暗躍する恐ろしい男たち
――――――――――日本、東京都新宿区。
首相官邸内のホワイエ。和の趣きを持つ中庭が臨めるフロア、その一角のベンチに2人の男が背中合わせの状態で座っていた。
「君から面会を申し出るなんて珍しいこともあるんだね、黎明くん」
老齢の男が嬉しそうに話す。彼は日本国の内閣官房副長官を務める牙王神代である。ロロ・ピアーナのタスマニアン、ネイビーブルーカラーのスーツを着こなし、左腕にはピアジェの腕時計を着けている。これだけでも家一軒が建つ代物だが、当の神代には高級品にも負けない風格があった。
「そもそも今回の作戦自体、俺の方から顔を出さなくちゃ話が始まらなかっただろう?」
黎明と呼ばれた男が静かな口調で言葉を返した。男の声はとても低く、見た目からでは若いのか年老いているのか判別つかない。神代とは対照的に上は白いワイシャツで下は紺のデニムと至って簡素な服装をしていた。無精髭を生やしていて、明るい色の茶髪は寝ぐせのように跳ねている。客観的に見ても浮浪者と間違われても仕方ない恰好だった。
「こちらから黎明くんにコンタクトを取るのが複雑で面倒なんだよね。会う為にわざわざ情報屋を通さないといけないから。それ以外で君の足取りを追うのは不可能。あのさ、本当に面倒だからさ、そろそろ通信機器の1つくらい持ったらどうなんだ?」
「俺はその類いの機器を所持するつもりは無い。情報屋から俺との接触方法を教えてもらえば良いだろう?」
「訊いたらその情報だけで20億だってさ。君とのアポイントを取る権利だけでも50億………買うくらいなら遠慮しておくよ。お金が無駄だからね」
「そうかい。だったら文句を言うな」
軽口を叩きながら雑談を交える2人。首相官邸という高尚な雰囲気漂う場所には珍しい異色の組み合わせが談笑をしていた。
しかし牙王黎明、この男は只者ではない。牙王家の内部でも彼の姿を追える者はいない。通信機器の類いを所持していない為に連絡が取れず、居場所も特定できない。彼との接触方法でもある唯一の手掛かりは限られた情報屋とのコネクトのみである。国内外問わず歴史的な大事件の裏側には必ずこの男の姿があり、特に裏社会にはその顔がよく通っていた。彼の実態を探るべく世界中の情報機関が躍起になって調査をしているが、それでも正体を捉えることは未だ出来ていなかった。
そんな男が今、首相官邸にいた。そして内閣官房副長官というポジションに身を置く神代と秘密裏に会談を行っていた。
「こういう仕事は例の傭兵崩れの殺し屋にでも任せるべきじゃないのか?」
レセプションへ向かう業界の重鎮たちが黎明の前を通り過ぎる。その光景を眺めながら黎明は愚痴を零した。彼は脚を組み。気だるげに表情を緩めている。それに対して神代は口元に笑みを含ませながら答えた。
「ああ、彼か。彼には別の仕事を任せていてね。今はそっちに専念させているんだ」
言葉を濁すように答える神代。黎明はその反応を見抜いてすぐさま言い返した。
「異世界、だろ?」
“異世界”。
黎明の口から飛び出したその突拍子も無い単語に神代は一瞬だけ目を丸くした。しかし彼はすぐに表情を元に戻した。そして小さな笑い声を漏らす。神代の顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
「………なんだ。君の耳にも届いていたのか」
神代は肩を落とし、わざとらしく落胆して見せる。黎明もまた鼻で笑った。
「異世界なんてファンタジー小説の中だけ、そんな風に思っていたよ。だから現実に存在しているなんて言われても不思議な感覚に襲われるばかりだ」
「誰もが最初はそう言うだろうさ。」
神代はなぜか得意げな態度で話している、まるで自分が異世界の支配者であるかのような自信に満ちた表情で。黎明は彼の態度に違和感を覚えはしたが、言及したりはしなかった。そんな黎明を気にすることなく神代は話を続ける。
