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第30話 完璧な飼育

豪雨にうたれて、重たい医学書を両手で持ちながら僕は歩く。行くあてもなく、自分が何者なのかも分からない。僕が分かるのは、自分の名前だけだ。目が覚めた時に、レディリヴァーという名前だけが僕の頭の中に存在していたのだ。


「けほっ……」


「行くあてがないのかな?」


咳をして立ち止まると、低くて甘い男性の声が聞こえた。振り返ると、黒い仕立ての良いスーツを着た男性が立っていた。その後ろには黒い車が止まっている。普通なら警戒するべきなのに、男性の優しげな微笑みを見ていると、不思議と恐怖を感じなかった。


「だ、れですか?」


恐る恐る顔色を伺うように、問いかける。黒い眼帯を付けた男性は、僕の方へ傘を傾けてくれた。


「私はチェックキングだ。行くあてがないなら、私のところへおいで」


「あ……」


チェックキングと名乗った男性は、さらに傘を僕の方へ向けて、冷たい雨から守ってくれた。雨で汚れたコンクリートの地面に、彼は迷いもなく膝をつく。


「こちらへおいで、可愛い子。私が今日から君の父親であり、師となる男だ。手を出してごらん」


「僕は……僕はレディリヴァーです。僕を拾ってくれるんですか?」


僕は医学書を地面に落として、差し伸べられた手を両手で掴む。目の前にいる人が、僕を救ってくれるのだと信じたかった。彼は必死に縋る僕を見て、目元を緩めて柔らかく微笑む。


「ああ、もちろんだとも。君が望むなら、何度でも手を引いてあげよう」


「ありがとう、ございます……」


言われた言葉の意味を理解した瞬間に涙が零れていく。僕は乱雑に両手で涙を拭った。


「そんなに乱暴に拭いてはいけないよ」


黒革の手袋を付けた手が僕の涙を拭う。冷たいはずの手袋が温かく感じたのは、彼の黒い瞳に愛情が灯っていたからだ。初対面の彼に、僕は確かに愛情を感じ取った。


「僕を導いてください、チェックキング様」


「私を信じてくれてありがとう、レディ。君が幸福になれるように、私が導いてあげよう」


そう言って、彼は片手で僕を抱き寄せてくれた。彼の体温が衣服越しでも十分に伝わってくる。その時、僕はようやく息を吐き出して、肩の力を抜くことができた。これが、僕と彼の出会いだ。

 

◇


茶色の木製の本棚が並ぶキング様の執務室で、僕はキング様に構ってもらおうとしていた。あれから、2年経って僕は12歳になった。成長していく僕を、キング様は変わらずに甘やかしてくれる。


「覇王様〜! 覇王様〜!」


焦げ茶色の高そうなデスクの上を寝転がる。重要そうな書類が下敷きになっても、キング様は怒らない。キング様はまだ22歳なのに、天守地区ナンバー2の巨大マフィア・トラジェファミリーの最高幹部だった。


「レディ、仕方のない子だね。仕事は一旦やめにしよう」


キング様は穏やかに微笑んで、僕の体を抱き上げてくれた。温かいご飯も、柔らかいベッドも、溢れそうなくらいの愛も、キング様は惜しみ無く与えてくれる。


「覇王様! 何か面白い話をしてよ!」


「面白い話かい? ふふっ、君は難しいことをおねだりするね」


キング様の膝の上で、彼に優しく髪を撫でられる。僕を見つめるキング様の黒い片目は、いつでも愛に満ちていた。


「そうだ、あの話をしてよ! キング様が神様を殺して、このキラーガーデンの覇王様になる話!」


「もちろん構わないよ」


僕がキング様にお願いするのは、決まって同じ話だ。その話をしている時のキング様は、いつも楽しそうに見える。


「このキラーガーデンには神がいるんだ。神言地区が神の言葉を聞いて、正罪地区がそのルールを広めて、きちんと守らせる」


キング様は僕の頬を撫でながら、柔らかく微笑みかける。僕は彼の手に擦り寄って、目を閉じて甘えた。


「レディ……私はいつか神を殺してみせるよ。君を地獄行きになんてさせない。私がこの世界の王になって、君を救ってみせるからね」


「覇王様、あなた様ならきっと出来ます」


キング様は嘘をつかない。だから、僕は安心して彼のお話を信じられるのだ。黒革の手袋は冷たいけれど、キング様の声はどこまでも温かい。

 

