――第5章・レース――
ザリアの評価が頭上に浮かんだままでも、レオ、ザリア、アオイの三人はオマリロから目を離さなかった。
「娘、合格だ」オマリロが言った。
だが、そんなことは三人にとってどうでもよかった。アオイは、本物かどうか確かめるようにオマリロをつついている。ザリアは行ったり来たりを繰り返し、その頭の中では無数の考えが駆け巡っていた。
「あんたが本当に、あの伝説の師匠なのか?」ザリアが問いただした。「で、それを隠してたって? 何だよ、あたしらと一緒にこのダンジョンを抜けて、終わったらポイ捨てするつもりだったのか?」
オマリロはうなずいた。
「まあ」レオが言った。「少なくとも正直ではあるな」
アオイが手を振り、二人の話を遮った。
「そんなのどうでもいいって! ねえ、街の一区画をまるごと持ち上げられるってほんと? 一秒もかけずにドラゴン十匹倒せる? 不死身なの?」
オマリロは彼女を無視した。
「まだ信じらんねえ」ザリアが言った。「ママが全幅の信頼を置いてた師匠が――どんなに強いやつでもぶっ飛ばせるって言ってた人が――ちっこくてヨボヨボのジジイだなんて」
レオが彼女の肩に手を置いた。
「ザリア、さっきの助言を聞いただろう。間違いない。あの人こそが、母の師匠だ。すべて辻褄が合う」
「じゃあ……あたしら、これからどうすんだよ」
「ここから出るために、あの人を頼る。その先のことは……あの人に決めてもらうしかないだろう」
「ちょ、待って。マジで」アオイが声を上げた。「あたし今、伝説と一緒に旅してるんだけど。一生自慢するから!」
ザリアは槍を取り落とした。まだ信じられずにいる。レオはその背に手を添え、なんとか慰めようとした。
この老人は伝説だった。そして……老人でもあった。
オマリロは目を細め、ザリアと視線を合わせた。兄と妹の目にあるのは好奇心、あるいは憧れですらあった。だが、ザリアの目には、もっと暗い何かが揺らめいている。
怒りか。裏切られたという思いか。
何であれ、そこには強い関心が混じっていた。頭の中を覗くまでもなく、オマリロにはそれが感じ取れた。ザリアはその感情を振り払うように、槍を拾い上げた。
「わかったよ。ママの師匠。伝説のハンター。けど、あたしらを見捨てるなんて許さねえからな。わかってんのか? 本当にママのことを大事に思ってたなら――今でも思ってんなら――隙さえあればその子供を放り出そうなんて、できねえはずだろ!」
オマリロは顎をさすり、少しだけ彼女の言葉を考えた。娘の言うことはもっともだ。子供たちを置き去りにすれば、薄情に見えるだろう。ジアの願いを知っている以上、なおさらだ。
「子供ら、己の価値、示せ」オマリロは告げた。「弱い子供、連れていかない」
「あたしらは弱くねえ! あんたが伝説だか何だか知らねえけど、あんた一人で四人分にはなれねえだろ! あたしらはパーティなんだろ、忘れたのかよ?」
今度は態度を変えてきた。オマリロはその変化に即座に気づき、それがまったく気に入らなかった。これでは、この娘も、ほかの二人も振り払えそうにない。
彼女の目に、わずかに涙が浮かんでいるように見えた。オマリロは見なかったふりをした。半ば同情し、半ば苛立ちながら唸り、彼女の言葉に応じた。
「子供らの価値、見極める」オマリロは告げた。「そこから先、運命、すべて子供ら自身のものだ」
案の定、その言葉を聞いた途端、彼女に自信が戻った。
「上等だ。価値ってやつ、見せてやるよ」
アオイが割り込み、さらにオマリロの写真を撮った。追い払われると、スマホを取り落とし、何度も謝った。
空気が変わっていた。あまりにも。
「で、次はどうすんだよ、『先生』?」ザリアが訊いた。
本気でそう呼んだのか、ただの当てつけなのか、オマリロには判断がつかなかった。どちらでも構わない。気にすることではなかった。
「試験、終わっていない」彼は説明した。「終えねば、先へ進めない」
「じゃあ、次は誰だよ」
〈試験参加者2を選択中……〉
合図を待っていたかのように、スキャナーが次の獲物を探しに戻ってきた。レオ、アオイ、オマリロの間をぐるぐると巡る。ザリアはそれを見つめていた。その手がかすかに震えている。
スキャナーが一周し、二周した。誰が不運な犠牲者になるのかはわからない。ただ、ろくなことにはならない。それだけは、誰もがわかっていた。
