リッチの情報
あの日以来、霞は翼とまともに目を合わせられずにいた。
食事の時も、鍛錬の時も、ふと視線が交わりそうになるとパッと逸らしてしまう。あの浴室での光景――怒張した彼の男らしさが、網膜に焼き付いて離れないのだ。話しかけられるだけで顔がボッと熱くなり、「あれが入るの?」という下世話な想像が頭をよぎっては、自分の卑猥さに自己嫌悪する日々だった。
しかし、当の翼はといえば、全く気にしていない様子だった。いや、気づいていないのだ。
「おはよう霞! 筋肉痛ないか?」
と、能天気に声をかけてくる。鈍感。まさに鈍感の権化だ。だが、その無邪気さが逆に救いでもあった。もし彼が意識して気まずそうにしていたら、霞は拠点にいられなくなっていただろうから。
ある夜、再び霞は理央と真白に呼び出された。今度は霞の部屋でのガールズトークだ。
「で、その後進展あった?」
理央がポテトチップスを齧りながら聞いてくる。
「あるわけないでしょ! 顔合わせるのも恥ずかしいのに…」
霞は枕に顔を埋めてモゴモゴと答えた。
「もー、霞さんは素直なんだから。押しが足りないよ!」
真白がお腹を抱えて笑う。
「押せって言われても…」
「翼さんは鈍感なんだから、向こうから来るのを待ってたら百年たっちゃうよ。霞さんからガツンといかないと」
理央が身振り手振りを交えて熱く語る。
「ガツンとって…」
「ほら、お風呂の件もあったし、たまには甘えてみるとかさ。『一緒にお出かけしたい』とか」
「無理無理! 恥ずかしくて死んじゃう!」
三人でキャッキャと騒いでいると、不意に霞の端末が鳴った。ギルドからの緊急連絡だ。
画面を見ると、重要な任務依頼が入っていた。
『エルダーリッチの目撃情報あり。ダンジョン「冥府の霊廟」最深部への討伐任務』
霞の表情が一変した。リーチだ。自分から運を奪った元凶の手掛かりがついに掴めたのだ。
翌朝、「暁の盾」はギルドへ向かい、依頼の詳細を確認した。霊廟はこれまで探索してきたダンジョンよりもさらに危険度が高く、アンデッド系のモンスターがはびこる場所だ。
「ようやく見つかったな。霞さんの呪いを解くためにも、絶対に倒そう」
翼が拳を握りしめて言った。その言葉に、霞はこくりと頷いた。彼のためにも、これ以上不運に振り回されるわけにはいかない。
ダンジョン「冥府の霊廟」。
その名の通り、冷気と死臭が充満した不気味な場所だった。石造りの廊下には古びた棺桶が並び、歩くたびにカビた空気が肺に入ってくる。
「警戒レベル最大で行くぞ」
翼の先導で進むパーティ。敵の出現数も多く、ゾンビやワイトが群れを成して襲いかかってくる。
霞は剣を振るいながらも、意識してしまっていた。前を歩く翼の背中。その腰回り。どうしても視線が下がってしまうのだ。
(ダメ! 集中しなきゃ!)
頭を振って邪念を追い払うが、不運はそんな隙を見逃さなかった。
「霞さん! 前!」
理央の警告が遅かった。
ゾンビの攻撃を避けようとステップを踏んだ瞬間、霞の足元の床石がガラリと外れた。落とし穴だ。
「きゃっ!」
体勢を崩し、前方に倒れ込む霞。ゾンビの腐った腕が彼女に迫る。
死ぬ! そう思った瞬間、巨大な影が霞の視界を覆った。
「させるかよ!」
翼だった。彼は盾を捨て、自らの体を投げ出して霞を抱きかかえ、ゾンビの攻撃を背中で受けた。鋭い爪が彼の革鎧を引き裂き、血飛沫が上がる。
「翼さん!」
「大したことない」
翼は痛みに顔をしかめながらも、霞を庇ったまま立ち上がり、素手でゾンビの頭を粉砕した。
ドクリと心臓が跳ねた。
自分を守るため、迷わず身を挺した男。その温もりと血の匂いが、霞の理性を焼き尽くす。
(この人は…本当に…)
戦闘終了後、真白がすぐに翼の傷を回復させた。深手ではあったが、魔法のおかげで跡形もなく治った。
「ごめんなさい…私がまた不運で…」
霞が俯きながら謝る。自分のせいで彼が怪我をした。呪いのせいとはいえ、情けなくて涙が出そうだった。
「気にすんなって。タンクがアタッカーを守るのは当たり前だろ? 霞のその強い剣があるから、俺たちは安心して前に出られるんだぜ」
翼は傷が治った背中をバンバンと叩き、ニカッと笑った。
その笑顔が眩しすぎて、霞は言葉を失った。
(私も…もっと強くなる。この人の背中を守れるくらいに)
彼への想いは、もはや恋心という枠には収まらなかった。信頼と尊敬、そして深い愛情。彼と共に生きると決めた。
最奥に着いた暁の盾。
「やっと呪いから解放される」霞は呟きながらボス部屋の扉を押して行く。
冷たく重い鉄の扉が、軋みながら開いていく。
その向こうに広がっていたのは、広大な玉座の間のような空間だった。黒曜石で作られた床に、苔むした石柱が並び、一番奥には骨で装飾された玉座が鎮座している。