「良い子だね、レディ。君は賢くて本当に良い子だ。良い子だね、良い子……良い子だ」


何度も囁かれる度に、僕の心が満たされていくのを感じていた。こうして囁かれる度に、キング様は僕を愛してくれていると実感できるのだ。


「レディ、私の言うことが聞けるね?」


「はい、覇王様。僕は覇王様を信じています」


いつかキング様は本物の覇王様になる。その時には必ず、この方の隣にいたいと、僕は本気で願っていた。


◇


その日の夜は酷い雨で、僕は屋敷の中を自室へ向かって歩いていた。部屋の扉を開けて、僕は電気をつける。その瞬間、ずぶ濡れの茶髪の少年が、壁際に立っていることに気づいた。錆びたナイフを持った赤い瞳の少年は、僕の姿を見つめている。


「えっと……君はだれ? 覇王様の知り合いなの?」


「覇王様って、チェックキングのことか? 変な呼び方をしてるんだな」


彼は僕に近づいてきて、一歩前で立ち止まる。小首を傾げている僕に、少年は呆れたようにため息をついた。


「おいおい、危機感が無さすぎるだろ。俺はナイフを持ってるんだぞ。大声を出すとか、逃げるとかないのかよ」


「でも、君からは殺意や悪意を感じないよ? それに計画的な犯行じゃないよね。ナイフと衣服についた血液、靴についてる砂利。そして、この匂いは……男性用の香水だね。任務終わりに僕を観察しに来た要人専門の暗殺者の人かな?」


「お前……なるほどな。チェックキングが気に入ってるわけだ」


少年は口元を歪めて、楽しそうに笑う。そして、ナイフを持っていない方の左手を差し出してきた。


「俺はオールナイフだ」


「僕はレディリヴァー。握手はしないよ。悪いけど、僕は簡単には他人を信用しないんだ」


「それもチェックキングの教育か?」


少し眉を寄せて、オールナイフは僕の目を見つめてくる。僕は無言で彼に笑いかけた。相手に圧を感じさせる笑顔の作り方は、キング様に教えてもらったものだ。オールナイフがキング様に敵意を向けるなら、僕はここで彼を潰さなければならない。背中に隠したメスを密かに衣服越しに撫でると、オールナイフは両手をあげた。


「悪いな、いきなり踏み込みすぎた。今日は帰る」


「今日は帰るってことは、明日も来るってこと?」


「ダメか?」


僕は警戒しつつも、彼と話すメリットを考える。キング様は僕を外に連れて行かないので、僕は外のことをあまり知らない。オールナイフと仲良くしておけば、後々役に立つだろう。僕は穏やかな微笑みを保ったまま口を開いた。


「君がクルエルファミリーじゃないなら構わないよ。でも、君の事はキング様には、ちゃんと報告するからね」


「俺は一応、お前と同じトラジェファミリーだ。また明日、同じ時間に来るからな」


そう言って、彼は片手を上げて立ち去った。僕は彼の気配が無くなるのを確認してから、キング様の部屋へと向かう。数回ノックすると、入室の許可の声が聞こえてきた。


「どうしたのかな、レディ」


「オールナイフという少年が屋敷に侵入してたよ。先程まで僕の部屋にいたけど、もう出て行ったと思う」


「ふむ……怪我はないかい? 何もされていないかな?」


ソファに座っていたキング様は、僕の言葉を聞いて少し足早に近づいてくる。彼は僕の体に触れながら、心配そうに聞いてくれた。


「覇王様、僕は大丈夫! どこも怪我をしていないよ!」


「ああ、良かった。無事ならそれでいい。だけどね、キラーガーデンに善人など存在しないんだ。そのオールナイフという少年にも気をつけるんだよ」


「はい。覇王様! 気をつけます!」


僕の返事を聞くと、キング様は両腕で包み込むように抱きしめてくれた。彼はそのまま僕を抱っこして、部屋の外へ歩き出す。


「部屋に戻ろうか、レディ。知らない人間を相手にして、緊張で疲れただろう?」


「疲れてはいないよ。僕は、」


「レディ、屋敷の外の人間は怖かっただろう? 不審者に会って、君は緊張した。違うかい?」


キング様の言葉を聞いて、先程の光景を思い出す。ナイフを持った少年を見て、少しだけ怖いと思った。でも、同時に初めて会った同じ年齢くらいの少年に興味もあったのだ。


「少しだけ怖かった……でも、」


「怖かったね。可哀想に……次からは屋敷の警備をもっと厳重にしてあげよう」


そう言って、キング様は僕の背中を優しく叩く。気づくと、僕は自然と口を開いていた。


「うん、確かに怖かったかも……」


「ふふっ、もう大丈夫だからね。ほら、部屋についたよ。今夜は君が眠りにつくまで、私がそばに居てあげよう」


キング様にベッドまで運ばれて、布団を首元までかけてもらった。子守唄のような優しい声を聞いていると、徐々に眠たくなってくる。


「おやすみ、レディ。私の可愛いレディ……」


「おやすみなさい、覇王様……」


微睡む意識の中で、僕はキング様の手を無意識に握る。握り返された手は黒革の手袋に覆われていて、僕は酷く冷たく感じていた。

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