11 これからのこと
夜の余韻を残した静寂。朝焼けに浸った街は淡い青磁色に染まり、その姿は未だ微睡む大きな生き物を思わせた。
帝都は一つの城郭と、三つの郭壁に囲まれた要塞都市だ。
大陸最北端に位置するスヴェルタ帝国は、長らく魔獣の脅威と共に生きて来た国だ。故に、帝都に限らず多くの都市、引いては街々はこのように堅牢な城郭を築き魔獣暴走に備えるのだった。
城郭の最上部は歩墻となっており、特に外側から2番目の城郭は有事の際を除き、常に民に開放されていた。
洗練された帝都の趣とは打ってかわり、この野趣溢れる建造物は幼年期の私を夢中にさせるにはあまりにも十分で。クラーラに強請っては連れてきて貰っていたことを微かに思い起こす。
足取りはやがて帰路を外れ城郭へ。
馬車を断った判断はそう悪くなかったと思い直す。
こんな朝早くから訪れる者は居ないのだろう、城郭を守る兵士たちは物珍しそうにしながらも進路について親切に教えてくれた。
風の強い朝ではあったが、歩墻においては尚の事である。
風が悪戯に髪を宙に攫うのを楽しみながら、私は教示してもらった通り北を目指し歩み始めた。
カタリナを発端とする一連の騒動が人知れず幕を閉じ、常変わらぬ平穏が訪れようとしている。
最も、私はその恩恵に預かれないのだが。
「(……明日には拠点を城に移さないといけないし、大公領に荷物を送って貰うよう頼まなきゃいけない。皇帝の執務について教わらないといけないし、侍女や側近の選別だってまだだ。それに戴冠式の日取りと、衣服についてだって話し合わないと――……)」
平気な顔をしておいて、心はやらなくてはならないことと不安でしっちゃかめっちゃかだ。
考えるべきことが増えて頭はパンク寸前である。もう一つか二つやることが増えたなら、きっと自分は周囲を巻き込んで自爆してしまうだろう。死なば諸共、と言うやつだ。死ぬのは自軍だが。
ただ少なくとも、何もできないでソワソワする時間よりはマシではある。
整理しきれない気持ちに区切りをつけるために、『何も考えない時間』がきっと私には必要だった。
或いは、これが一人で出歩ける最後の機会かもしれないとも。
「(……そうだ)」
ふと、幼年期の憧れを思い出す。
あの頃の私は、歩墻の柵の上を歩いてみたかったのだ。小さい背では街の姿がよく見えなくて、きっと柵の上ならよく見えるだろうと、そんな淡い幻想を抱いたものだった。勿論、そんな危険なことをクラーラが許すはずもなく、野望は野望のまま終わったのだが。
今なら叶えられるかもしれない。歩くのは危険かもしれないが、腰掛ける程度なら。身体は欲求に抗うことなく柵の上へ。
柵の上から見渡す帝都はどこまでも広大であるはずなのに、どこか遠くて、酷く小さかった。
それこそ、このまま摘んで、ポケットに仕舞い込んで仕舞えそうな――……
見惚れに似た瞠目はやがて意識と現実世界を切り離す。かくして放心していた私は、背後にまで迫った存在に終ぞ気が付かなかった。
「――馬鹿と煙と大公女は、やっぱり高いところが好きなんすかね」
「え」
驚愕に、悲鳴に似た音が喉の奥から絞り出される。
油断で力を抜いた腕は体重を支えきれずそのまま地面へ――向かう前に。何かとてもしっかりとしたものに抱きかかえられた。
「供も連れず一人で出歩くなんて一国の主が泣きますよ。落ちたらどうするんです、またイチから選帝侯会議をやり直しなんかになったら次こそは選帝侯のお偉方が禿げますよ」
「……今、まさに落ちそうだった」
イヴァン・フォーサイスが呆れ顔でそこに立っていた。
彼はそのまま、まるで荷でも下ろすような手つきで、とんと私を歩墻へと降ろす。
吹き荒ぶ風はいつの間にか穏やかになって、彼と一緒になって私を嗜めるように頬を撫でて消えて行く。
「……それで、イヴァンはどうしてここに?」
「『お嬢様が帰ってこない』って大公爵邸でちょっとした騒ぎになってたんで。アンタが居るとしたら美味いモンがあるところか、高いところ、でしょ。……ほら、観念して帰りましょう。愚痴ならいくらでも聞きますから」
