影残滓との遭遇
丘の上に漂う“黒い揺らぎ”は、霧とは違う。
輪郭も形も曖昧なのに――“存在している”としか言いようがない圧があった。
ガルム・レオニダスが低く唸る。
「……あれが影残滓か。見たのは久しぶりだな」
「ガルムさん、下がってください。
《天象同調》で……揺れを読みます」
リュミエールの瞳が金に揺れ、薄く光る。
「……っ」
すぐに彼女の表情が苦しげに歪んだ。
「どうした、リュミ!」
「……読めません……。
揺らぎ(ゆらぎ)が……途切れて、繋がって……分裂しています……」
霊脈の流れを読む彼女ですら把握できない。
それが“影残滓”という存在の異質さを示していた。
(これは、霧魔とは全然違う……)
ソーマも息を呑む。
その瞬間――耳奥が強烈に跳ねた。
ザザッ……ガッ……!
(うっ……!)
予報ではない。
もっと深い“断層みたいなノイズ”が頭に響く。
影残滓の中心に、黒い線のような揺れが走った。
まるで――世界の外側から、誰かが“ノック”しているかのような。
(やばい……これ、絶対にヤバいやつだ……!)
「ソーマさん、下がって――!」
リュミエールの声と同時に、影残滓が音もなく膨張した。
風も、音も、匂いもない。
ただ黒い“圧”だけが迫る。
「来るぞ!!」
ガルムが斧を構えた。
その刹那――ソーマの耳奥で、ありえない“声”が流れた。
『……きこえていますか……』
(――!?)
予報の声ではない。
アナウンサーの穏やかな声とも違う。
もっと乾いた、もっと遠い……
“消えかけの録音”みたいな声だった。
『……こちらは……残り……世界……』
(おい……何言って……)
『……たす……け……』
声が途切れた瞬間、影残滓が一気に形を崩し、砕けるように広がった。
「危ない!!」
ガルムがソーマを突き飛ばし、リュミエールが結界を張る。
「《霧退らい》!!」
淡い光の膜が影を弾き飛ばし、黒い揺らぎは霧のように散った。
静寂。
影残滓は跡形もなく消えていた。
ガルムが荒い息を吐く。
「……ちっ、何なんだよ今のは。
影残滓が“あんな動き”するなんて聞いたことがねぇ」
リュミエールも震えていた。
「揺らぎ(ゆらぎ)が途切れて、逆流して……
本当に“死んだ世界の残り”みたいな……そんな感じでした」
ソーマは膝をつき、頭を押さえる。
(今の……何だ?
予報じゃない……声だ……
誰かが“助けて”って――)
ガルムが眉を寄せる。
「おい、ソーマ。
お前、さっき何か聞こえてたな?」
見抜かれていた。
だが、隠せるような軽い内容ではなかった。
「……分からない。
けど、“声”が聞こえたんだ。
予報じゃない、もっと……“壊れた録音”みたいな」
ガルムが驚愕に目を見開く。
「残滓の声を聞いたってのか……!?
普通の人間には絶対ありえねぇぞ!」
リュミエールは逆に、ソーマの手を強く握った。
「ソーマさん。
あなたの能力……やはり、こちらの常識では測れません」
その金色の瞳は恐れではなく、確信の色を宿していた。
「あなたは――“世界の外”の何かを拾っている」
(世界の……外……?)
その言葉に、胸の奥が冷たく震えた。
ガルムが息を吐き、決断する。
「よし。
ソーマ、お前は正式に天象庁で保護する。
嫌でも来い。今のはもう、“一般人”の範疇じゃねぇ」
「……保護、か」
「悪く聞こえるかもしれんが、事実だ。
お前の身にも、この村にも危険が及びかねん。
――王都まで護衛してやるよ」
その言葉に、ソーマはようやく呼吸が落ち着いてきた。
(もう逃げられないな……
でも、リュミとガルムがいるなら……)
リュミエールが静かに言う。
「ソーマさん。
一緒に行きましょう。
あなたが“何を聞いているのか”、私も確かめたいんです」
胸の奥に、初めて“安心”に近い温度が灯った。
「……分かった。
行くよ。王都に」
三人は夜の丘から村へ戻る。
影残滓が去った後も、空には微かな揺らぎ(ゆらぎ)が漂い続けていた。
(あの声……“残り世界”……?
助けてって……
どこの誰なんだ……)
ソーマの耳奥は、まだ薄く震えていた。




