第31話 ワニの日
あれからオールナイフは、ほぼ毎日キング様の屋敷へ訪れるようになった。キング様の目を盗んで、オールナイフは僕に会いに来る。
「よお、今日も医学書を読んでるのか?」
「また来たの? 君はしつこいね」
「まあな。しつこいのは否定しない。それより、これを見ろよ」
机に向かって本を読んでいた僕に、オールナイフは話しかけてきた。彼の手には、薄汚れた赤色のワニのマスコットが握られている。
「なにこれ……」
「お前に似てると思ったんだ。新品は買えなくてな、悪い……」
オールナイフは少し気まずそうに顔を背けて、僕にワニを差し出してきた。
「受け取ってくれるか?」
僕は差し出された赤いワニのマスコットを見つめる。ここで断っても、オールナイフは怒らないだろう。だけど、彼が傷つく顔を見るのは何となく嫌だった。
「もらってあげるよ」
「ああ、ありがとな」
「ふふっ、君がお礼を言うの?」
僕が受け取ると、オールナイフは嬉しそうに笑った。僕は改めて手のひらに収まる小さなワニを見た。可愛らしい見た目のマスコット。でも、実際のワニは執念深くて凶暴な生き物だ。
「僕のどこがワニなのさ……」
「リヴァーは川だろ? お前は川に潜んでそうだ」
「意味が分からない」
僕はオールナイフに呆れた視線を送る。どうせ深い意味なんてないんだろう。僕にこのマスコットを送ったのも、ただの気まぐれだ。ため息をついた僕に、オールナイフは柔らかい笑みを浮かべる。
「お前はワニだ。小鳥じゃなくて、ワニなんだ。鳥籠で飼われるペットなんかじゃない。野生で生きられる力を持った捕食者だ」
「どういう意味? 全然、分からない」
「意味なんかねぇよ。俺が勝手にそう思ってるだけだ」
僕が怪訝な顔を向けると、彼はますます楽しそうに笑う。オールナイフは僕に手を振って、部屋のドアに手をかけた。
「意味がないからいいんだ。理屈も何もない。チェックキングが意味のあるものを与えるなら、俺はお前に意味のないものを渡したい」
「変なやつ……」
オールナイフが去った後も、僕はワニのマスコットを握りしめていた。自室から出て、僕はキング様の部屋を目指す。ノックをすれば、直ぐに入室の許可が出た。黒いソファに座っているキング様に近づく。
「覇王様、オールナイフから、このマスコットをもらったんだ。持っていても良いかな?」
「レディ……他人を簡単に信じてはいけないと、あれほど教えてあげただろう?」
キング様は困ったように微笑んでいる。僕は申し訳なくて、俯いたまま黙ってしまう。それでも、このマスコットを何故か捨てる気にはなれなかった。
「レディ、私が新しいぬいぐるみを買ってあげよう。それは少し汚れているからね。私に貸してごらん」
キング様にマスコットを渡そうとして、僕は手を止めた。僕がマスコットを受け取った時に、オールナイフは嬉しそうに笑っていた。彼の笑顔がどうしても頭から離れてくれない。
「汚いから……ダメなんだよね」
「レディ……?」
僕はマスコットを握りしめて、キング様に頭を下げる。汚いからダメなら、洗えばキング様は許可を出してくれるはずだ。
「覇王様、マスコットを洗ってくるから待ってて!」
そう言って、僕はお風呂場へと走り出した。お湯を出して、泡で丁寧にワニのマスコットを洗う。
「僕は何でこんなに頑張ってるのかな」
自分でも分からないけれど、このマスコットだけは手離したくないのだ。ワニを洗っている途中で、メイドさん達に声をかけられたけど、僕は全て断って自分で洗い続けた。まだ少し汚れているけれど、ある程度綺麗になったワニのマスコットをキング様に見せる。
「覇王様……このワニ、綺麗になったよね?」
「そうだね、レディ」
キング様はいつも通りの優しい微笑みを浮かべていた。それなのに、どこか冷たい空気が流れているのを、僕は本能で感じ取る。緊張して体が強ばっても、両手に握りしめたワニだけは捨てたくなかった。キング様は自身の右目の眼帯に触れながら、心底楽しそうに笑う。
「ふふっ、すごい子だ。君もオールナイフも、私の予測を超えてくる……」
「覇王様……?」
黒い片目は穏やかなのに、どこか仄暗い色を宿している。光のない黒い瞳に、不安になった僕は半歩下がろうとする。足を動かそうとした瞬間に、キング様の右手が僕の頬に触れた。
「良いよ、レディ。そのワニはもう君のモノだ」
「あ、ありがとう、覇王様……」