「彼なら異世界で充分な成果を出してくれるさ。何も心配は無い」
「ずいぶんと買ってるんだな、奴のことを」
「もちろんだよ。黎明くん、君のことも私は評価している」
神代はそう言うと突然ベンチを中指で叩いた。2回。その音を聴いた黎明は少しの間口を閉じて沈黙に浸る。何かを警戒するように、彼らは声を潜めた。
「しかし何故、奴だけにこんな大役を?1人でやるにはあまりに困難な仕事だ。普通に考えればミッション達成は不可能だろう」
「《《普通》》ならね………」
「奴は普通ではないと?」
「君も知っているだろう、彼のことを。諸国が軍を総動員させるなら、日本は彼を戦場に立たせれば良い………これが比喩ではなく現実として拮抗するパワーバランスであることは明確な事実だ。不本意ではあるが、彼は牙王一族の最高傑作だよ」
「それは俺も知っている。俺は奴の心情について言ったんだが」
「あぁ、そういうこと?君が気にすることじゃないよ。それに彼を独りで異世界に行かせた理由はもっと別にある訳だし」
「………まぁ良い。牙王家の意向を俺がとやかく言うつもりは無い。次期代表者のあんたが決めたことなら俺は従うさ」
黎明は半ば強引に話を切り上げた。彼自身も異世界に赴いた男の実力は理解していた。殺し屋という肩書ではあるが、国家ですら単独で滅ぼしてしまうほどの実力を有している。例え場所が異世界に変わったところで不足無く働いてくれるのだろう。
黎明が気にしていたのは、当の本人が牙王一族に並々ならぬ反骨精神を抱いている現状にあった。牙王の姓を忌避し、いつかは一族を滅ぼすのではと思えるほどに嫌悪している。そんな彼を信頼している神代に対して、黎明の心には違和感だけが積もっていた。だが尋ねたところで答えはしないだろう、それが分かっているからこその皮肉だった。
「私はそんな人間じゃないさ」
神代は特に笑うこともなく静かに反論する。
「白星もあんたを次期代表者として認めているそうじゃないか」
「勝手に言ってるだけさ。私は日本が良くなればそれで良いんだよ。本筋だの代表者だの、私はそう言ったことに興味が無いんだ」
神代は俯いて自分の指を見つめながら感慨に耽るように言った。その表情は背を向けている黎明には見ることが出来ないが、口ぶりから察するに神代がこの話題についてこれ以上口を開くつもりが無いことは理解できた。
「………まぁそういうことにしておいてやる。だがオペレーション:ユビキタスは神代、あんたが主導しているんだろう?」
黎明が発した言葉に神代が眉をひくつかせて反応を示す。そしてすっと彼の顔から笑みが消えた。
わざわざ黎明が日本に、しかも首相官邸にまで足を運んだのは神代と雑談をする為ではない。互いの持っている情報を確認し合うのはもちろんだが、それ以上に黎明が知るべきことがあったからだ。
それがOperation:Ubiquitous。現在牙王一族が総出で取り組んでいる大きな作戦の1つ。しかしその実情を深く理解している者は少ない。黎明ですら作戦の概要と己の任務のみ知らされるだけだった。だからこそ知りたい、神代がこの作戦に向けた想いを知りたかった。
黎明からの思わぬ問いに神代はしばらく言葉を詰まらせた。何かを言おうとする度に口を閉ざす。そうしてゆっくりと時が流れる中、彼は独り言を呟くように話し始めた。
「オペレーション:ユビキタスネスか………それは私たちに必要だ」
冷たい声。聴く者を凍えさせるほどの感情が無い声だった。黎明は背筋から神代の放つ気配が変わったのを感じ取った。それは内閣官房副長官と言う立場の男から、真に野望を背負った恐ろしい“牙王神代”という1人の男へと変貌した瞬間である。
「牙王家は日本を本気で変えるつもりなのか?」
黎明は質問を続ける。神代はまた黙り込んで回答を遅らせている。その間を急かすように黎明は組んでいる脚で貧乏ゆすりを始めた。
ふと、神代が小さく笑った。それはいつもの不敵な笑みであり、邪悪さを含んだものだった。
