10 Catharina〚3〛
微睡みから目を覚ます。
カタリナがまず最初に知覚したのは、紙を捲る規則正しい音だった。室内は朝の静謐に浸っている。それに溶け込むように、1枚、また1枚と誰かが紙を捲っているのだ。
鉛のような瞼を薄く開く。身体は糸の切れた操り人形のように上手く動かない。或いは、もう動かす気力もないのかもしれなかった。
魔法の喪失は、酷い虚空感をカタリナに訴えた。
石造りの白い部屋。天蓋のない清潔な寝具。
傍らには窓があり、差し込む白い光が部屋を包んでいる。明け放たれた窓の桟に寄りかかるようにして本を読む少女が一人。その白い頬にもまた絹のような日差しがかかっている。
それが最後に殺し合った彼女であると気がつくのに、少し時間がかかった。……カタリナの知る彼女とはあまりにも結びつかない優しい瞳をしていたから。
あの夜とは似ても似つかないとても穏やかな時間だった。
どうして自分は殺されなかったのか。それともこれが死後の世界というやつなのだろうか。
「(ううん、それはきっと違う……)」
復讐とは言え、人を殺さんと企んだのだ。そのためにたくさんの他人を傷つけた。そんな人間が天の国に行けるはずもない。
――だからきっと、これは現実。
顰め面で本を読んでいた彼女がこちらの起床に気がついたのは、もう間もなくのことだった。
「……おはよう」
ぱたり、と本を閉じて彼女は小さくほほ笑む。
まるで子供に声をかけるような穏やかな声色にカタリナは戸惑った。
不思議なことに、このように再び向き合っても第三皇子達へ向けたような憎悪や怒りと言った類の感情は湧き上がってくれなかった。
だから、と言うべきか。カタリナの第一声は素っ頓狂なものになってしまった。
「……何を読んでいたのですか」
問いかけて、しまったと思った。もっと他に聞くべきことがあったろうに、と。
けれどカタリナの後悔を知らぬように、彼女は淡々と答える。
「流行小説だよ。魔法使いの少女が、人間の男と恋に落ちる……」
それはカタリナも読んだことがある。殺される前――まだ身体の主導権が異世界人の彼女の手にあった頃、一緒に読んだ記憶があった。
あの子と共に文字を追い、憧れたものだった。
素敵な王子様に、ではない。異端たる少女が受け入れられる優しい世界に、だ。
異世界人、魔法使い、異国の姫――カタリナ・ミシェーレという人間はあらゆる側面から異端とされていたから。
彼女は本をテーブルに置き、代わりに林檎を一つ取り上げると、その皮を器用に剥きながらぽつりぽつりと話し始めた。
「貴方が眠ってから2日経った。その間に、ガランサス伯爵の処遇が決まった。表向きの罪状は第二皇子の殺害の共犯者。実際はカタリナ姫への加害を含めて罰を下す手筈になっている。ヘンルーダ子爵は自らの罪を認め、公表と出頭、それから貴族位の返還をしようとしていたがそれは止めさせてもらった。カタリナ姫が事故死ではなく殺害であったと気付かれると面倒なんだそうだ。……構わなかった?」
「……はい」
重要なのは『悔い改め、公表しようと動いた』という事実だ。
――あの娘が死んでから、ようやくアレは悔い改めた。
それどころかずっと見て見ぬ振りをしていた上層部が、ようやく動いた。
その皮肉に、カタリナは思わず目を伏せる。
一方の彼女はカタリナを見遣ることもなく、淡々と小刀を滑らせる。
そうして林檎の皮を剥き終わった彼女は、それを切り分けるでもなく、ましてカタリナに渡すでもなく自らの口に運び齧りついた。
その行動にカタリナは唖然とする。普通はこう、カタリナに切り分けてくれるとか、そういう話ではないのか。
その表情を見て、彼女は何を思ったか籠から林檎を一つと、先まで使っていた小刀をこちらに寄越す。
つるりとした赤い林檎がこちらを見つめている。
カタリナは、もう頭痛のする思いだった。これを今カタリナが振り回したらとか、考えないのかしら、と。
この人、とても変な人なんじゃ、とようやくカタリナは真実に気がついた。
カタリナはなんとか起き上がり、渋々貰った林檎を剥き始めた。
「第三皇子はどうなりましたか」
「殺されたよ、ヴェロニカ・クライェスに。次の皇帝には大公女アナスタシア・カーライルが立った」
「そうですか……次の皇帝はどんな方なのかしら……」
「目の前にいるでしょ」
事もなげにそう言うので、カタリナは始め「そうですか」と流そうとしてしまった。
「そう」とまで発音して、その返答のおかしさに身を固める。
……目の前に、居る? どんな人柄なのかでも、どんな人物なのかでもなく、今目の前に居ると回答した?