僕が恐る恐る顔色を伺うと、キング様は両手を広げた。先程の暗さはもう見えないけれど、僕はまだ足が微かに震えている。
「レディ、おいで」
「はい、覇王様……」
たった一言、声をかけられただけだ。それだけなのに、僕の足は簡単に動き出す。優しく抱きしめられると、強ばっていた体も自然と力が抜けていった。
「レディ、愛しているよ。従順な君も、少し反抗的になった……お前もね」
耳に届いた声は最後だけ低くて、記憶に鮮明に焼き付く呼び方だった。僕は真っ赤なワニのマスコットを握りしめて、自室へと戻る。
「はぁ、はぁ、はっ、う……」
息を荒らげて、部屋の中を見回す。この部屋にはぬいぐるみも医学書もあるのに、窓だけは一つもない。僕は拾われたあの日から窓がないことに気づいていた。それでも、キング様から与えられる愛が欲しくて、ずっと気付かないフリをしていた。
「小鳥じゃなくて、ワニ……」
オールナイフの言っていた言葉を何度も思い出す。彼はここが鳥籠だと気づいていたんだろう。僕が外に出られないことも、キング様に縛り付けられていることも、オールナイフは全部知っていた。それでも、彼は無理に連れ出そうとはしなかったから、僕は突き放せなかったんだ。
「自由に……」
言葉の続きは出てこなかった。ワニを握りしめながら、僕は眠りにつく。僕はまだ、鳥籠の中から出ることはできなかった。
◇
朝になって目が覚めると、ベッドにキング様が座っていた。キング様は僕の顔にかかった髪の毛を、細い指先ですくいとる。
「おはよう、レディ。今日は君に話したいことがあるんだ」
「覇王様……?」
「レディ、君もそろそろ独り立ちしたいだろう。私の友人のところへ行ってみないかい?」
「え……」
全身の血の気が引いていくような感覚がした。昨夜のキング様から離れたい気持ちが一瞬で消え失せてしまう。僕はベッドから飛び起きて、キング様の胸に飛び込んだ。
「嫌だ! 覇王様、僕を捨てないで!」
「レディ、君は自由になりたいんだろう?」
背中を撫でる大きな手が、僕の肩を掴んだ。ゆっくりとキング様の胸元から引き離されて、僕の瞳からは涙が溢れ出てくる。
「キング様、キング様っ……」
「私はここにいるよ。可愛いレディ……」
涙を流しながら縋り付くようにキング様を見つめる。彼は困ったように眉を下げて微笑んでいた。
「キング様、離れたくないです……」
「レディ、私は君を見捨てたりしないよ。だが、外の世界を知ることも大切なことだ。一度、外の世界を見に行ってごらん。そして、帰りたくなった時は、また私の元へ帰ってきなさい」
キング様の声はどこまでも優しくて愛に満ちていた。少しずつ落ち着いてきた僕は、いつも通りの答えを返す。
「はい、覇王様……」
「良い子だね、レディ」
キング様に慰められながら、僕は彼の胸元にもう一度寄りかかる。今度は引き剥がされずに、強く抱きしめられた。
「レディ、私が与えたものを上手く使いなさい。君は自由に生きていいんだ」
「はい、覇王様……」
そう言って、僕は目を閉じる。キング様の低くて甘い声が、僕を安心させてくれた。
「レディ、君に渡したいものがあるんだ」
「渡したいもの……?」
顔を上げると、彼は懐から黒い無地の眼帯を取り出した。キング様と同じ眼帯を見せられて、僕は困惑しながら首を傾げる。
「目を閉じてごらん」
「はい、覇王様……」
言われるがままに、僕は目を閉じる。左目に冷たい眼帯の感触がして、少し肩が跳ねた。
「もう目を開けても構わないよ」
「眼帯をくれるの?」
左目が見えないは不便だけれど、キング様からもらったものだと思うと嫌ではなかった。落ち着かなくて、何度も左目につけられた眼帯を撫で続ける。
「レディ、私の可愛いレディ。今は左半分だけだ。だが、いずれは君の右半分も私のモノになる」
キング様は僕の耳元でそっと囁く。僕は言葉の意味を理解できなくて、不安から逃げるように彼のスーツの胸元を掴んだ。
「チェックメイト……帰ってきた時に、もう一度だけ言ってあげよう。この言葉を聞く時、君は私に全てを支配されることになる」
キング様は僕の頭を撫でながら、喉を鳴らして笑う。本当の自由さえも知らないまま、僕はキング様の鳥籠から飛び立った。最初から最後まで僕には自分の意思なんてなかったんだ。チェックキングという男の盤面で、僕は動かされるだけの駒に過ぎなかったのだ。




