを浮かべた。
オペレーション:ユビキタス―――――そして牙王家―――――。
黎明は世界の在り方を問うつもりも、世界の行きべき先を語るつもりも無かった。彼が謳歌と話したかった内容、それを彼女は今自身の口から切り出してくれる。黎明は心臓の高鳴りに身を任せて身体を起こした。仰け反っていた背中を丸めてデッキチェアから身を乗り出すように脚を下ろした。
「そもそもの発端は異世界の発見だ」
身体をこちらへと向けた黎明の姿を流し見て、謳歌は口を開いた。彼女はパラソル越しに虚ろな目で空を見つめている。長いまつ毛に切れ長の大きな目。彼女がゆっくりと瞬きをする様を黎明は真剣な表情で見ていた。
「私たち牙王家は何時の時代も画策していた。どうすれば世界を我が物に出来るのか、と。すべては一族の繁栄、すべてはより高みへと至る為に………」
「だが有史以来、それはずっと叶わなかった」
「そうだ。先祖たちは歴史の影に身を潜めながら機会を窺っていた。不確定要素はいらない。強引な手段は取らない。戦争を起こして何もかも強引に奪い取っては支配と言えないだろう。だから牙王家は世界を確実に手に入れる好機を探っていたんだ。何年も、何十年も、何百年も」
謳歌は自分が口にした言葉を噛みしめながら話している。時折、感傷に浸っているかのように何度も頷いていた。
「ずっと、ずっと探していたんだ………そしてようやく見つけた」
「―――――異世界を」
黎明はその言葉を口にした。彼は謳歌が次に何を言うのか予測できていた。そして彼女の話を補うように彼は自分も話し始める。
「実際にこの目で見るまで信じがたい話だけど、異世界が存在するという事実は紛れも無い現実だ」
「ほぅ。君にしては珍しいな、黎明」
黎明は小さく頷いた。謳歌の声がどこか嬉しそうに弾んでいる気がした。彼女は普段から本性を表さない。ましてや滅多に感情を吐露しない。彼女の顔に浮かぶ表情はいつだって機械的に作られているのだ。誰に対しても空っぽな笑みを見せつける謳歌。だけど今の彼女には、本当にごくわずかだが、嬉々とする様子が見受けられた。
「異世界なんて突拍子も無いことを言われた時は、私も正直自分の耳を疑ったよ。だが本筋の全員が首を縦に振り、オペレーション:ユビキタスは開始した。これは稀有な例だ。話によると白星を含め、本筋は既に異世界を自分たちの目で目撃して認めたようだ。こうして異世界の存在は紛れも無い事実となった」
牙王白星、牙王家の代表者。謳歌が何気なく言ったその人物の名を黎明は聴き逃さなかった。そして思わず声を漏らした。
まさかあの男まで異世界を見に行っていたとは………黎明は思わぬ情報に心の底から驚いていた。本筋の者たちが異世界に触れているのは十分予測できたことである。物語のような話が現実にあることを理解する為にも、それは必要なことだからだ。
だが白星は違う。まったくの別案件だ。彼は今、皇居にいる。皇居の一般人が知る由もない場所に常に滞在している。どんな理由があろうとも決してそこから離れることはなく、ここ30年は敷地から出て来ることなど一度たりとも無かった。そんな男が、わざわざ異世界を見る為だけに己が陣地を離れるとは夢にも思っていなかった。
「代表者の意向でもある訳か」
「本筋が牙王家の脳なら、代表者は心臓だ。彼らが満場一致で異世界の存在を認めて本作戦に賛同した、これはどんな物的証拠よりも遥かに信頼できる」
謳歌はなおも嬉しそうに、けれども口調は無機質に淡々と話した。彼女が今の話題の一体どこに喜びを享受しているのか、黎明には分からない。確かなのは、オペレーション:ユビキタスが牙王家の歴史においてもまったくのイレギュラーであるということだけだった。
