百十七話
死体のような、冷たい目が、小柄な真樹を見下ろしている。能面のような無表情。知っている彼女の、しかし知らない彼女。五十センチの距離もなかった。
叫び声をあげる暇もなかった。呼吸の仕方を忘れるほどの衝撃を受けていた。
二ィ、と楓が――いや、楓の体をもった何かが口角をあげた。
「い、いや」
足から力が抜けた途端、膝を地面に強く強打する。汗でぬめる両手で後退するが、無情にも壁が行く手を阻む。
目が乾き、胃の中の物が食道をこみ上げていく。隆幸の首を絞めていた彼女の姿がちらついた。
殺される――!
すると。
マリオネットの糸が切れたように、不自然に楓の膝が砕け、前のめりになった。両手を地面に着くことなく、額をしたたかに地面に打ち付ける。ゴツン、と鈍い音がした。
そのままピクリとも動かなくなってしまう。
「え?」
理解できずに、真樹は硬直する。
恐る恐る楓の肩をたたくが、反応はない。
「楓さん?」
一瞬嫌な想像をしたが、よく見ると背がかすかに上下している。気絶しているだけのようだ。何が起こっておるか分からず、しばし呆然とする。無音が耳に痛い。
「一体、どうなって――」
ヨコセ。
その言葉は、ガラガラの声に遮られるのとほぼ同時に。
真樹の首に圧迫感がかかった。
逃げる暇もなく、真樹の体は壁に押し付けられる。
「な――!」
楓を見る。ピクリとも動いていない。
さらに呼吸ができなくなった。口を開けるも、酸素の吸入ができず、反射的に体をバタバタと動かし抵抗を試みる。
なんで?
下を見、真樹は震えあがった。
壁から伸びた青白い二本の手が、真樹の細い首に巻き付いていた。徐々に圧迫が強くなっていく両手の力。比例して、真樹の呼吸ができなくなっていく。
苦しい。海で溺れた時のような窒息感に、真樹は必死に抵抗する。手にかかった手首を引っ掻くが、逆に首の骨が折れそうなほどに締めあげられた。
「あ……が……」
ヨコセ。
耳じゃない、直接脳みそに叩きこまれたかのような、しゃがれた声は、文化祭の夜のそれと同じ――!
死ぬ。鉄骨が落ちてきたときと比べ物にならない、本能からの警告。ぎりぎりと締まる真樹の首。
「かえで……さ……助け……」
体が痺れ、言うことをきかなくなる。体に鉛が詰まったかのようだ。
必死に首を動かし、壁側に視線を向け、絶句する。
あの日、首をつっていた女の顔があった。前髪で顔が隠れているが、まぎれもない、あの夜に見た女。
コノカラダ……。
再び、声が響いた。
ワタシノモノ。
顔は分からないが、そいつは確かに嗤っていた。
突然、熱くほてった体の奥深くに、冷たいものがジワリと入った。体の中に何かが入ってきたような、言葉にできない異物感。体の底から冷えていくような寒気。
真樹の体の制御が、できなくなっていく。
嫌だ――。
自分の体に、『何か』が蠢めいている。ゆっくりと動きは大きくなっていき――。
体に冷水でも当てられたかのような恐怖とともに、意識が混濁し始めた瞬間。
ガラガラガラ!
見覚えのある人影が、経営企画室に飛び込んできた。




