シーン 48
宿に入ってから用を足す以外はずっと外に出ることはなかった。
夕食もルームサービスで済ませている。
外に出なかったのは特に理由があったわけではない。
そう言う気分だったと言うだけなので理由を求められても答えに困ってしまう。
正直、あれだけのことがあった後なので心の整理がついていないと言うのが本音だ。
つい最近まで普通の男子学生だった僕には正直刺激が強過ぎた。
だから少し現実逃避の感覚で部屋を出ないと子どもじみた感情に任せ今に至っている。
サフラは僕に合わせてくれたのか同様に部屋から出ることはなかった。
彼女は室内で装備の手入れをしたり身体を休めたりして自由に過ごし少し眠たそうにしている。
中でも武器の手入れには余念がなく、乾いた布で念入りに磨き上げると、笑みを浮かべてスティレットを眺める様子は宝石を愛でる少女の様だった。
丹念に磨かれた刀身は顔が映り込むほど黒光りしている。
しかし、実際には命を奪う武器の整備をしているので宝石と対比するには少し無理があった。
どちらか言えば狩りの前に爪を研ぐ猫科の肉食獣の姿に見えなくもない。
僕は昨日までにはなかったある違和感に気が付いた。
身体が鉛のように重くベッドから起こすことが出来ない。
全身が気だるく手足に力が入らなかった。
顔は風呂上りかと思うほど火照っている。
目を開けているだけでも辛かった。
頭はボッーとしていて集中がなくただ無気力だ。
言ってしまえば全てがどうでもいいと思う感覚に陥っていた。
僕はこの症状を知っている。
何の事はない。
風邪を引いたのだ。
最後に風邪を引いたのは中学生の頃だっただろうか。
当時はインフルエンザかと思うほどの高熱になり病院で点滴を受けるほど重度だった。
完治するまで三日間学校を休んだのをよく覚えている。
今の症状は当時に比べてそこまで重篤と言うことはない。
おそらく日頃溜め込んだ疲れと昨日のストレス、それに寝不足が重なったのが原因だ。
幸い食欲はあったので何か栄養のあるものを口にして安静にしていればすぐに良くなるだろう。
「お兄ちゃん、顔赤いよ。大丈夫?」
「熱っぽいからな。風邪を引いたみたいだ。大丈夫、少し休めばよくなるさ」
「熱?」
サフラは自分の額を僕の額に押し当てて熱を測った。
本人としては無意識の行為だったのだろう。
僕にしてみれば予想もしていなかった行動なので変に意識をしてしまった。
その気になればお互いの唇が触れ合う距離だ。
余計なことを考えたおかげでほんの少しだけ心拍数が高くなるのがわかった。
「うーん…ちょっと熱があるみたいだね。寒気や吐き気はない?」
「あ、あぁ…今のところは平気だ」
「食欲は?何か食べたいものがあったら買ってきてあげる」
「何とか食欲だけはあるよ。ただ、今はパンでもかじれば十分だ。心配してくれてありがとな」
何とか平静を取り戻して感謝を伝えた。
我ながらこう言った色恋沙汰に関して疎いところがある。
経験が浅いと言う自覚はあるものの一般的な色恋とどれほど差異があるのかわからない。
どちらにしてもこう言う時の対処法がわからなくて困ってしまう。
「じゃあお水もらってきてあげる。お兄ちゃんは安静にしててね」
サフラはそう言うと慌ててフロントに走っていった。
そんなに慌てることはないのにと思いつつ彼女の思いやりに感謝する。
静かになった部屋の中は少し物悲しい感じがした。
見慣れない部屋の景色は弱っているせいなのか余計に不安を掻き立てる。
右も左も分からない異世界で僕がひとりぼっちだと実感する瞬間だ。
今まではサフラが一緒に居てくれたので不安を感じることはなかった。
目を閉じると再び昨日の光景が脳裏に浮かんだ。
ふと思い出したのは人を銃で撃つ瞬間に覚えた高揚感だ。
あの時の僕は何故笑っていたのだろうか。
あれほど恐ろしいことをしておきながら正気の沙汰とは思えない。
僕の中にはもう一人の自分を偽った悪魔が棲んでいることに薄々気が付いている。
銃を手にして相手よりも優位に立った時に現れる「それ」は醜悪な悪魔以外の何者でもない。
ただ本能のままに目の前の敵を殺すだけ悪魔。
相手を虐げて欲望を満たすだけの哀れな化け物だ。
もう一人の僕はゴブリンやオークと何が違うだろうか。
本質的には同じだろう。
むしろ、それよりもタチの悪い存在かもしれない。
僕と言う存在そのものが異質なのでそのうち生きているだけで他人に害を及ぼす可能性だってある。
これは自覚していることだが弱っている時はどうもネガティブな思考に陥ってしまう。
こんな時こそ前向きでなければいけないのに。
そしてまた自己嫌悪の繰り返しだ。
負のスパイラルに飲み込まれそうになっているとサフラがグラスを持って帰って来た。
よほど急いでいたのだろうか。
少し息が上がっている。
どうやら階段を駆け上がってきたらしい。
「はい、お水」
「そんなに慌てることはないだろう?息が上がってるぞ」
「こう言うことは早い方がいいんだよ?」
呼吸を整えながらサフラは隣に腰を下ろした。
彼女が戻ってきたおかげでひとりぼっちを不安に思う気持ちはどこかへ行ったことに気が付く。
