境界が消える音
研究所の朝は、もはや「同じ日に見える別の日」になっていた。
白石ももかは目を覚ますたびに、どこか現実の輪郭が薄くなっていく感覚を覚える。
「最近さ、起きても“ここどこだっけ”って一瞬なるんだけど」
誰に言うでもなく呟く。
廊下の先では、桃瀬りくがすでに端末を見ていた。
「起床確認。正常」
「正常って言葉、もう安心材料じゃないんですけど」
りくは視線を動かさずに言う。
「今日は境界崩壊テストだ」
「もう名前が完全に物騒なんですけど」
そこへ桜井教授が入ってくる。
「今日はすごいよ!ついに“感情境界の消失”を見る!」
「それ消えたら終わりじゃないですか」
ゆうたが後ろから現れる。
「おはよー、今日はなんか静かだけど逆に怖いね」
「それ言わないでください」
研究室に入ると、中央の装置は以前とは明らかに違っていた。
ケーブルは床から壁、そして天井にまで伸びている。
空間そのものが装置に取り込まれているようだった。
「これ、部屋じゃないですよね」
ももかが言う。
りくは淡々と答える。
「観測空間ではなくなった」
「じゃあ何ですか」
りくは少し間を置く。
「境界実験領域だ」
ももかはその言葉に嫌な予感しかしない。
椅子に座らされる。
周囲にりくとゆうた。
そして装置が起動する。
ピヨ助が静かに告げる。
「境界崩壊モード開始」
ももかは嫌そうに息を吐く。
「崩壊って言うなってば」
沈黙が続く。
今回は誰もすぐに話しかけない。
その沈黙が逆に重い。
ももかは少しそわそわする。
「今日ほんとに何するんですか」
りくは短く答える。
「観測」
「それ昨日も言いましたよね」
そのとき、ゆうたが小さく口を開く。
「ももかってさ」
「その流れやめてください」
即答。
ゆうたは少しだけ笑う。
「いや、普通の話」
「普通もうないです」
ゆうたは軽く視線を落とす。
「最近さ、あんまり怒らなくなったよね」
ももかは一瞬止まる。
「……別に怒ってますけど」
短く返す。
その瞬間、空気が揺れる。
装置が反応する。
数値が跳ねる。
りくの視線がわずかに変わる。
「境界値低下」
ももかは気づかない。
「だから何なんですかそれ!」
りくは静かに言う。
「内側と外側の差だ」
「説明になってません!」
そのとき、りくが一歩近づく。
ももかは反射的に身構える。
りくは何も言わず、装置のケーブルを調整する。
指先がほんのわずかに触れる。
それだけ。
でもその瞬間、ももかの中で何かが“外側に出る”感覚がした。
「……今の、なんですか」
りくはすぐに離れる。
「補正」
「何の補正ですか!」
ピヨ助が反応する。
「境界値消失傾向」
「もうやめてそれ!」
ゆうたは少しだけ真面目な顔になる。
「なんかさ、最近さ」
ももかは警戒する。
「やめてくださいその入り方」
ゆうたは少し笑う。
「でもほんとにさ、さっきのもそうだけど」
言葉を続けようとして、一瞬止まる。
「……ももかの中と外、もうあんま変わらなくなってない?」
その言葉に、ももかは答えられない。
ただ少しだけ胸の奥がざわつく。
りくはモニターを見たまま言う。
「境界は、観測できない状態に近づいている」
教授は小さく笑う。
「いいね、予定通りだ」
ももかはその“予定通り”という言葉が一番怖かった。
何もしていないのに、何かがどんどん変わっていく。
そしてその変化を、止める人は誰もいないまま、研究所は次の段階へ進んでいく。