「………そもそもオペレーション:ユビキタスは本筋の連中が考えついた訳じゃないんだろ?」
黎明は顎を指でなぞりながら謳歌に尋ねた。ずっと訊きたかった話題を自ら切り出す。そんな黎明の心中を察していたのか、謳歌は真剣な眼差しを彼に向けてきた。口元に浮かぶ薄っすらとした笑みは不気味さが際立っていた。
「そうだな。この作戦の提唱者は遍在だ。諸国を内部から浸蝕していき、それと同時に異世界を侵略して日本の領土に造り変える。そうしてすべての駒が揃った時、牙王家が世界の覇権を握る………これこそが本作戦の最終目的だ」
「遍在は国連の事務総長だろ?その口で平和を優美に語っていながら、その裏で世界征服の魂胆を隠しているとはな」
牙王遍在を黎明は知らない。正確には情報媒体を通して目にしたり、同じ一族ということで上っ面の話を聞くことはあったが、一切の見知は無かった。そう、直接会ったことは無い。黎明がこの世に生まれ時には既に日本にいなかった。そして他の牙王家の人間と同様に、世界を裏から飲み込んでいた。
会う機会はいくらでもあった。だが黎明はわざわざ時間を作ってまで会いたいとは思っていない。彼にとって遍在という存在はそれほど大したものでもなく、上辺だけの知らせで十分だと判断していたからである。そんな黎明の心情を謳歌は知ってか知らずか、彼の態度に鼻で笑って応えた。
「オペレーション:ユビキタスの実質的な指揮権は日本の内閣官房副長官である神代が握っている。彼には今回の作戦が成功すれば次期代表者になれるかもしれないという思惑もあるのだろう」
「なるほど、順当に行けばそうなるだろうな。しかしそうすると本筋が一枠空くことになる。まさか遍在はそれを虎視眈々と狙ってるっていうのか?」
「黎明、人が何に欲望を見出すかなどたかが知れている。遍在ほどの男でも本筋を目指すくらいあっても良いだろう」
口ではそう言いながらも彼女の表情から呆れているのは見て取れた。黎明も謳歌も、権威や栄進に大した興味など無かった。特にしがらみを嫌う黎明にとっては理解しがたい思考だった。彼は脚の上で肘を突きながら頬杖をついて、いつもの気だるげな表情で溜め息を吐く。
まさかこの程度のことだったとは………。黎明はそう思った。
「本筋や代表者になることがそんなに大事なのか?」
黎明は別に謳歌に尋ねている訳ではない。胸の内に溜まった憤りの感情を吐露していた。それを察してか、謳歌も小さく溜め息を吐いて答えた。
「時と場合による。有事の際に決定権を有するのは考えようによって非常に重要な権力だ。遍在の他にも本筋を目指す者はいるはずだ」
「そんなものかね………」
黎明はデッキチェアから降ろしていた脚を戻して再び寛ぎだした。謳歌と同じように空を見上げるが感情の機微も特別生じなかった。黎明はオペレーション:ユビキタスの発足に個人の勝手な私情が介在している側面もあるのは理解している。しかし理解と共感は別物であることを黎明は知っている。彼は今回の作戦の底に触れた気がした。
牙王神代、牙王真理、牙王全能、牙王嶄絶。本筋の4名だ。次期代表者が神代の線で濃厚なら、彼の味方になるのが賢明だろう。遍在に取り入るのも良いかもしれない。あるいはこのまま我が道を進んでも差し支えない、牙王家がどうなろうと、世界の在り方がどれだけ変わろうと、結局黎明の生き方には関係が無かった。
「とにもかくにも作戦が順調に進行している今、牙王家の世界征服も夢物語ではなくなってきている」
黎明の思考を遮るように謳歌は再び話し始めた。彼女は両腕を頭の後ろで組んで、背を反らすように伸びをする。黎明は横目で謳歌を見ながら言葉を返した。
「そこまで上手くいっているのか?」
