石川延伸
沖縄は1950年代に米軍の統治下であったため、所謂「昭和の大合併」を経験していない。そのため1972年の本土復帰時点で本土に比べて小規模な自治体が点在している状況にあった。
そのため、沖縄振興策には自治体合併促進のための特別法案も盛り込まれ、1980年代前半中に数多くの自治体が合併することになる。沖縄本島だけでも以下の通りだ。
・石川市+具志川市→具志川市
・与那城村+勝連村→与勝町
・コザ市+美里村→沖縄市
・北中城村+中城村→中城町
・那覇市+与那原町+西原村+南風原村→那覇市
・大里村+東風平村+具志頭村→南山町
・佐敷村+知念村+玉城村→尚巴志町
この中で最も県民に注目されたのは大幅に市域が広まり「新ダイナハ」と呼ばれた那覇市だろう。那覇から与那原までの鉄道が開通し、通勤圏として強く結びついたことが合併を大きく後押ししたと言われている。
そして、大きな論争を巻き起こしたのは沖縄市である。美里村の強い反対で吸収を断念し、新設合併となったこの市。問題は間違いなくこの市名にある。中部の雄として那覇市への対抗のため大きく出たところ、これが県内中で賛否の声を読んだ。
この様に、沖縄県版昭和の大合併で県内自治体の構造は大きな変化を遂げたのだが、今回取り上げるのは上記の2例ではない。
合併協議において鉄道延伸という要望を出し、遂には実現することになる新具志川市――その旧石川市域についてである。
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「人口バランス的に、具志川市による吸収合併が妥当であると考える」
「石川市として、それを認めることはできない」
具志川市と石川市の合併協議は揉めに揉めていた。
隣接する地域で沖縄市という巨大な自治体が誕生したことで、それへの対抗のため合併協議を始めた両市だが、同じ市制を敷く自治体として対等に新設合併を求める石川市は、人口の圧倒的多さを理由に吸収合併を進めようとする具志川市の案を到底受け入れることは出来なかった。
そして、両地域には同時には実現不可能な共通の夢も存在した。
それが、市内中心部への鉄道の乗り入れである。
現状において沖縄市域の美里駅が終着となっている琉鉄は延伸が可能な構造となっており、両市はそれぞれが延伸に向けたロビー活動を積極的に行っていた。だがしかし、琉鉄は支線を増やすことに難色を示しており、延伸先は二者択一であった。
そこで、石川市は取引を持ち掛けた。吸収合併に同意する代わりに、琉鉄の石川延伸を支持してくれないか。というものだ。
当然、具志川市内では反発が巻き起こった。石川市の4倍もの人口を抱える具志川市が吸収合併も鉄道も達成したいというのは当然出る意見であった。
しかし、合併特別法の期限は刻一刻と迫っており、このままでは規模的にそもそも鉄道延伸が叶わず、利便性に勝る沖縄市への人口流出といった事態になるかもしれない。
具志川市長は決断した。石川市との取引を飲もう、と。
こうして、覚書を締結した両者は1977年、特別法期限のギリギリにゴールインを果たす。そして、積極的な石川への鉄道延伸運動を展開していく。
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1984年は琉鉄グループにとって記念すべき年である。
沖縄の本土復帰によって遅ればせながらも高度経済成長が到来し、住宅需要や輸送需要がもりもりと膨らんだ結果、予定よりも大きく前倒しとなるこの年に沖縄県営鉄道は建設当初からの累積赤字を解消したのである。
これにより、元々建設費返済の目的で組織された沖縄県営鉄道は解散し、鉄道施設は「(株)琉鉄施設」、貨物部門は「(株)琉鉄貨物」、住宅部門は「(株)琉鉄不動産」として民営化。元々旅客部門を担っていた「(株)琉球旅客電鉄」と合わせ「琉鉄グループ」を形成することになる。
そして、建設費を完済した今、やはり注目されるのが新規路線計画についてである。
東風平方面や南部西海岸方面などが考慮されたが、採算性や将来性の上で一番実現可能性が高かったのが、沖縄本島中南部最北の街――石川への本線の延伸であった。
琉鉄の石川延伸については、グループ・社内や県、国の担当者間で様々な議論がなされた。最も議論されたのはもちろん採算性についてである。
石川中心部から車で十数分のところには、沖縄海洋博覧会に合わせて整備された国鉄名護線(当時普天間~名護の路線)の仲泊駅が既に存在しており、時は国鉄分割民営化議論の真っ只中、国の担当者は慎重だった。
それに対し、時は高度経済成長期真っ只中であり、県と琉鉄の担当者はイケイケであった。既に1度成功を収めたという自負もあった。
両者の調整の結果、国鉄線の需要を奪い過ぎないよう、輸送力を抑えた単線で建設することに合意。運輸省への鉄道免許申請が承認されたことで1987年、路線の建設が開始されることとなった。
また、同時期に琉鉄は日本民営鉄道協会に加盟し、本土の鉄道会社からの投資を積極的に受け入れた。特に京浜急行電鉄、西日本鉄道とは強固な資本関係、協力関係を結んでいる。
こうして、第一次沖縄移住ブームが始まりだす1991年、琉鉄本線石川延伸線は開業を迎えた。
それと同時期から、沿線人口の増えた琉鉄では1km1駅を基準に駅の増設、移転、場所によっては高架化工事が開始することになる。
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「遂に! 那覇空港の新ターミナルが開業です!!」
1999年。那覇空港は生まれ変わった。点在していた第1ビル、第2ビルは廃止され、国内有数の規模を誇る新国内線ターミナルが供用されたのである。
それに合わせて琉鉄も変化した。貨物駅に隣接した旧那覇飛行場駅は廃止され、小禄駅は地下化。そして、新国内線ターミナル直下に新たな那覇空港駅が誕生したのだ。
この頃には琉鉄の改良工事もほぼ終わりを迎えており、全駅数は29駅、琉鉄本線はほぼ現在と変わらない形になる。こうして琉鉄の路線網は完成を迎えたのだ。
……いや、まだ終わっていない。
次回は21世紀。北部の中心都市――名護へと特急を走らせる琉鉄の野望の物語である。




