琉球政府鉄道誕生
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「ふざけるのも大概にしろ!」
1962年。那覇市泉崎に怒号が響き渡る。その声の主は、時の琉球政府行政主席である。
「1号渋滞の悪化は琉球政府の怠慢だと? 軍道の整備は民政府の管轄ではないのか! そもそも基地内に占有された道路を解放するだけでマシになるんじゃあないのか? あ゛?」
この頃には既に、軍道1号線(現在の国道58号線)は深刻な交通渋滞に悩まされていた。
1号線とは、米軍によって建設された沖縄本島を南北に貫く幹線道路である。
米軍人軍属が大量に島へと持ち込んだ中古車。それから始まった急速なモータリゼーションの進展は、軍事車両の通行しか想定されていなかった1号線のキャパシティをすぐに、悠々と超越した。
その上、平地の殆どを広大な米軍基地が占めている沖縄本島において、1号線の迂回路というものは当時ほとんど存在しなかった。地元住民は必然的に、米軍人軍属であっても南北移動には、その深刻な渋滞問題が例外なく付き纏っていたのだ。
この深刻な渋滞問題の解決は、琉球政府にとって無理難題である。
新しい道路の建設には米国民政府の承認が必要なのだ。というか、まずそもそも問題の1号線をバイパスする道路を計画しようにも、広大な米軍基地が鎮座しているお陰でまともな用地がない。
「一体全体、米軍は我々にどうしろというんだ。ん? そういえば……」
この二進も三進もいかない問題に頭を悩ませていた行政主席の男。その脳内にふと、先日の東京出張の光景が蘇った。
「京急線――と言ったか。米軍貨物を扱っている鉄道があったな」
米軍統治下とはいえ、行政、民間共に本土との交流が全く無かった訳ではない。
琉球政府高官は定期的に東京へと出張し、事務的なものからパフォーマンス的なものまで様々な仕事をしていたのだ。
60年代といえば本土でもモータリゼーションが進行し、東京では来たるオリンピックに向け、首都高や新幹線など多くのインフラが整えられた時代である。そんな中、行政主席の男が目をつけたのは「貨物列車」であった。
(戦前にはこの島にもケービン鉄道(沖縄県営鉄道)が走っていたのだ。復活とまでは言わないが、米軍向きの貨物列車のていで鉄道を建設できないだろうか……)
「おい、お前。ちょっと提案があるのだが――」
行政主席の思い付きから具体化された提案は、無事に行政府にて琉球鉄道法案として取りまとめられた。法案書類には次々と必要なハンコが押され、立法院へと提出されることになる。
――――――――――
「港湾拡張を行うこと、旅客部門は民間に経営を任せることで財界は良い顔をしていた。一部をバイパス道路の建設とセットで行うこと、旅客部門会社からの収入を建設費返済財源にすることで、立法院でも過半数を味方に付けることができた。あとは……民政府だな」
鉄道法案が何事もなく可決、承認、布告されたその翌日から、行政府では新たな鉄道建設に向けた構想を計画に起こしていく作業が始まった。
大まかな要件は以下の通りである。
・米軍用貨物列車を走らせること。その料金に益を乗せてはならない。
・米軍列車の運行と引き換えに鉄道、それに並行するバイパス道路の用地を一部米軍専用地から返還すること。
・以下の米軍施設を経由、もしくは支線を建設し貨物駅を設置すること。維持費は米軍負担。
・那覇港湾施設、牧港補給地区、普天間飛行場、キャンプ瑞慶覧、嘉手納飛行場
・那覇新港埠頭用地に民間用貨物ターミナルと車両基地を隣接して整備すること。
・本線は那覇飛行場を起点とし、終点を美里車庫とすること。美里駅は延伸可能な構造とすること。
・泡瀬北工業地帯の整備に合わせ支線を建設すること。
・全線複線電化で建設すること。
・建設、線路貨物駅設備の保守、貨物列車の運行は、建設費完済まで琉球政府が行うこと。
・旅客駅設備の保守、旅客列車の運行は、民間旅客会社が行うこと。
鉄道建設のためにはルートや予算などを策定していくわけだが、それには様々な方面への根回しが必要となってくる。沖縄住民である政界財界はもちろん、米軍にもお伺いを立てる必要があった。
琉球政府内での法律発布時とは比べ物にならない程に、担当者や琉球政府首脳陣は計画策定にあたって神経を尖らせた。
「拒否だ」
その結果、とある高等弁務官の一言により計画は台無しとなった。
その男の名前は「K」。後に「K旋風」と呼ばれる程に、政界や財界の様々なところへ介入を行い、沖縄住民の反感を買った男だ。
「何ッなんだあの男はッ!!」
鉄道建設を主導していた行政主席の男は再び激昂した。しかし、高等弁務官様の拒否権を前に、琉球政府はどうすることもできないのだ。
結局、1964年にKが任期を終えることで琉球政府への締め付けは軟化。ようやく米国民政府が了承したことで、計画は着工に至った。
着工後は財界の支援もあって建設は急ピッチで進んだ。毎日の渋滞に嫌気がさしていた現地住民の後押しもあり、着工から4年も経たない1968年の内に、計画より前倒しで「琉球政府鉄道」は開業した。
同時に運行を開始した「(株)琉球旅客電鉄」は、「琉鉄」の略称で親しまれるようになり、沖縄本島の新たな大動脈としての歴史を歩み始めた。
路線の詳細は以下の通りである。
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泊 〇
├─◇ 那覇新港埠頭貨物+車両基地
曙 〇
│
安謝 〇
│
仲西 〇
│
牧港米軍貨物 ◇
│
屋冨祖 〇
│
城間 〇
│
港川 〇
│
牧港 〇
│
真志喜 〇
├─◇ 普天間米軍貨物
大山 〇
│
伊佐 〇
│
北普天間米軍貨物 ◇
│
普天間 〇
│
瑞慶覧 〇
│ 泡
中部貨物 ◇ 瀬
│ 泡 貨
コザ中央 〇 瀬 物
├─〇─◇
コザ十字路 〇
├─◇ 嘉手納米軍貨物
美里 〇
└─◇ 北部貨物+美里車両基地
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沖縄の地理に詳しい方なら、「泊が始発駅とは中途半端だな」と不思議に思うかもしれない。
「「「鉄道はんたーい」」」
「「「踏切、渋滞激化はんたーい」」」
「「「立ち退きはんたーい」」」
そう、計画では1号線の拡幅に合わせて建設されるはずだった那覇市中心部の区間――そこに乗り入れる事ができなくなってしまったのだ。
次回は1970年代。那覇市中心部を取り巻く2つの鉄道と、明治橋の物語である。