そして、その玉座に腰かけていたのは。
「見つけた…!」
霞の目が釘付けになった。
ボロボロのローブを纏い、手には錆びついた杖。枯れ木のような細い体躯に、カラカラと乾いた笑い声を響かせるアンデッド。
間違いない。エルダーリッチだ。自分から運気を奪い、恥ずかしい不運という呪いをかけた元凶。
「あぁぁぁぁぁッ!」
霞は理性を飛ばして叫んだ。ただ純粋な怒りだけが体を突き動かす。刀を構え、全力で床を蹴った。
「このエロリッチーッ!! 私の呪いを解きなさいよ!!」
霞の絶叫が玉座の間に響き渡る。リッチはカラカラと笑いながら、ゆっくりと立ち上がった。
「おお、剣士よ。だいぶ恥ずかしい思いをしたようだな。その顔、その腰振り…実に愉快であったぞ」
リッチの嘲笑が霞の逆鱗に触れた。ダンジョンでのエロ植物、こいつも見ていたのか。羞恥心が怒りへと変換され、速度を増す。
「うるさいっ! 黙れっ! アンタを倒して終わりにするわ!!」
霞は跳躍し、上段からリッチに斬りかかった。渾身の一撃。しかし、リッチは杖を軽く振るっただけで、見えない障壁が霞の剣尖を受け止めた。ガギンッ! という硬質な音がして、霞は弾き飛ばされそうになる。
「単独で突っ込むな!」
その時、強烈な風圧と共に翼が霞の前に躍り出た。リッチが放った闇の矢を、翼の大盾が受け止める。火花が散り、衝撃波が二人の髪を揺らした。
「翼さん! でもアイツだけはっ!」
「わかってる! 俺たちで倒す!」
翼の背中を見て、霞は我に返った。ソロではない。仲間がいる。一人で背負い込む必要はないのだ。
「全員、畳み掛けるぞ!」
翼の号令と共に、「暁の盾」の総力戦が始まった。
「聖なる光よ、悪しき霊を祓え! ホーリーランス!」
真白が後方から高位の聖属性魔法を詠唱する。光の槍がリッチを襲い、そのローブを焦がした。アンデッドにとって聖属性は天敵だ。リッチが苦悶の声を上げる。
「さらに強化する! ファランクス! クイック! 」
裕樹が畳み掛けるように補助魔法を展開する。翼と霞の防御力と敏捷性が跳ね上がる。
「うおおぉぉ!」
翼が盾でリッチに突進する。物理と魔力の衝突。リッチの足が後ずさる。その一瞬の隙を、霞は見逃さなかった。
「そこっ!」
翼の脇から抜け出し、神速の二刀流を繰り出す。右の刀でリッチの杖を弾き、左の刀で胴体を薙ぎ払う。ザンッ! という手応えと共に、リッチのローブと枯れた皮膚が切り裂かれた。
やれる。倒せる。
パーティ全員の連携が噛み合い、リッチを圧倒している。霞の中に希望の光が差し込む。これで呪いが解ける。不運の日々から解放されるのだ。
リッチの体に深手が増えていく。倒せると確信した瞬間だった。
「クックック…遊んでやる時間は終わりだ」
リッチが低く呟いた。その声には焦りの色はなく、むしろ余裕すら感じられた。
「なっ!?」
リッチの体が突然、空間ごと歪み始めた。黒い霧となり、実体を失っていく。
「私は次のダンジョンに行かせてもらう。剣士よ、もう少し恥ずかしい思いをしてるんだな。クックックッ、ここのボスだった奴の魔石は前と同じように置いていってやる」
嘲笑いながら、リッチの姿は完全に消滅した。
後に残されたのは、静まり返った玉座の間と、呆然と立ち尽くす「暁の盾」だけだった。
「逃げた?」
霞は信じられなかった。倒せたはずなのに。手が届くところまで来ていたのに。
「ダンジョン間転移! そうか、最初に倒したと思った時も、転移で逃げてただけだったのね」
霞が悔しそうに歯噛みする。
徒労感が足元から這い上がってくる。結局、何も変わっていないのか。また追跡の日々が続くのか。霞は震える拳を握りしめた。
「霞!」
翼がそっと霞の肩に手を置いた。
「逃げられたけどよ、位置はバレたんだ。情報は集まって来るし、次こそは絶対に逃がさない」
その温かい手のひらと、力強い言葉に霞は顔を上げた。
そうだ。一人じゃない。ソロならここで終わっていたかもしれない。でも今は仲間がいる。情報も力もある。
「うん。次こそは」
涙を堪え、霞は強く頷いた。
リッチへの怒りは消えないし、これからも不運に苛まれるかもしれない。
でももう一人じゃない。翼と共に歩んでいける。
恥ずかしい想い出もいつか笑い話になる日まで、彼女は剣を振るい続けることを誓った。
ダンジョンから帰還した「暁の盾」は、久々の大収穫に沸いていた。
倒したモンスターの素材や魔石だけでもかなりの額になるし、ダンジョンで見つけた宝箱からは貴重な装備品も入手できた。
ギルドでの報告と換金を済ませると、疲労困憊の中にも充実感があった。
霞は呪いこそ解けなかったが、リッチとの対面を果たし、仲間との絆を深めることができた。それが何よりの収穫だった。




