全てを失った霞
暁の盾」の拠点は、ギルドからほど近い一軒家にあった。冒険者としての活動拠点であり、彼らの絆で結ばれたもう一つの家だ。ギルドのカウンター奥にあるテーブルで、霞は彼らと向かい合っていた。
「改めて自己紹介といこうか。俺は翼。タンクをやってる。仲間を守るのが仕事だ」
大柄な体躯に似合わぬ柔和な笑みを浮かべ、リーダーの翼が手を差し出した。その手には、霞を守るために尽くした大盾の握り跡が残っている。
「スカウト担当の理央です。偵察や罠解除、遠距離攻撃をやります」
理央は細身の体に軽装の革鎧を纏い、背中に短弓を背負っていた。はきはきとした口調で、信頼に満ちた目で霞を見る。
「魔法使いの裕樹だ。攻撃魔法と補助魔法が専門。よろしくな」
裕樹は眼鏡を押し上げ、少し照れくさそうに挨拶した。知的な雰囲気だが、その指先には強力な魔力が宿っていることを霞は本能的に理解した。
「ヒーラーの真白です。回復と状態異常解除ができます。怪我をしたらすぐに言ってくださいね」
真白は柔らかな微笑みを浮かべ、聖女のような清潔感があった。彼女の魔法があれば、ダンジョンでの命の危機は大きく減るだろう。
四人の紹介が終わると、視線は霞に集まった。彼女は一瞬、言葉を詰まらせた。自分の恥部を晒すことになるからだ。しかし、彼らに命を救われた以上、隠し立てはできない。霞は覚悟を決め、口を開いた。
「宮本霞。二刀流の剣士よ」
彼女はそこで一度言葉を切り、意を決して続けた。
「私、エルダーリッチと戦って…呪いをかけられたの。『お前の運をすべて奪ってやった』って」
室内の空気が凍りついた。運を奪う呪い。それは冒険者にとって死刑宣告にも等しい。
「それからというもの、酷いのよ。バナナの皮で転んで頭をぶつけたり、新人の暴走で服を剥かれたり、さっきだって…」
霞は言葉を選びながら、これまでの不運の連続を語った。語るほどに顔が熱くなり、拳が白くなるほど握りしめられた。恥ずかしいし、情けない。だが、言わねば彼らを危険に晒すことになる。
「だから、呪いの効果を消すアイテムか、リッチの本体を見つけ出して倒すのが目的。それには、ソロじゃ限界があって…あなたたちの力が必要なの」
霞は深く頭を下げた。プライドの高い彼女が、ここまで他人に頭を下げるのは初めてのことだった。
静寂が数秒続いた。重苦しい沈黙ではなく、彼らが事情を飲み込んでいる静けさだった。
「なるほどな」
最初に口を開いたのは翼だった。彼は腕を組み、神妙な顔で頷いた。
「運を操る呪いってのは厄介だ。剣で斬れるもんじゃないしな。だが、俺たちもアタッカーがいなくて困ってたんだ。霞さんの二刀流なら、俺たちのパーティは一気に完成度が上がる」
翼はニカッと笑い、大きな手で霞の肩を叩いた。
「俺たちで、その呪いをなんとかしよう。アタッカーとしての実力は保証済みだしな」
「翼さんの言う通りです。運がなくても、仲間がいればなんとかなりますよ」理央も同意する。
「俺の魔法でサポートするから、安心して前に出てくれ」裕樹も眼鏡の奥で決意を固めた。
「私も全力でサポートします。あなたの運、私たちで分け合いましょう」真白の言葉は、霞の凍りついた心に染み入った。
「ありがとう…」
霞は顔を上げた。彼らの目には、憐憫も同情もなかった。ただ、仲間として迎え入れるという真摯な光があった。翼は優しくて熱血、その強さは物理的なものだけでなく、精神的な支柱としての強さでもある。彼を中心に結束しているのがはっきりとわかった。
(私の運も、まだ残っていたのね)
霞は安堵した。もしかしたら、このパーティに出会えたことこそが、彼女に残された最後の「運」だったのかもしれない。
翼は霞の事情を深く理解し、「出来るだけ力になる事」を約束してくれた。だが、彼らは冒険から帰ってきたばかりであり、パーティとしての規則で「ダンジョンに潛るのは月に一回」と決めていた。深層に潛るには、万全の準備と休息が必要だからだ。
「すぐに行こうとは言えないわね。仕方ない」
霞は無理強いしなかった。彼らのペースを乱すことは、仲間としてあるまじき行為だ。彼らの信頼に応えるためにも、次の冒険を待つことにした。
翌日、ギルドを訪れた霞に、乃亜が駆け寄ってきた。
「霞さん! 『暁の盾』に入れたんですって? 良かった! あのパーティ、評判もいいし、きっと霞さんに合いますよ!」
乃亜の無邪気な喜びように、霞も微かに微笑んだ。「ええ。私も運が尽きてはいなかったみたい」
それからの一週間、霞は極力外出を控えた。呪いの影響で、外に出れば何が起こるか予測がつかないからだ。彼女は家に引きこもり、剣の鍛錬に明け暮れた。素振りを繰り返し、型を磨く。汗が滲むまで体を動かし、呪いに対する不安を振り払おうとした。
「はあっ…はあっ…」
一通りの鍛錬を終え、全身に汗をかいた霞は、シャワーを浴びることにした。熱い湯が汗と共に不安も洗い流してくれるような気がした。
脱衣所で服を脱ぎ捨て、バスルームへと入る。鏡に映る自分の姿を見る。まだ傷は残っていない。体は万全だ。だが、心の奥底にはまだ呪いの影が潛んでいる。
シャワーの蛇口をひねり、お湯を頭から浴びる。熱い刺激が肌を打ち、思考がクリアになっていく。心地よい時間。この一時だけは、不運も訪れないはずだった。
だが、その安らぎも長くは続かなかった。
「ん?」
鼻を突く異臭。焦げ臭い匂い。霞は顔をしかめ、シャワーの水を止めた。
その時だった。
バルルルルッ!!警報器が鳴り響く!