事実、カタリナの目の前に居るのは、この少女しか居ないわけで――
大公女も魔法使いだったのですね、とか。
大公女がどうして魔女狩りなんかに、とか。
たくさん聞きたいことがあるはずのに、カタリナは愕然に身を縛られ二の句が継げない。
そんなカタリナを他所に、大公女アナスタシアは最後の一口を平らげると、まるで散歩にでも行こうかとでも誘うような能天気さで、カタリナに問いかけた。
「これからガランサス伯爵のところに行くけれど、一緒に来る?」
***
アナスタシアに導かれ別棟に移る。身体の感覚もある程度は戻っていて、倦怠感は僅かにあるものの行動に支障のない程度には回復していた。
別棟に入ってからは彼女と別れ、他の神官の後ろをついて進む。その道中でようやく自分がいた場所が帝都の南西部にある神殿の一角だったことを知った。
帝都の中心に構えるスヴェルタ大神殿は帝国随一の規模を誇るが、勿論全ての信者を聖堂に招くことは出来ない。そのため帝都には幾つかの小神殿が存在しているのだった。
案内された部屋は地下に存在するためなのか酷く仄暗かった。光源といえば隅の机にある卓上照明と、壁に貼り付けられた窓硝子くらいのもので、それ以外は意図的なまでに闇に沈んでいる。
隅の机に向かっていた神官はこちらに気がつくと恭しく頭を下げ、部屋について幾つか教えてくれた。
曰く、この部屋は窓硝子の向こう側――隣室での聴取の記録を取るために作られた場所であるらしい。
向こう側の声はこちらに聞こえるけれど、こちらの声は向こうには聞こえない。
姿もまた同様で、この窓硝子のようなものはあちら側の様子を映し出す一方で、向こう側からはただの鏡のようにしか見えないのだと言う。
窓硝子の向こう側――様相だけ見れば地下牢と呼ぶに相応しいその部屋は、しかし異様に明るく照らし出されていた。
空気孔から零れる僅かな光の他に、室内を照らす光源の数々。あまりにも明るいものだから、なんだかあまり地下牢と言う心地がしなかった。
そこに、後ろ手に縛られ平服させられたガランサス伯爵と僧兵が四人。大の大人五人が集まっている一方で、未だ窮屈に感じられないのを見るとこの隣室はとても広く造られているらしい。
もう一度ガランサス伯爵を見遣る。胸の底に沸々と名状し難い怒りが沸き上がるのを感じて、思わず私はそれから目を逸らした。
逸らした先、部屋の奥には上階へと続く階段が見える。その部屋に他に扉などがないことを鑑みると、どうやら部屋に入るためには上階から侵入しなくてはならないようだった。
やがて、地下牢に雑踏が響く。思わず面を上げたガランサス伯爵を脇に控えた僧兵が、その手の槍で厳しく諌めた。
数名の僧兵、それから紅のストラを掛けた老神官、最後に皇帝アナスタシアが現れる。ガランサス伯爵は想定外とばかりに目を開き、震える声で尋ねた。
「大公女殿、妻子の命を救っていただいたことは心の底から感謝しております。ですが、これはどういうことでしょうか。私は誓ってこのように捕らえられることは何も――」
「まさか、伯は面白いことを仰られる。心当たりなど、それこそ星の数ほどあるだろうに。ああ、それともこれ以上の余罪をお望みか? そうなるとお前に与えられるものはいよいよ石打ちと磔の他にないだろうが」
くつくつと嗤うアナスタシアに、カタリナは怖気を感じた。それはガランサス伯爵もまた同様で、彼は怯えた目で彼女を見上げることしかできない。
その姿はあの頃カタリナの全てを踏み躙った獣とは似ても似つかない、雨にずぶ濡れた溝鼠に似ていた。
「お前の処遇が決まった、ガランサス伯。罪状は第二皇子の殺害の共犯、それから非公式にはカタリナ・ミシェーレへの暴行及び殺害だ。ただ彼女は神秘により一命を取り留めている――」
「くそ、あの女、やはり生きていたか――!」アナスタシアの言葉を遮ってガランサス伯爵が吠える。あの頃、あれほど恐ろしいと思っていたあの咆哮が、今は子供の癇癪のようにしか見えないのが不思議だった。僧兵に取り押さえられたガランサス伯爵にアナスタシア冷たい一瞥をくれると、肩を竦めて言葉を続ける。
「……以上のことからお前には罪人の烙印を押し、貴族位と財産の全ての没収、及び十五年の神殿への奉仕を命じる」
「な――!?それでは私は口を養う事ができません……!年季を終えれば野垂れ死ぬ他ない……それなら今死刑に処される方が余程マシだ!」