「日本だけではない。―――――世界そのものを、だ」
神代の声色は先ほどとは裏腹に子供のように弾んでいた。だが、聴く者を震え上がらせる凍てつく声は相変わらずだった。
「異世界の存在は現在の日本国にとって無限の有益性を内在している。私たちは遂に手に入れたのだ。戦後最大の資源を………」
神代は腕を組みながら静かに肩を震わせている。声を出して笑いたいのを必死に抑えている様子だった。
オペレーション:ユビキタス、その作戦概要は至ってシンプルなものだ。
それは“世界征服”。単純ではあるが、現実には不可能と揶揄されるような目標だ。しかし牙王一族は本気で目指している。荒唐無稽とさえ言える馬鹿げた絵空事を、彼らは実現可能と判断しているのだ。
こうしてオペレーション:ユビキタスは開始した。
神代は息を整えるように深呼吸をする。恍惚に浸っているかのだろうか。彼の頬はわずかに紅潮していた。口元を手で隠しながら再び話し出す。
「オペレーション:ユビキタスは牙王家が世界を変える為の作戦。これを成功に導く為にも、牙王一族の皆には多方面で働いてもらう必要がある」
「あぁ、だからこの世の何処にいるとも知らない俺にまで話を持ち込んだんだろう?」
「その通りだ」
「まったく。人使いが荒い………」
黎明は呆れたように溜め息を吐いた。首を回しながら髪を無造作に掻きむしる。すると四つ折りにした一枚の白紙を懐から取り出した。
「公庫と輸銀はまもなく決着が着く。公庫は中小企業だけでなく農林水産業にまで手を伸ばして牙王の息を吹きかけておいた。輪銀については外資系を含む日本を出入りしている会社の外交ツールを掌握するのに時間がかかったよ。だから羅刹の力を借りた。彼女はシルバー・ファイブ・インベストメント・マネジメントの専務を務めているから情報提供は容易だったよ。それ以外の政府系金融機関はあっさり牙王家の傘下に下った。航空会社の株の取得も終えたから、空運海運も支配済み。日本国内に限って言えば、提携企業同士の癒着を深めて上場企業の95%が、既に牙王家もしくは分家の人間によって実質的な主導権を握っている状態だ」
黎明は自分が終えた仕事を述べる。そして彼は白紙を神代に向けて差し出した。
「仕事が早いね。お疲れ様」
神代はその紙切れを背面越しで受け取ると、広げて中身を確認し始めた。黎明は彼の様子を覗き込むように首を動かす。神代は黙って紙に書かれている文面を黙読した。黎明はそのまま尋ねる。
「最終チェックは次の日銀金融政策決定会合に間に合うと思うが、そっちも俺が向かうのか?」
「その必要は無い。そうするまでもなく、日銀は既に牙王家の傀儡だ」
神代は紙にまとめられている内容に一通り目を通しながら答えた。そして読み終わると彼は自身のスーツの懐にしまった。紙に書かれていたのは黎明が達成したミッションの数々。予め日本政府が情報屋を経由して通達していた任務を彼は滞りなく完遂させていたのだ。
神代は満足げに笑みを浮かべる。するとまた先ほどと同じように突然ベンチを中指で叩き出した。今度は3回。
「─────もう良いのか?」
黎明は勘ぐるように尋ねる。一方で神代は自信に満ちた表情で答えた。
「あぁ。もう大丈夫」
彼のその言葉に黎明は思わず鼻で笑った。
「5分前から俺たちの会話が盗聴されていたな。それで“もう大丈夫”なのか?」
中指でベンチを叩く合図。それは盗聴、監視、尾行の合図である。牙王家には共通して持ち合わせているシークレット・サインが存在する。一族の人間は物心着いた頃から牙王家相伝の様々な処世術を学ぶのだ。シークレット・サインもその内の1つである。先ほど神代は2回と3回に分けてベンチを叩いたが、これこそがまさにシークレット・サインだった。『盗視、盗聴の類いをされている』というメッセージ。
そう、実は黎明と神代の2人の会話はずっと盗聴されていたのである。