そして……。
〈アオイ・タケノ〉
スキャナーがアオイの上で止まり、二度点滅した。彼女が抗議する間もなく、障壁が兄姉とオマリロを弾き飛ばし、彼女を切り離した。
障壁はアオイを囲む細長い箱の形を取り、通りの先まで延びていく。
アオイが障壁を叩く中、オマリロはその側面へ回り込んだ。
「ちょっと! 出してよ! もうこんなゲームやりたくないんだけど!」
どれだけ願っても、レオにもザリアにも妹を解放することはできなかった。
そして、UIが再び現れた。
〈速度の悪魔にレースで勝利せよ〉
〈速度の悪魔。レベル:10,500〉
〈開始〉
アオイの隣に、痩せた悪魔が現れた。飛び出した黒い目で、彼女をじろじろと品定めしている。赤い翼に黒い肌、そして二本の黒い角。
おまけに、ローラースケートを履いていた。
「ニュガワのやつ、ちっこい小娘を戦場に連れてきたのか?」悪魔はあざ笑った。「あのジジイ、思ったより早くボケが回ったらしいな!」
悪魔が吐いた炎を、アオイは身をかがめてかわした。危うく、結んだ髪が焼けるところだった。
「ちょっと! 髪に気をつけてよ、このダサ男!」
ソクドはアオイのポケットからスマホをひったくり、それを持ったまま猛スピードで走り去った。置き去りにされたアオイは、勢いよく振り返る。
「ちょっと! あたしのスマホ返して!」
アオイは走る構えを取った。片膝を地面すれすれまで下ろし、もう片方の脚を後ろに引く。
「呪源送運者・跳弾爆発!」
弾丸のような速さで、彼女は障壁の片側からもう片側へと跳ね回り、スマホを盗んだ相手との距離を一気に詰めていった。
〈相手との距離:12m〉
娘は速かった。オマリロが思っていた以上に。
数秒のうちに、彼女とソクドの姿は見えなくなった。
アオイがスマホに手を伸ばす。だが、ソクドのほうが速かった。もう一段加速して、行く手をふさぐ車の群れを飛び越え、区画の端へと向かう。
〈ゴール:5000m〉
アオイはほとんど苦もなく車の群れを突き抜けた。これまでオマリロが見たことのない、明確な目的を持った動きだった。
「へっ! 速いじゃねえか! けど、雑すぎるんだよ!」
ソクドが身をかがめると、アオイは頭から障壁に激突し、地面に崩れ落ちた。彼女が頭をさすっている間も、ソクドに待つ気などなかった。
アオイにとっては最悪なことに、ソクドは滑るように角を曲がり、またしても姿を消した。
アオイは両手を地面に叩きつけ、力を溜めた。その体から白い電撃がばちばちと弾ける。
「返し……なさいって……言ってんのッ!」
放たれた衝撃波が、周囲の建物をいくつもなぎ倒した。ソクドは振り返り、にやりと笑う。
ひとつだけ確かなことがあった。
こいつは、この状況を楽しんでいる。
アオイは頭に血が上り、足をもつれさせて転んだ。立ち上がろうとしたとき、ありえない光景を目にする。
さっきの老人が、障壁のすぐ外、彼女の隣に立っていた。
「娘、見るもの、間違えている」オマリロは告げた。「見るべきは勝利だ。どうでもいい物ではない」
「どうでもよくない! あれがないと無理なの! あたしの親友なんだから!」
アオイは猛スピードで駆け出した。だが、驚いたことに、オマリロは難なくその速さについてくる。汗ひとつかいていない。
アオイが疲れ始め、息を整えようと数秒足を止めると、そこにも彼はいた。
「愚かな目標だ」オマリロは言った。「娘、子供のように振る舞うほど、同じ場所、ぐるぐる回るだけだ」
「子供じゃないし! あたしはただスマホが――!」
オマリロが杖で地面を叩き、彼女の言葉を遮った。
「目的、見失えば、スマホ、二度と戻らない。ダンジョン、遊びではない。だが娘、遊びにしている」
老人は姿を消した。アオイは、その言葉を噛みしめるしかなかった。
しばらくして、彼女は力を溜めて飛び出した。
「もう! あんたがめっちゃカッコよくて、なんかすごい強いのはわかったけど、これ終わってスマホ戻ってこなかったら、一生許さないから!」
アオイは追いつこうとしたが、ソクドは常に一歩先を行く。いつまでも追いかけっこをしている時間はない。
〈ウェイポイント:1500m〉
(捕まえなきゃ。ううん、違う。周回遅れにしてやんなきゃ! でもあいつ、速すぎ! こういうときに限って、あの伝説のジジイどこ行ったのよ!)
