沖縄電鉄
1962年の鉄道法施行後、米軍統治下の沖縄本島で興った鉄道計画は2つ存在した。
1つは前話で取り上げた琉球政府を主体とする「琉球政府鉄道」計画。
それとは別に、もう1つ――バス事業者組合を主体とする「与那原鉄道」計画が存在したのである。
琉球政府の推し進めた鉄道計画は財界から大きな後押しを受けていた。財界と大きく括っているが、その主な業種には建築、電力、海運、不動産などが挙げられる。一方で、沖縄本島全域に既に旅客運送ネットワークを構築していたバス業界とは、利権の兼ね合いから上手く折り合いがつかなかった。
その結果、バス業界は独自に鉄道幹線を建設するという野望を抱いたのだ。
「――という計画なのですが……どうでしょうか。与那原町長殿、南風原村長殿」
「「乗った!!」」
この様な会話があったかどうかは定かではないが……。バス業界は本島南部の東西交通に目を付けた。
戦後、米軍基地と共に発展を続けていた軍道1号線沿いやコザ市の近辺とは異なり、那覇市以外の本島南部はサトウキビ畑の広がる典型的な農村地帯であった。その中でも、那覇に次ぐ2番目の街の座を争っていたのが、糸満市と与那原町である。
どちらも歴史ある街であり、プライドは高い。それに何より、戦前に存在したケービン鉄道の終着点となっていた地である。両市町共に鉄道誘致に躍起になった。しかし、琉球政府の鉄道計画にはどちらも終着点として選ばれることはなかった。
その様な状況下で、与那原町にバス業界から声が掛かった。これは、交通利便性において糸満市を出し抜くチャンスであった。
こうして経由地の南風原村も巻き込み、自治体とバス業界が主導する「与那原鉄道」計画が始動したのである。
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米軍との兼ね合いでゴタゴタした琉球政府鉄道に対して、米軍との問題が生じなかった上に距離も格段に短い与那原鉄道計画改め「沖縄電鉄与那原線」は、3年ほど早い1965年に無事開業を果たす。
そのルートは戦前に存在したケービン鉄道与那原線ほぼそのまま――琉球政府道44号線(現在の国道329号線)にずっと沿ったものであり、その開業に合わせて現地の路線バスは全て再編されることになった。
こうして、沖縄本島で初めての都市近郊型の交通体系が整備されることになったわけだが……那覇港駅から上間駅にかけての那覇市内中心部の区間では、とある大問題が発生した。
踏切による大渋滞である。
渋滞を無くすための鉄道が逆に渋滞を生んでしまった結果に、那覇市民から鉄道反対派が多く生まれてしまった。それも非常にタイミングが悪いことに、琉球政府鉄道における那覇市内区間の工事が始まる直前であった。琉球政府鉄道の当初計画――軍道1号線(現在の国道58号線)横の地上を走らせる計画は、反対運動で頓挫してしまったのである。
琉球政府鉄道は、どうにか那覇市内区間を整備するべく問題解決を模索した結果、とある結論にたどり着く。
現時点で反対派が掲げる問題は大きく2つである。
1つは鉄道建設に伴う立ち退きに対する反対。これは近年、海を埋め立てて誕生したばかりの土地――曙駅、安謝駅周辺を広々とした宅地として整備し、そこに移住してもらうことにした。その管理のために発足した琉球政府鉄道住宅局が、後の完全民営化の際に琉鉄不動産となり、グループ中核の一員を担うことになる。
そして、もう1つが肝心の踏切への反対。これは琉鉄那覇区間を高架にすることで解決を図ったが、それだけでは反対派は折れなかった。
そこで、琉球政府本庁を巻き込んで計画されたのが、「明治橋架け替え計画」である。
元々、戦後すぐに急造された明治橋は老朽化の折に立たされていた。そして、与那原線の踏切による最大の渋滞スポットは明治橋北詰のすぐ北に存在している。更に、明治橋の代替ルートとなりえる那覇大橋は1970年に完成予定だ。
そこで、那覇大橋完成後に現在の明治橋を取り壊し、新たな明治橋を高架で整備することで問題を一気に解消しようと考えたのがこの計画なのだ。
これと鉄道整備による効果を丁寧に説明した結果、反対派を少しずつ納得させることに成功。
気づけば元の琉球政府鉄道整備計画が完成する前には、1972年――沖縄の本土復帰を迎えることになる。
因みにではあるが、この問題の根源である沖縄鉄道は単独での資金繰りが厳しくなり1969年に倒産。その際に琉球政府鉄道と琉球旅客電鉄に分割編入されて「琉鉄与那原線」となっている。これにより、始発駅が元々の那覇港駅から、後に開業する琉鉄の那覇駅に直接乗り入れるよう、少々線路の経路が変更されている。
また、この時にようやく琉球政府鉄道とバス事業者との間で合意が取れ、大規模なバス路線の再編も行われている。具体的には、本島中部、北部へと向かう路線の多くが、コザ十字路駅に隣接するバスターミナル発着となった。
こうして、部分開業から6年遅れの1974年。紆余曲折あった琉球政府鉄道は、沖縄の本土復帰に伴い途中で「沖縄県営鉄道」と名称を変えつつも、計画されていたその全線が開通した。
貨物運行と鉄道施設を保有する組織の名称は変わったものの、旅客運行を行う会社は琉球旅客電鉄の名称のまま存続することとなり、琉鉄という地元に根付いた愛称は生き残ることとなった。
戦前の那覇駅跡地で運営されている那覇バスターミナル――その目の前に設けられた新駅の名称は、「那覇」「那覇中央」「旭橋」「泉崎」「那覇バスターミナル前」の5案まで絞られ、住民投票の結果、「那覇駅」となることが正式に決定した。本土の大規模駅のように開発された那覇駅ビルには沖縄山形屋が入居し、開業の日にはここで華々しい開業式典が開催された。
ここから、琉鉄線は駅の新規開業や踏切の立体化など、少しずつ形を変えつつ現代へと向かっていくのだが、1990年代までに2度の大きな変化を迎えている。
次回は、完全民営化と石川市を目指す大規模延伸についての物語である。