神代は特に表情を変えることもなく、静かに手を2回叩いた。すると先ほどまで側の銅像で立ち呆けていた1人の女性が黙って近づいて来る。そして彼らの前で立ち止まった。
「盗聴されている。恐らく2階だ。始末してくれ」
神代が淡々と説明する。彼は女性と目線も合わせずに、しかし確かに彼女に話しかけていた。
「手段はどのように?」
女性も目線を合わせることなく、まるで機械人形が喋っているかのような口調で話す。表情に一切の変化が無い為に、黎明は彼女の感情をまったく読み取れなかった。
「死体はできるだけ大衆の目が届く位置に捨ててくれ。見せしめの為だ。それ以外は手段も問わないよ」
「かしこまりました」
女性はそう言い残すと何処かへ行ってしまった。彼女の姿が見えなくなると、黎明が神代に話しかける。
「今のは?」
「国が雇っている殺し屋だよ。政府公認の暗殺者ってやつだね。非公表ではあるけど」
神代は冗談っぽく笑って答えた。まるで日常のことだと言わんばかりに振る舞っている。彼の答えに黎明は顔を歪めながら再度尋ねた。
「大丈夫なのか?殺し屋には見えなかったぞ。キャリアウーマンの間違いじゃないのか?」
「あんな身なりでも腕は立つんだ。異世界へと向かった殺し屋くんには劣るけど大丈夫、心配はいらない。もともと《《炙り出す》》為にこんな人通りの多いホワイエで君と話をしているんだ。すべては私の予測の範囲内だよ」
神代はなおも笑って言った。一体どこからその自信が来るのか。黎明は腑に落ちない様子で、深々と溜め息を吐いた。
「ひとまず報告は以上だ。また進展があれば伝えるよ」
「あぁ、今後も引き続き頑張ってくれ。今日はわざわざ来てくれてありがとう、黎明くん」
神代は黎明に激励の言葉をかける。そして一人立ち上がると、そのままその場を去ろうとした。
「待ってくれ。最後に1つだけ」
立ち去ろうとする神代を黎明が呼び止める。神代は振り返ることなく立ち止まった。
「なんだい?」
静かな声だった。だがその声には圧があった。言いようの無い、重みのある圧力が。
「あんたはさっき『日本が良くなればそれで良い』って言ったよな?」
「あぁ、言ったさ」
「それは誰にとっての日本だ?」
黎明はこの質問に深い意味を持たせてはいない。会話の軽い流れのようにさらっと言ってみせた。一方で神代もまた挙動を崩さず不自然さを見せない。黎明からでは表情を確認することはできないが、背中からでも彼の様子が窺える。
神代は一切の変化も見せなかった。それどころか気軽に質問に答えてみせた。
「そんなこと決まっているだろう―――――私にとっての日本だ。私の日本だよ」
堂々と。さも当然と言わんばかりに。この世の真理を答えるかのように神代は言ってのけた。
「では失礼するよ。お昼休みが終わってしまうからね」
そう言って神代は去った。
神代が去った後、黎明はしばらくベンチで座り込んでいた。目の前を通り過ぎる人々を眺めながら頬杖を突いている。何を考え込んでいるのか、一言も発さずに固まっていた。
やがておもむろに立ち上がると、黎明は首相官邸を出て行った。その道すがら彼は誰に聴かれるともなく独り言を呟いた。
「別にこの世界がどうなろうと俺には関係ない。だが、俺にまで危害が及ぶようなら出方を変えないとな………そう。例えば“味方を変える”とかね………」
現在牙王家の代表者は牙王白星だ。既に100歳を超えており、余命を考えれば次期候補が出てきてもおかしくないだろう。代表者になれるのは本筋の人間だけ、そして本筋は今4名いる。内閣官房副長官である牙王神代、そして牙王真理、牙王全能、牙王嶄絶の4人だ。後釜を埋めるのは神代と言うのが牙王家内での大多数の意見だ。
だがこの先どうなるかは誰にも予測できない。オペレーション:ユビキタスが無事に成功するかどうか、それが鍵となるだろう。黎明は人混みの中に消えていった。彼の行く先は誰にも分らないだろう。