「もちろんだ。元々牙王家は世界を少しずつ蝕んでいたからな、幸先は良かったよ。本作戦が始動する時点で日本は私たちの物と言っても過言ではないだろう?今や国内の企業は牙王の息がかかっている」
「だけどそれは大企業に限った話だろう?一極集中化した日本では大きくの主要企業は随所にかたまっている。重要なのは中小企業のはずだ」
「そちらも問題は無い。なんだ?知らないのか?」
謳歌はいたずらな笑みを浮かべていた。黎明は面倒臭そうに頭を掻いた。どうやら彼が日本で得た情報以上の事実を彼女は知っているらしい。黎明は潔く彼女に尋ねることにした。
「一体何をだ?」
「何処の国にも地域にも、昔堅気の風習や慣例がある。それすらも牙王は支配したんだ―――――制勝がな」
「制勝が?奴は今ブルームバーグにいるんじゃなかったのか?」
黎明は驚きの声を上げた。あまりに唐突な話を突きつけられて頭が追いつかない。そんな彼に構わず謳歌は話を続ける。
「その通りだ。そしてそれと同時に複数の会社を持っている。その内の1つがPharisaical Gate Corp.というM&A主体の仲介業を営む会社がある」
「それが日本を取り込んだのか?」
「そうだ」
「だがどうやって?日本国内だけでも地方には多くの会社が存在している。いくら規模の大きい会社であろうと………いや、むしろ規模が大きければ大きいほど地元に根付く関係性に入り込むのは難しくなるはずだ」
「制勝も馬鹿ではない。今や中小企業の多くは選択を迫られている。事業承継をどうすべきかという問題だ。もはや日本の若者に世代交代を勤しんで受け入れる層は減ってきている。そこで制勝は日本全国に存在する事業引継ぎ支援センターや地方銀行、会計事務所、商工会議所といった公的機関、金融機関に目を付けた。膨大なリサーチを下に選出した提案先にアプローチをかけ、そして買収を望む会社と譲渡を希望している会社の双方とアドバザリー契約を締結させてクロージングまで至るのに最短で半年だそうだ。しかもM&Aにかかる費用は平均で格安の2500万円だ。信用と信頼を糧に日本企業の未来を繋いだと言えるだろう」
「聞こえは良いが奴のことだ。一体何をやったのか………」
黎明は言葉に厭味を含めながら言った。目元をわずかに痙攣させて拒絶反応を示した。黎明にとって制勝という名の人物は相容れないものがあった。
牙王制勝。26歳という異例の若さでありながら数多くの功過を残した男である。牙王家の中でも一目置かれており、最年少で次期本筋候補とさえ言われるほどの逸材。制勝の才能と手腕は確かなものであった。
だがそれ以上に彼を知らしめる業績は、彼の邪悪に歪んだ性格にあった。シリア内戦においてはシリア政府軍と反政府軍の両陣営に武器を提供した。ロシアにおいては前大統領の暗殺支援。中央アフリカ共和国においては内戦を激化させ、弱らせたところで現政権もろとも破滅に追い遣った。挙げ出したらキリがない。それほど制勝の所業は数え切れないほどあった。
彼がどんな悪行に手を染めようと黎明はどうでも良かった。だが最大の問題は、制勝という男が同じ牙王家であっても牙を向くということだった。既に制勝の手によって身内で殺された者もいた。牙王家は家族内での殺し合いを認めているくらいには寛容な一族なのだ。しかし黎明にとっては迷惑な話でしかない。彼が制勝を嫌う理由でもあった。
「日本についてはそんなところだ。ヨーロッパももはや牙王家の所有物と言って良い。イギリスは牙王家がEU離脱を後押ししてやることで国として活性化した。一方のEUはドイツがポンドに負けたことで独DAX指数の下落率が劣後している。黎明、君は前月のマークイット・ユーロ圏PMIを見たか?」