彼女は深く息を吸った。
(ダメダメ、アオイ、あんたならできる。ゴールに集中。そしたら、速度の悪魔をボコった神投稿ができるんだから)
アオイは足を止め、両脇の障壁を使って左右に跳ね始めた。ソクドは一瞬それを眺め、頭をかいた。
「何やってんだ、お前」
アオイが相手にしないので、ソクドは彼女を無視して走り去った。
アオイが勢いをつけるにつれ、稲妻が上へと噴き上がった。そして、最後のひと蹴りで前方へ撃ち出され、ソクドを一瞬で抜き去った。その余波で、ソクドは地面に倒れ込む。
「おい! 戻ってこい! スマホいらねえのかよ、この害虫が!」
アオイは通りを突っ走り、角をすれすれで曲がり、車を蹴散らした。そのあとには、白い稲妻の軌跡が続く。
ソクドがどれだけ速度を上げても、彼女には追いつけなかった。
〈ウェイポイント:500m〉
ウェイポイントが見えてきた。アオイとソクドはそこへ向かって駆け、ソクドがようやく差を詰め始めた。
今度は、オマリロはいない。
ソクドがアオイを押しのけようと体をぶつけてきた。アオイは足払いで応じ、ソクドはつまずいて地面に叩きつけられた。
アオイは片側の障壁にぶつかり、その反動でもう片側へ跳んだ。二度の反発力を重ね、一気に通りを駆け抜ける。
そして、その先に待ち構えていたホログラムの旗を通り過ぎた。
〈ゴール通過〉
〈チャレンジ完了〉
〈評価中……〉
アオイがかかとを立てて急停止すると、ソクドががたがたと震え出した。抗議する暇もなく、ぽんと煙になって消える。
その手から、アオイのスマホが落ちた。
「あたしのベイビー!」
地面に落ちる寸前、彼女は飛び込んで受け止め、シャツでスマホについた汗を拭った。
「よかったぁ、無事だったんだね!」
オマリロが背後に再び現れた。アオイは短い悲鳴を上げ、とっさに彼の頭めがけて拳を振るった。もちろん、当たりはしない。
「娘、集中した。その教え、自分の人生にも活かせ」
「はいはい」彼女は鼻で笑った。「じゃ、こっち来てよ、あたしの新しい師匠! 勝利を記念して写真撮ろ!」
オマリロが冷ややかな目を向ける中、UIに彼女の判定が浮かんだ。
〈評価:B〉
〈判定:合格〉
アオイはガッツポーズをした。
「やった! やったー! ここ出たら絶対バズるし、友達みんなに武勇伝自慢できる!」
オマリロを引き寄せて自撮りしようとしたが、彼は現れたときと同じくらいあっという間に姿を消した。アオイだけが、その場に残される。
「ちょっと、もう! ほんと失礼なんだけど!」
アオイは彼を追いかけ、兄姉のいるほうへ戻った。それほど時間はかからなかったが、オマリロはすでにそこにいた。
いつもの光景が続いている。質問を投げかけるレオと、なんとか彼の注意を引こうとするザリア。
妹の姿を見た瞬間、二人は彼女を抱きしめた。
「よくやったな、アオイ!」レオが言った。「見事だったぞ!」
「悪くなかったじゃん」ザリアも認めた。「少なくとも、ケガはしてねえし」
「平気だってば、もう。あたし赤ちゃんとかじゃないし、そういうのやめてよね」
ザリアは再びオマリロに視線を向けた。
「これで二人だぜ、『先生』。わかったろ? あたしらは、あんたが言うようなお荷物じゃねえ。ママと同じなんだよ。わかんねえのか?」
オマリロは答えなかったし、答えるつもりもなかった。ザリアは腕を組んで待ったが、返事はない。
「わかった。見せてやれよ、レオ。次はたぶんお前だろ。思いっきりぶちかましてこい」
「……やってみるよ」
彼らが言い合っている間、オマリロは空を見上げていた。誰かに見られているような気がした。
実際、見られているのかもしれない。
……
その予感は正しかった。
どこか別の場所で、誰か――あるいは何か――が、不満げに試験を見ていた。紫の瞳が細められる。その視線の先には、子供たちを背に空を見上げる老人の姿があった。
もう一人が入ってきた。その眼差しはさらに鋭く、的確に相手を捉えていた。
「ニュガワが戻ってきたか」
その人影は、かすれた声で端的に言った。長い眠りから目覚めさせられ、それが気に食わないとでもいうように。
「ええ、お父様」もう一人が答えた。「今回は仲間を連れています。いえ、こう言うべきかしら……弟子、と」
「どうやら、そのようだな。やつにこのダンジョンを攻略させるわけにはいかん。すべてが台無しになる」
「では、別のやり方を試してみてはいかがです、お父様?」
「何を考えている、我が子よ」
「規則を破ることはできなくとも、曲げることはできます。わたしにニュガワの計画を阻ませてください、お父様。あの男を、もう一階層たりとも先へは進ませません」
紫の稲妻が部屋じゅうに走った。娘は去ろうと身を翻す。その体は、依然として闇に包まれたままだった。
「ならば、そうするがいい、娘よ。他の者たちが果たせなかったことを成し遂げよ……」
閃光とともに、娘の姿は消えた。
「……伝説のハンターを、屠れ」




