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文音はいつも通りにカウンセリングルームの手前の椅子に腰を掛けた。松島先生は、文音と机を挟んで斜め前の椅子に座る。
松島先生はいつも文音の正面に座ることはなかった。初めてのカウンセリングの時、松島先生は「文音ちゃんは、正面に座られても大丈夫?」と聴いてきたのだ。文音は人と目を合わして会話をすることがあまり得意ではなかったので、「少し斜めがいい」と告げた。それからずっと、松島先生は文音の斜め右に座ってくれている。
「今日は何かつらいことがあったの?」と松島先生が優しい口調で問いかけてきた。
「自殺がありました。私の家の近所で」
「自殺があったのね。それは辛かったわね」
文音は何も言わずに頷いた。
松島先生は恐らくすべてを理解してくれているだろと、文音は信頼感を持っていた。
松島先生との最初のカウンセリングの時、文音は「お姉ちゃんの事件のことで、何がつらかった?」と聴かれた。その時文音は、「人が死ぬということが、とても怖かった」と答えた。松島先生は文音が話すことに相槌を打ちながら、丁寧に聴いてくれた。姉の美夜古が逮捕されて以来、人が死ぬことにトラウマを持っているということを理解してくれた。
今日も、松島先生は近所で自殺があったということを聴いただけで、文音が今何に苦しんでいるか分かっているはずだと文音は思った。だからこそ、文音は松島先生に話したいことがあったのだ。
「先生、辛いけど、私、逃げたくないんです」
「逃げたくない?どうして?」と松島先生は体を前に倒して目を見開いた。
「もう、大丈夫にならなきゃって」
「大丈夫になりたい?」
「はい、そうです」
松島先生は静かに相槌を打った。それから、「大丈夫になりたいね」と言いながら、少し
考え込む動作を見せる。
「こないだ、エクスポージャーの話はしたよね」と松島先生が文音に尋ねた。文音は、「はい」と言いながら返答する。
エクスポージャーとは、恐怖心を軽減するために、その恐怖に少しずつ直面し、次第に馴れていくことから恐怖心を克服する心理療法だと、文音は学んでいた。
文音は、「これを機に、少しずつ馴れていくことも、良いことではないかと思うんですが」と松島先生に自分の考えを告げた。しかし、松島先生は「いいよ」とは言わなかった。
「確かに、少しずつ慣れていくことは必要だと思う。でも、今回のは身近に起きたことだし、文音ちゃんにとっては少し重すぎるんじゃないかな」
それから、松島先生は「少し焦り過ぎてない?」と文音に告げ、「焦りは禁物だよ」と文音に伝えた。
文音はこう言われることは分かっていた。文音にとって、松島先生の言葉は温かみがあり、自分を包んでくれるような抱擁感があった。
しかし、文音は焦りを抑えることができなかった。心療内科を出た後、文音は自殺があったマンションの下に立っていた。文音が街灯に照らされたアスファルトを見ると、その一部が真っ赤に染まっていた。
文音はその場に立ち、真上を見上げた。「このマンションの屋上。あそこから落ちたんだ」と文音はつぶやいた。
その時だった。文音の頭の奥で、走馬灯のように美夜古が殺した被害者の映像が駆け巡った。裁判の時に映し出されていた、殺害現場の映像である。
めった刺しにされ血だらけになった体。首をつられて動けなくなった体。突き落とされて、頭が割れて顔が分からない体。
「やめて!ごめんなさい、ごめんなさい!」
文音は叫んだ。
「助けて!」
文音の視界は真っ暗になっていた。
文音が目を覚ますと、そこは病院のベッドの上であった。誰かが救急車でも呼んでくれたのであろうか。文音は大きく息を吐いた。
病室の扉が開き、松島先生が入ってきた。松島先生は、「お目覚めかい?」と笑顔で言った。
「先生…」
「もう、だから無理するなって言ったのに」
その時文音は、松島先生の言うことを聴いていればよかったと思い、涙が止まらなくなった。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
「いいの、文音ちゃん。いいのよ」
松島先生は暖かい身体で、そっと文音を抱いてくれた。
病院は、文音が先ほどまでカウンセリングを受けていた心療内科であった。文音は1日だけ、そこに泊まることになった。