「あぁ、見たよ。どの業界も数値が50を大きく下回っていたな。ずっと改善の見込みがあった製造業はまだ佳境に入る前段階としても、サービス業にだけスポットを当てれば景況判断の余地無く改善対策は意味を成していなかった」
「そうだ。これが来年には好転を迎えるぞ。ECBの総裁も理事も既に牙王家の配下だ。政策手段を適切に指導することでEUは復活する。現時点で私たちの力は分家の櫂帘家の尽力によって果たされているからな」
「国債の利回りを見れば分かるよ、スペインやポルトガルですら2%じゃないか。牙王家傘下の企業群がギリシャを立て直したことによって、ECBの牙王家に対する評価は無視できないものになっていたが、既に総裁すらも手中に収めていたとは………仕事が早い」
「ヨーロッパだけでなく、今や世界の6割は牙王家が完全に掌握した。2割は不完全ではあるが手中にある」
「残る2割………アメリカと中国で支配力を強めている連中か」
「それも時機に私たちが手に入れる。昨年のジャクソンホールでの会議では物価上昇率の目標平均値について語っていたが、そこから株価や金利の操作が既に行われていることについて賢い連中なら容易に理解できているはずだ。だがそこに牙王家の意志が働いているとは夢にも思うまい。世界の決済通過である米ドルを管理しているのはFRBではない、今や牙王家こそ世界の金融の支配者だ。ビルダーバーグ会議でも実験を握っているのは牙王家だよ。ここでも制勝が随分と活躍してくれた」
また制勝の名が出て来た。黎明はそのことに感心して溜め息を吐いた。現状で黎明もオペレーション:ユビキタスの為にかなり働いていた。だが大部分の働きを制勝が占めていることが今の話で分かった。もはや一族内での発言力を極限まで高めたと言っても過言ではない。これはいよいよ苦手意識に関わらず制勝と手を組むべきなのか、黎明はそんなことを考え始めていた。
「オペレーション:ユビキタスはそこまで進んでいるのか………これじゃあ世界征服も本当に時間の問題だな。いよいよ牙王の時代がやってくる」
「あぁ、そうだろうな」
作戦の始動からまだ日が浅い。そう思っていた黎明は金融機関を中心に掌握に乗り出していた。謳歌も裏社会からのアプローチでかなり手駒を増やしたはずだ。しかし黎明が思っていた以上に着実に世界は牙王家のものになろうとしてる。もはや誰にも、国家単位でさえも抗えない領域まで来ているのかもしれない。
ふと、黎明は違和感を抱いた。謳歌の相槌にぎこちなさがあった。黎明との会話以外にも思考を巡らせてるような雰囲気を感じ取れた。彼はこちらの考えを悟られないようにそれとなく謳歌に尋ねることにした。
「どうした?歯切れが悪いな。何か隠していることでもあるのか?」
直球の質問。回りくどい言い回しを黎明はするつもりは無かった。しかしそれが吉と出たのか凶と出たのか。彼の問いに謳歌は黙り込んでしまった。表情は変わらない。まるで蝋人形のように冷たい眼差しで黎明を見つめている。
「………そうだな、そろそろ話しておこうか」
彼女はようやく口を開いて沈黙を破った。表情筋1つ動かない彼女の顔はとても美しかった。そして同時に恐怖すらもあった。小さな声で呟くように話す謳歌。彼女の顔を目にした黎明も同様に表情が引き締まる。
「今から話す内容は一族内においても極秘事項だ。この話を聴いて君が周囲に言いふらすのも良い。聞かなかったことにして沈黙を貫くのも良い。どうせいずれは知ることなのだから」
謳歌は淡々と言った。感情の欠片も一切無く、ただ無機質に。
「おいおいどうした。これから物騒な話でも始める気か?」
「どう思うかは君の自由ということだ。だが君には知る資格があり、知るべきである。だから私は話すんだ」
