百十一話
桐葉だと身構えるも、すぐに別の人物であることに気付いた。
フラフラとおぼつかない足取りで近づいてきたのは、楓だった。
「桜井!」
隆幸が嬉々とした声をあげる。真樹もほっとした。桐葉の元から自力で脱出したのだろう。目立った外傷はなさそうだった。福田先生の顔色が、わずかに良くなる。
「楓さん! 無事だったんですね」
よかった。これで後は晴人と合流さえすれば全てうまく――。
「……どうした? 桜井。何かあったのか」
隆幸が彼女の所に歩み寄った時だった。
楓はぴたりと隆幸の前で歩みを止めた。ゾンビのように、不自然に肩が下がっていることに、真樹は今更ながら気付いた。
脱力した姿勢のまま、にやりと楓は笑い、どす黒い目を向けた。生きているそれとは違う、魚のように、濁った眼。
楓の姿をしているそれは、楓ではなかった。
「な……おい、桜井?」
同時に彼女の腕が、突然隆幸の太い首筋にかけられた。一秒にも満たない時間が、スローモーションのように映った。
苔むした壁に背中を叩きつけられる隆幸。その首には、楓の細い腕が当てられていた。
そのまま締められる隆幸の首。彼はこの期に及んでも状況を理解できていないようで、抵抗することなく驚愕を浮かべていた。
「桜……井」
苦しげに唸る隆幸。ぎりぎりと骨がきしむ音が、鈍く響いた。
我に返る真樹は、すぐさま二人に駆け寄る。
「桜井! 何やってるんだ!」
先生が強引に楓の両腕をとった時、彼女の手が隆幸の首から外れる。
「御堂さん、大丈夫ですか?」
背中をさすり、真樹は隆幸に尋ねると、こくりとしかめ面のまま頷いた。
楓はゆらゆらと体を揺らしながら、冷たい眼差しで福田先生を見つめていたが、やがて両手を前に突き出し襲撃してきた。
「楓さん、やめてください!」
正気で無いことを確信した真樹は、背後から楓を拘束するが、一気に引きはがされてしまう。何も読み取れない瞳が、真樹を映す。
赤い口元が、醜く歪んだ。背筋に冷たいものが走る。
殺される。
「駄目だ、逃げるぞ!」
壁に手を当てて立ち上がった隆幸が、そうどなった。一斉に逃げだす真樹たち。このままいれば楓に絞殺される。冷静さを失い、真樹は廊下を駆け抜ける。後ろに誰かが付いてくる錯覚におびえながら、真樹は階段から下へと降りる。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ!」
階段を何段か飛ばして駆け降り、真樹は一目散に一階の家庭課室に身を隠した。ここなら机が多いので、楓が追ってきても逃げ道がある。入口から最も離れた机の下に身をひそめ、机の隙間から家庭課室の扉をうかがう。
先ほどの騒動が嘘のように、シンと水を打ったかのように静まり返っている。
「一体どうなってるの……なんで楓さんが」
どう見ても正気じゃなかった。まるで操られているかのようだった。
ようやく、隆幸と先生とはぐれたことに気づく。
「冗談でしょ……」
震える体をいなし、真樹はそのままうずくまるしかできなかった。