「それはわからない。神々はお前たちが彼女に与えた苦痛の分だけ時間をかけて贖うことを望まれるかもしれないし、やっぱりすぐ殉教を望まれるかもしれない」
けれど、それがお前がカタリナに強いたものだろう? とアナスタシアは淡々と告げる。
その声色には何の感情も宿っていない。その事実が、男の命の有無など些事であると言い表しているようで。
男は耐えきれずアナスタシアに食らいつかんと身を乗り出した。
当然縄で縛られた身体はアナスタシアの衣服を揺らすことすら叶わず、両脇に構えた僧兵が男の首を確かに槍で捕らえ制止する。
「神殿はこれを黙認するのか!? 死以外の救済のない苦痛の道を!」
「酷い言い草だな。皇帝陛下はお前に神殿での奉仕を命じただけだろう。拷問による殺害とは理由が違う。お前が正しく神々に仕えれば、その後の人生は自由。罪人の烙印は重罪人に等しく与えられるもの――これに何の問題がある?」
そうだ。それがこの神殿の、道理なのだ。
がっくりと項垂れたガランサス伯爵がはたと顔を上げる。それは細く弱い蜘蛛の糸に縋る罪人のように。
「……なぁおい、弟はどうなった。ここに居ないのは、まさか――」
「さぁ。彼はお前と違って許されたわけだし、今ごろ家でゆっくりしているのでは?」
「は――」
彼にはまた、別の苦難が待ち受けているわけだがアナスタシアはそれを男には告げない。
それすらも、この男への復讐になるのだから。
双子として生まれつき、いついかなる時も比べられて育った兄弟。
互いに争い、共謀し、一心同体でありながら最大の宿敵であった兄と弟。
それでも彼は、父親から『伯爵』の位を継承したことを――己が弟よりも優れた地位を継承できたことを何よりの誇りに思っていた。それはつまり、自分が弟よりも優れた人間であることを意味しているようで。
だからこそ、この男には認められない。
長らく同等、同じだけに扱われていた弟が。
自分よりも格下、されとて同じだけの罪を重ねたはずの弟が。
弟だけが許され或いは救われ、一方で自分には責め苦と遠からぬ死が与えられるなど、到底許容できない――!
「何故!? 何故弟だけは許されて、俺は許されないんだ!? 俺はこれから自死を許されず責め苦のような人生なのに、アイツは今ものうのうと家で過ごしているだって!? あり得ない――あり得ない、あり得ないあり得ないあり得ないッ! 同じだけの罪を重ねて、同じだけの暴行を行なったのに、俺だけ殺されるだなんて道理がが合わないだろ! 殺せ、殺せ殺せ殺せ、アイツも俺と同じだけの罰が与えられて死ぬべきだろうがッ!」
撒き散らされる呪詛を、アナスタシアは硝子のような瞳で見つめていた。それはまるで風景を見つめるような。あの夜にカタリナも垣間見た、無関心の表れを。
吐き捨てられた呪詛を踏み躙るように、彼女はそれにひと言も答えることなくそのまま階段の上へ消えていく。
カタリナは居ても立っても居られなくなり、同室の神官に礼を告げ自身も部屋の外へと飛び出した。
予想通り、階段を登った通路の先に彼女は佇んでいた。
外套を幾度か払う仕草を見せた彼女は、カタリナの姿を見つけると僅かに微笑んだ。
カタリナは何となく、分かっていた。
今日を終えれば自分はどこか遠くで罪を償い、反対に彼女は宮中に閉じ込められる。カタリナは彼女と会話を交わした試しはなかったが、大公女が外の世界をこよなく愛していてことを知っている。
そんな彼女が皇帝として宮中に縛り付けられるということは、それ自体がまるで一つの罰のようだと思えてならなかったのだ。
だが、憐れみは要らない。あってはならない。それは彼女の決意を否定することだから。
これが最後の会話になる。2人の運命はもう二度と交わらない。
だから最後に、カタリナはどうしても聞きたいことがあった。
目覚めてすぐには口にできなかった、あの疑問を。
「どうして……どうして私を助けてくれたのですか。貴方は私を殺そうとしたのに……」
「……それは。私の仕事が悪性幻想種退治だから。それを請け負うことで、私はここで生きることが許されているの。これだと仕事というより義務かもしれないけど。でも、『どうして』か――……」
大公女だった少女はほんの少し考える素振りをして。
それでもやはり事もなげに笑うのだった。
「そうだね――貴方の言う通り、私も『出会う場所さえ違えばきっといい友人になれた』と思ったから、かな」