謳歌が真剣な眼差しで黎明を見据えている。そして彼女の言葉からは責任と重圧、そして義務感を黎明は感じた。
黎明はそこから1つの考えを導き出した。今日、謳歌が黎明との面会を承諾したのは、まさに今から彼女が話そうとしている内容にあるのではないか。前半までの話題は前座だ、彼女にとってはここからが本番なのかもしれない。そう考えると黎明は高揚のあまり舌打ちをしてしまった。無意識の行為だった為、黎明は思わず口を手で覆い隠す。彼は小さく深呼吸をして再び謳歌に尋ねた。
「ずいぶんともったいぶるね、一体俺に何を教える気だい?」
「牙王家が世界を支配する為のオペレーション:ユビキタス。その中にあるプロセスの1つ、異世界侵攻。だが異世界の国々を支配するのではなく、滅ぼすのが目的であることは君も知っているだろ?」
「もちろん。直接言われた訳ではないが察してはいたさ。異世界の資源を奪い、捕獲した異世界人たちは収容して人体実験の材料にする。ついでに広大な土地を利用して発電所なり工場なり有効活用するつもりなんだろ」
「その通りだ。常闇は人権を無視した人体実験用の施設が欲しいと言っている。天命はドラゴンの生体について研究したいと騒いでいたな。神代の意向としては異世界の人間を全員支配できるなんて思っていないようで、反乱分子だけを殺して残りは使い捨ての労働力に充てたいそうだ」
「神代の話は今聞いたよ。奴は何も俺に話さなかった」
「それだけ君は警戒されているということだ」
「俺は別にどうでも良いんだけどな。しかしそんなことが俺に話したかった内容なのか?仰々しい物言いで話し始めたからてっきり―――――」
「いや、これだけではない」
謳歌は黎明の言葉を遮るように否定した。
「もう1つ君に話しておくべきことがある」
「へぇ、それは一体?」
「………実はオペレーション:ユビキタスと同時並行でもう1つの作戦が動いているんだ。その名はオペレーション:アマテラス」
謳歌は重々しい雰囲気の中でその作戦名を告げた。
『アマテラス』―――――その言葉に黎明は表情を険しくさせた。
「天照?」
「そうだ。これは牙王家の中でも私を含めて極一部の者だけしか知らない秘密裏に始動した作戦だ」
「それってつまり………本筋の連中や代表者は知らないってことなのか?」
黎明の質問に謳歌は口を閉ざした。何か言いたくないことでもあるのか、黎明はそんなことを考える。謳歌はしばらく黙り込んだ後、黎明の方を見て答えた。
「誰がこの作戦を支持しているのかは、今の君が知る必要は無い」
「これは参った。それじゃあ俺は何も知らないことになる」
「そう焦るな」
謳歌は不敵な微笑みを見せた。何がそんなに楽しいのか、まるで無邪気な子どものような笑顔を作っている。対して黎明には不安しかなかった。誰が関与しているのか不明な作戦が、今まさに水面下で極秘に進行しているという事実、それだけで十分に言いようのない不信感を抱いていた。反乱、内乱、反逆という言葉が相応しいかもしれない。
「それじゃあ一体全体どういう内容の作戦なんだ?その、オペレーション:アマテラスっていうのは」
黎明は頭を掻きながら質問をする。なんとか彼女の話を理解しようとしていた。
しかし彼女の次の発言に黎明は言葉を失う。思考は停止し、さらなる驚愕を強いられることになる。
「オペレーション:アマテラス。その中心にいるのは他でもない、今ちょうど異世界に出向している殺し屋君だ」
「………彼が?」
「あぁ、そうだ。彼を5人目の本筋に祀り上げる。それこそがオペレーション:アマテラスの目的だ」
謳歌は不敵な笑みを浮かべながら、その理解しがたい真実を黎明に告げた。




