近づく距離と崩れる境界
研究所の空気は、少しずつ“慣れ”の方向に進み始めていた。
白石ももかも、完全に安心しているわけではないが、最初の頃のような過剰な緊張は少しだけ薄れてきている。
その代わりに残ったのは、「また何か起きるかもしれない」という妙な予感だった。
廊下を歩きながら、ももかはぼんやりと呟く。
「これ、普通のバイトより精神削れるんだけど」
返事はない。
いつものように桃瀬りくが先にモニター前に立っている。
「起床確認。異常なし」
「異常ないのに不安になるのやめてほしい」
りくは視線を動かさずに言う。
「今日の測定は対人距離反応テストだ」
「また距離系ですか」
そこへ桜井教授が現れる。
「今日は重要だよ!感情の“距離依存性”を見る!」
「言い方が毎回怖いんですけど」
ゆうたが後ろから軽く手を振る。
「おはよー、今日はペアなんだって?」
「聞きたくなかった情報です」
ももかは即答する。
研究室に入ると、部屋の中央に二つの椅子が置かれていた。
さらに、その周囲には細かいセンサーが増えている。
「また増えてる……」
ももかは嫌そうに見る。
りくは淡々と説明する。
「距離変化による感情反応の記録だ」
「それ絶対やばいやつですよね」
ももかは座らされる。
向かいには当然、りくが座る。
距離は前回よりも近い。
「近いって」
「基準値だ」
「どこの基準ですかそれ」
りくは何も言わない。
ただ、まっすぐ見ている。
ももかは落ち着かない。
「見すぎじゃないですか?」
「観測対象だからだ」
「やめてその言い方」
沈黙が流れる。
ピヨ助が小さく起動音を出す。
「距離反応測定開始」
ももかはため息をつく。
「何もしない時間多すぎません?」
そのとき、ゆうたが軽く口を開く。
「ももかってさ」
「そのパターンやめてください」
即答するももか。
ゆうたは笑う。
「いや、別に変な話じゃなくて」
「全部変な話なんですよ」
ももかは警戒する。
ゆうたは少しだけ真面目な声になる。
「昔さ、誰かと一緒にいるの嫌いだった?」
ももかは一瞬止まる。
「……別に」
その短い返答のあと、少しだけ視線をそらす。
りくのモニターにわずかな変化が出る。
教授が小さく頷く。
「いいね」
ももかは気づかない。
「なんでそんな話するんですか」
ゆうたは軽く笑う。
「今はどうなのかなって思って」
ももかは少しむっとする。
「別に普通です」
その瞬間、りくが静かに立ち上がる。
「測定位置を変更する」
「え?」
りくが椅子の位置をわずかに動かす。
ほんの数十センチ。
その距離変化で、センサーが反応する。
数値が動く。
ももかは驚く。
「距離でそんな変わるんですか?」
りくは短く答える。
「変わる」
そして、少しだけ間を置いて続ける。
「君の場合は特に」
その言葉に、ももかは一瞬だけ固まる。
「それ、どういう意味ですか」
りくは答えない。
ただモニターを見る。
ピヨ助が反応する。
「感情変動上昇」
「またそれ!?」
ももかは頭を抱える。
ゆうたは笑いながら言う。
「なんかさ、ももか中心に全部動いてない?」
「動かしてないです!」
ももかは即答する。
しかしその場の誰も、それを否定もしない。
ただ、データだけが静かに増えていく。
教授は小さく呟く。
「距離は、心の形だ」
その意味は、まだ誰にも正確には伝わらないまま、研究は進んでいく。
ももかは椅子に座り直しながら、小さくため息をついた。
「もう普通って何かわかんないんだけど」
りくは静かに言う。
「それでいい」
「よくないです」
そう言いながらも、研究所は今日も止まらないまま動き続けていた。




