百十八話
桐葉の一撃を回避した隆幸は、保高――今岡桐葉から距離をとる。肘あたりに切り傷がついた。さらに焦って取り出したナイフも取り落とし、丸腰状態という最悪なおまけつきだ。なれない運動と極度の緊張で、心臓がきりきりと痛んだ。
「ッチ。もっと事前に攻撃の練習しておくんだった」
先ほど見ていた名簿にザクリと中華包丁を突きたてる。腹立たしそうに名簿を見つめながら、桐葉は再び刃物を振るう。その迷いなき動作に、隆幸は戦慄する。
「さ~て、職員室は私がふさいだ入り口だけ。貴方はもう逃げられないね~」
荒々しい言動が嘘のように、ころっと無邪気な笑顔とともに長髪を揺らす。楽しそうな彼女と相反し、隆幸は歯ぎしりする。ちらりと窓を見やり、ゆっくりと後ずさる。
「お前……何でこんなことしてんだよ」
狂人。今の桐葉にはまさしくこの言葉がとても合っていた。しかし桐葉は全く臆する様子もなく、わずかに肩をすくめるだけだった。
「分かってるんでしょ? ただの復讐。先生のおかげで私の家は滅茶苦茶になった。だからかな?」
小説でもよくある展開でしょ? と桐葉は投げかけてきた。
「なんで俺らもつけ狙う?」
窓に背を付け、隆幸は問う。すると桐葉は一瞬目を丸くした。
「理解してないの。貴方の胸に手を当てて考えなさい?」
すぐに冷たい目をし、彼女は舌なめずりをする。
……彼女の論理なら、隆幸らも何かをしたということになる。
だけど、なにを? 少なくとも彼女を認識したのは晴人とともに学校を訪れた時が初めてだし、晴人に至っては今日が初対面だ。
「少なくとも、桜井さんは分かっている様子だったけれど」
「桜井が?」
謎だらけだ。だとすれば楓の調べ物は、桐葉の復讐動機にも関連していたことになる。
「桜井さんは薄々私の家庭の事情も知ってたみたい。やっぱり聡明な女性だった」
桐葉は楓を高く評価し、それからぽつりと話しだした。
「私の両親さ、仁――よくできた兄さんが死んで精神を病んでね。いつもケンカばっかりになっちゃった。で、結局そのまま自殺しちゃった」
冷徹な瞳に哀愁のようなものが浮かぶが、やがて再び厳格な青い双眼を向ける。桐葉の壮絶な身の上に、隆幸はどう声をかければいいかわからず、そのまま立ち尽くす。
「今も覚えてる。家に帰ったら父さんと母さんが首を吊ってた。もし友達と遊びに行かなかったら、私も死んでいたかも。実際、私が駆け付けた時にはまだロープは揺れてたから」
遺書には仁の後を追うという趣旨のことが書かれていた。桐葉に対する謝罪も。