「そんなもんか?一生懸命になってくれるのは嬉しいけどさ」
「今日は私が朝食を作ってあげるね。トッピングは何がいいかな?」
サフラはいつにも増して世話を焼いてくれた。
そして鞄から食材を取り出すと手際よく朝食の準備に取り掛かる。
本来なら二人で行う作業だが今回ばかりは手出しをさせてくれないらしい。
病人は黙って大人しくしていろと言わんばかりに手で遮られてしまった。
彼女が作ったのは普段から食べなれているバゲットサンドだ。
しかしいつもより厚みがあり明らかにボリュームがある。
早く元気になれと言う彼女なりの気遣いのようだ。
結局、僕が手を出すことはできずサフラが一から作ったバゲットサンドを食べて空腹を満たした。
「…病人って不便だよな」
「どうしたの急に?」
突然話を切り出したのは手持ち無沙汰だったから。
本来ならこれから見知らぬ町を散策に出かける頃だ。
しかし、体調を崩したおかげでその予定も全て延期になっている。
ハンターギルドへ顔を出すのも今日のところは止めておこうと言う結論に至った。
「不自由になって自由の大切さを知るってヤツかな」
「風邪は誰でも引くから気にすることじゃ無いと思うよ?」
「それはそうだろうけど、さすがに情けなく思ってな」
「風邪引いちゃって弱気になっちゃったのかな?」
サフラはズイと顔を寄せてきた。
今日のサフラはやたらと僕の近くに寄ってくる。
決して嫌というわけではなく、むしろ嬉しいくらいだ。
弱っている時は人の優しさを何倍にも増して感じる気がした。
それにしても普段と違う対応に少なからず動揺する僕がいる。
その度に心拍数が早くなるのを感じた。
むしろ、ここまで距離が近いと異性として意識してしまいそうだ。
そうなってしまえば今の関係が終わってしまうような気がしている。
今の関係は気に入っているので壊れてしまうのは望んでいない。
「そう…なのかもしれない。いや、その通りだよ」
「ダメだよ?こんな時こそしっかりしないと!」
「そうだな。お前が居てくれて助かるよ」
「私はただお兄ちゃんを支えたいだけ。命の恩人だし、それに、一番大切な人だから」
サフラの頬が微かに赤くなったような気がした。
気のせいと言うこともあるためあえて触れないのがエチケットだと思う。
そんな感じで午前中はベッドのずっと上で過ごした。
こんな時にテレビか漫画でもあれば時間が潰せるのだが、この世界にそんなものはあるはずもない。
今のところ本の類があることは確認済みだが高級品なので手に入れるのは難しそうだ。
結局、そんな手持ち無沙汰な時間がゆっくりと流れて昼を迎えた。
暇な気持ちを持て余していたので昼食を食べるのはとても楽しみだ。
しかし、そんな楽しみもものの十数分で終わってしまう。
「…暇だな」
「暇だね~」
「俺のことはいいから、お前は遊びに行ってもいいんだぞ?」
「大丈夫だよ。今日は私が一日お兄ちゃんの看病するって決めてるから」
「決めてるって…まあ、それは嬉しいんだけどさ」
「それに二人でお店を見てまわる方が楽しいでしょ?」
「それもそうだな。わかった、良くなったら一緒に見てまわろうな」
「そのためには身体を休めないとね。眠たくない?」
「まあ…取り立てては?」
何故かジッと目を見つめられてしまった。
今日に限って言えばサフラに何でも見透かされた気持ちになってしまう。
別にやましい気持ちがあるわけでもないので特に気にする必要はないのだが。
「じゃあお兄ちゃんが眠れるようにお歌を唄っちゃおうかな?」
「え…?」
予想外のところから球が飛んできた。
それをギリギリのところでキャッチした気分だ。
正直、状況を飲み込むまでに僅かでも時間がかかったのは否めない。
「だから、グッスリ眠れる歌を唄うの」
「あ、あぁ…じゃあ、やってもらおうかな?」
「は~い」
突然サフラの単独コンサートが始まった。
歌う曲はこの辺りに伝わる子守唄らしい。
ゆっくりとした曲調で童謡を思わせる歌詞は聴いていて何故だか気持ちが落ち着いてしまう。
これなら子どもが眠ってしまうのも納得だ。
ただ、結局眠気には襲われずサフラの歌声を聴くだけになってしまった。
「お兄ちゃん、眠くない?」
「いい歌だったからな、聞き惚れて目が冴えちまったよ」
「そうなの?」
「あぁ、だからもう一回頼む」
「は~い」
サフラは上機嫌で唄い始めた。
こんな微笑ましいやり取りを繰り返しているうちに辺りはすっかり夜だった。
ただ、夜になっても熱が下がる気配は見られずまだ春先だと言うのに心なしか寒気感じている。
この感覚はこれから熱が高くなるサインでもあった。
悪寒の症状がある風邪には身体を温める方が効果的だ。
「お兄ちゃん、顔色悪よ?寒気がするの?」
「あぁ…少しだけな」
「それならすぐに身体を温めないと。宿の人に頼んで冬用の布団をもらってきてあげる」
サフラは今朝と同様にフロントへ駆けていった。
今使っている布団は春先から夏用の比較的薄くて軽いものだ。
冬用は綿をたっぷり使った厚手のものなので温かさがまるで違う。
静かな部屋でサフラを待っているうち、次第にまぶたが重くなり、そのまま意識が遠くなった。