そう言って、イヴァンは硬貨の音がする巾着をひらりと掲げる。
要するに、彼はまた人探しの依頼を建前に父上からお小遣いを貰ったらしい。それでいて、きちんと仕事をするものだからタチが悪い。
イヴァンは巾着を仕舞い込むと私の手を引いて歩き出す。私はその言葉に甘えて一つ二つ愚痴を吐き出して帰ることにした。
「……あーあ。結局、帝位からは逃げられなかったや。あんなに頑張ったのにタダ働きなんてちょっと酷いよね」
「そうですね、まあそうなるだろうとは思ってましたけど」
全部が選帝侯の手のひらの上、というのも気に食わない。
勿論出し抜けるとは到底思ってはいないけれど、やっぱりこう、不満に思うところはあるのだ。きっとそういうところが、勝てない理由だとは思うのだけれど。
「じゃあ、俺がなんかご褒美あげましょうか。大したもんはくれてやれませんけど」
「……本当?」
「ほんとう」
ちょん、と額を寄せてイヴァンがそう言った。
彼の黒髪が額に当たって少しくすぐったい。
「じゃあ――……」
何がいいだろう、なんて考える暇はなかった。
身体は素直で、心は弱くて。するりと本音が喉から滑り出た。
「肉まん……帝都の東通りの食事処の巨大肉まんが食べたい!」
「……ん?」
「こんくらい大きいんだよ、顔よりも大きい。味もうんと美味しいってクラーラが。でもこんなに大きいと一人じゃ食べ切れないし、食べれてもすぐ食事の時間になっちゃうでしょ。朝食がお腹に入らないのはちょっと困る。だから一緒に半分こしてくれる人が居たら嬉しいなって――何笑ってんの」
くつくつと、懸命に笑いを堪えるようとして、あえなく失敗する幼馴染の姿がそこにあった。
何がそんなに面白いのだろうかと思わず白い目を向ける。そんな視線をものともせずけらけらと笑う彼は、その冷めた感情を加味しても心底楽しそうに見えた。
「いや……そういう時はほら、『連れて逃げて』とかお願いするところでしょう。物欲がないっていうか、死んでるっていうか、やっぱり変ですアンタは」
「へーなんだ、連れて逃げてくれるつもりだったんだ、そうなんだ」
うん、もういい。置いて帰ろうイヴァンなんて。
私は笑い泣きするイヴァンに見切りをつけて歩き出す。
「アンタが望むならどこまでも連れて行ってやるつもりでしたよ。大公領でも、大陸の西端でも……そうだ、新大陸はどうです。肉まん屋はないですけど、アンタ好みの草原と迷宮の広がるいいところですよ。きっとアンタも気に入る」
「新大陸なぁ」
噂に聞く新天地。イヴァンの治める、水平線の向こう側の世界。話に聞く新世界に、興味がないわけでもない。イヴァンは皮肉屋で少し面倒でちょっぴり意地の悪い人間だが、決して嘘は吐かない。彼がそういうのだからきっといい場所なのだろう。
――でも、と私は思考に終止符を打つ。
乱れた髪を耳にかけ、私は振り返ってはにかむ。
「やっぱりダメ。だって私、船乗れないし」
「アンタまだ船怖いのか…………ま、じゃあ行きましょうか東通り。小遣いもありますし。肉まん、お父君に買って行ったら喜ばれるんじゃないですか?」
「クラーラ達にも買っていこう」
いつの間にか並んだイヴァンが、ん、と手を差し出す。改めて手を繋ぐというのはなんだか少し気恥ずかしい気がした。握るべきか握らざるべきか決めあぐねていると、頭上から声が振ってくる。
「別に手を繋ぎたいってのじゃないですよ。歩いてみたかったんでしょ、歩墻の柵」
「……いいの?」
「ちょっとならいいんじゃないですか」
私はすかさずその手を取る。石造りの城郭はその程度ではびくともしないと脳で理解する一方で、ほんの少しの恐怖が足を支配する。
けれど、イヴァンの手を握って歩き出してしまえば一瞬だった。
初めて歩いた柵の上で、私は鳥になれたような気がした。
今日は3話……正確には2話?更新する予定です




