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文音が都市開発に関するチラシに目を通したのは、松島先生のクリニックに一泊して、帰宅した翌日の朝のことであった。そのチラシによると、来年度から都市開発を、現在文音が住んでいる町全体で行うため、今、文音が住んでいるアパートを取り壊すらしい。しかし、文音は現在4年生であるので、来年度はこのアパートから出ているだろうと思い、自分にはあまり関係のないことだと考えた。
文音はしばらくそのチラシを眺めた後、洗濯物を取り込むためにベランダに出た。ベランダからは、高校生の自殺事件があったマンションが見える。松島先生からは、極力死を連想させるところには行かないようにと言われていたが、文音はついそのマンションが凝視してしまう。カウンセリングを受けた効果なのだろうか、フラッシュバックによる幻聴は起こらなかった。
そのマンションから少し横に視線をずらすと、古い商店街がある。文音は大学に入学して以来、あの商店街の八百屋や精肉店で食材を安く購入していた。
文音は部屋の中に戻り、もう一度、都市開発に関するチラシを手に取った。開発工事による立ち退きの対象には、あの商店街も入っているようだ。
文音は急に悲しくなった。八百屋のおばちゃんは、死ぬまで野菜を売るつもりだと、文音に話してくれていた。精肉店のおじちゃんは、今はまだ小学生の孫が、成人するまでここで肉を売り続けると意気込んでいた。
あの人たちの小さくて、大きな夢は、巨大な権力によって打ち砕かれることになってしまうのであろうか。チラシには説明会の日時が、7月30日に行うことが記載されていた。2週間後だ。当事者にとっては、心が休まらない2週間になるのではないかと文音は考えた。
今日の文音は、2限目から大学で定期試験の予定が入っていた。昨日、精神的に異常をきたしたせいでろくに勉強できていないが、資料類の持ち込みが許されているテストなので、問題ないであろうと踏んでいた。問題は、授業中はろくにノートをとっていない良明であるが、単位を落としたことはないと言っていたので大丈夫だろうと信じ込んでいた。
大学に着くと、良明が、さっそく文音の元へとやってきた。資料をほとほと無くしているので、コピーをとらせてくれと言うものであった。文音は頼んできたのが良明ということもあり、その嘆願を了承した。
テスト中、文音は早々に自由記述が中心となっている問題を簡単に書き上げたが、良明はかなり苦戦している様子であった。貧乏ゆすりが激しくなり、何度も消しゴムで記述を消している動作が確認できた。文音はその姿を見ていると、なぜか笑えてきた。
テストの終了を告げるチャイムが鳴ると、良明は「終わったー」と大声で叫んだ。監督官の教授から、「こら、まだ静かに」という注意の声が飛んだ。その瞬間、教室中が笑いで包まれた。
文音には絶対にできないことであった。良明は文音が絶対にできないことをやることができる。その点で、文音は大学の親友とも言えるべき良明を尊敬していた。
「そういえば、もう大丈夫?」
教室から文音が出ようとしていると、良明が急に話しかけてきた。本当に少し心配そうな顔をしていた。さっきまで自分の事で精一杯だったのにと、文音は心の中でつぶやいた。
「大丈夫だよ、ちょっと夏風邪かな」
「ふうん、外と中の気温差が激しいしな、お大事に。じゃあ、俺は用事あるから」
「うん、ありがと」
良明君、本当はね、と文音は言おうとしたが、良明の姿は見えなくなった。
野崎文音。旧姓、西沢文音。
殺人鬼の妹で、殺人鬼の血が少なからず入っている文音。良明だけには話して楽になりたいと、クリニックで寝ている時に何度も思った。良明なら、優しく受け止めてくれるのではないだろうか。