バスルームのドアの隙間から、白い煙が一気に噴き込んできた。ただの湯気ではない。目が痛くなるような、刺激臭を伴う黒煙だ。
「火事!?」
霞は叫んだ。心臓が早鐘を打つ。バスルームは窓がない。逃げ場はドアだけだ。煙が天井を這い、視界が奪われていく。息が苦しい。
彼女は慌てて脱衣所へ飛び出した。煙は部屋全体に立ち込め、もう天井が見えない。火の手はすでにリビングの方まで回っているのか、焦げ臭い匂いと熱気が押し寄せてくる。
「くそっ!」
霞は舌打ちした。最強剣士の称号も、二刀流の腕も、この火災には何の役にも立たない。剣で炎は斬れない。剣士としての技能は、この状況では無力だった。
彼女は丸められていたバスタオルをひっつかみ、濡れた体に巻きつけた。着替えている時間はない。バスタオル一枚で、霞はドアへと走った。
ドアノブに手をかけると、熱が伝わってくる。だが、まだ握れないほどの熱さではない。彼女はドアを押し開けた。
廊下も煙で充満していた。非常階段へ向かう。足が滑る。水を浴びていたせいで、バスタオルが濡れて重い。それを片手で押さえながら、彼女は階段を駆け下りた。
「なんとか、間に合って…」
階段を降り切ると、外の冷たい空気が肺に入ってきた。咳き込みながら、霞はアパートの入り口から転がるようにして出た。
外にはすでに野次馬が集まり始めていた。彼らはアパートから上がる黒煙を見上げ、騒ぎ立てている。
「うわ、出てきたぞ!」
誰かの声に、視線が一斉に霞に集まった。
霞は赤面した。彼女の格好は、体にバスタオルを巻いただけの情けない姿だった。濡れたバスタオルは肌に張り付き、体のラインがくっきりと浮き出ている。しかも、走ってきた衝撃でバスタオルの端がはだけ、白い太腿や鎖骨が露わになっていた。
「おい、あれ…」「すげえ体…」「宮本さんか?」
野次馬たちの視線が、彼女の体を舐めるように走る。屈辱的だ。ダンジョンで男たちに剥かれた時と同じ、いや、それ以上の羞恥が襲う。剣士としての誇りは、今の彼女には何の防壁にもなってくれなかった。
霞はバスタオルを必死に押さえ、うずくまった。消火活動のサイレンが遠くから聞こえる。それが彼女の唯一の希望だった。
消防隊が到着するまでの数分間が、霞には数時間にも感じられた。やがて消防隊員が駆け寄り、彼女に毛布をかけてくれた時、霞はようやく安堵の涙をこぼしそうになった。
火事の原因は、下の階の住人の不注意だった。料理中に油の鍋に火がつき、それが一気に炎上したらしい。霞の部屋は水回り以外、全焼してしまった。
「武器や防具はギルドに預けてあるけど…服とか家財道具、全部失ったわ」
霞は毛布にくるまりながら、焼け落ちたアパートを見上げた。残ったのは、手に握りしめたバスタオルと、体に巻かれた毛布、そしてギルドに預けている剣だけ。全てを失った。
野次馬たちはまだ彼女を見ている。彼女の恥態を、目に焼き付けている。霞は俯き、逃げるようにその場を離れた。
行く当てがない。着の身着のまま、文字通り何もない。震える体を毛布で包み、霞は消防隊の人に電話を借りた。
彼女は番号をプッシュした。呼び出し音が数回鳴った後、聞き覚えのある声がした。
「はい、翼です」
「翼さん…私、霞です」
声が震えているのがわかった。悔しいし、情けない。しかし、他にすがれる人はいなかった。
「霞さん? どうしたんだ、そんな声して」
「火事なの…家が焼けて…何もかも失って…今、服も着れてなくて…」
受話器の向こうで、何かが倒れる音がした。慌てふためく気配が伝わってくる。
「場所はどこだ!? 今すぐ行く!」
霞はアパートの場所を告げた。電話を返して、彼女はその場にうずくまった。夜風が冷たい。毛布の温もりも、心の寒さを取り除くことはできない。
(これも、呪いのせい?)
運を奪われた影響は、ダンジョンの中だけにとどまらない。日常のふとした瞬間に、理不尽な不運として牙を剥く。次は何が起こるのか。生きて帰れるのか。
不安が押し寄せる中、遠くから聞き覚えのある大きな足音が近づいてきた。翼だ。
彼は前で止まり、霞を見た。毛布にくるまれ、寒さと恐怖で震える彼女の姿。翼の顔が苦渋に歪む。
「霞さん」
翼は自身の上着を脱いで霞にかけた。温かい男の匂いがした。
「すまない。俺たちがもっと早く気づいてやれば…」
「翼さんのせいじゃないわ。ただの不運よ」
霞は弱々しく笑った。不運。それが今の彼女を説明する全ての言葉だった。
「とりあえず、俺たちの拠点へ来い。そこでなら安心できる」
翼は霞の肩を抱き、歩き出した。毛布と上着に包まれ、彼女はただ頷くことしかできなかった。




