第89話 平穏が訪れ
頭痛、呼吸困難、そして脚部に生じる違和感に苛まれる悪夢からトレイルは目覚め、眼前の風景に脱力した。
普通であれば三人、無理をしても四人が寝入るほどの寝床に自分も含め、七人と一匹の計八体の者共が押し込まれている。
子供二人に、猫一匹とは言え、これだけの人数が密集しているのだから、ギタンに髪を握られ、アーシーには膝を枕にされ、終いには死体のように両腕を前に突き出し、俯いているカティの顔面が腹部をつぶす勢いで覆いかぶせっていたとしても、なんら不思議ではない。
退かし剥がしでなんとか立ち上がると、この場にいない者について考えた。
ガナスにルナ、この二人はなら茶を入れるだけの作業で一晩中掛けたとしても驚くまい。だが、アルゴルンの姿がどこにもないことは極めて――当たり前のことだ。
例の呪いがあるのだからそれも当然。そんな初歩的なことに一瞬とは言え、気付けなかったトレイルは靄を晴らす様に頭を振るう。
「……っ」
すると、後頭部に重い痛みが走り、軽い吐き気にも見舞われた。
昨夜の出来事も靄が掛かったようにはっきりと思いだせないが、無闇に頭を振るうわけにもいかず、とりあえず背を丸め、寝静まっているシローの首根っこを掴み、テーブルまで移動した。
「おはようございます。お早いのですね」
椅子に腰掛け、ティーカップの中の液体を啜っているルナを見ていると、少しばかり昨夜の記憶が蘇る。
アルコール度数三十%の殺人的な酒を飲まされ、意識を闇の中に引きずられた。
「……おはようございます」
思い出せだけで喉の奥が熱く煮えたぎり、不思議と喉が渇いてくる。
「お茶、注ぎましょうか?」
顔に出てしまったのか、ルナは昨晩の悪夢を繰り返しかねない提案にでた。瞬間、全身がマグマのような酒の恐怖を感じ取り、身体猛烈な拒否反応を起す。
「遠慮します!」
手足が小刻みに震え、額からドロッとした汗が止まらない。このままこの場にいると次は何が起こるかわからない。そう考えたトレイルは逸早くここから逃げだすを方法を模索する。
「あの! アルゴルンは?」
絶好の口実を手にしていたことを思い出したトレイルは急かす様に尋ね、ルナはしばらく天井を眺めた後で、トラスを監禁していた倉庫を指射す。
「確か、倉庫で寝ると昨晩言ってらした気が……」
「ありがとうございます」
アルゴルンらしい孤独空間にトレイルは納得し、一礼を済ませると脇目も振らずに倉庫の扉を目指した。途中、何度も背中を曲げるシローを肩に担ぎながら。
「アルゴルン」
倉庫の壁に空いてある謎の大穴から差す光を頼りに倉庫ないを見渡すが、そこにアルゴルンの姿はない。あるとすれば、金属同士がぶつかり合う高音がそこにいるだけ。
「おや? お早いんですね、トレイルさん」
大穴からガナスが顔を出す。手には朝日と思っていたランプとT字型の鉄槌を携えて。
「おはようございます。ところで、なんですか? その大穴は」
聞くと、ガナスは苦笑いを浮かべながら応えた。
「それが、掴まっていたトラス君を助けるためにピシェちゃんがやったとか……」
「ピシェ?」
「呪操師方の女の子です。ちなみに男の子がギタン君」
「ふーん……」
興味なさげに頷いていると、ガナスは改めて、壁に出来た損害を見つめ、気力の削がれるため息を吐いた。
「相手は子供ですし、なにより大切な方を救うためにこの穴を開けたんです。それを知ったら叱りつけることなんて……」
犯人がトラスかアーシーだったとしてもこの男が鬼の形相で他人を叱りつける姿などトレイルには想像できなかったが、それは心内で留めることにした。
「そんなことより、アルゴルンを見てません?」
家計事情に多大な傷を刻み込む問題をあしらわれるガナスは軽くへこんだが、持ち前の穏やかさですぐに立ち直り、鉄鎚で外を指した。
「少し前まで、倉庫の壁にもたれながら寝ていましたが、私が壁の修理を始めようとした時に突然起き上がり、一言交わしただけ外に行ってしまいました」
「そうですか」
実にアルゴルンらしい行動だ。
身体が孤独に慣れてしまい、睡眠などの無防備な状態に親しくない者が目の届く範囲にいるのことはアルゴルンには少々苦痛だ。
いや、それ以前に鉄鎚が釘を叩きこむ音を聞いては、安眠などできるはずもない。
「どうも」
ならば、アルゴルンは静かで他人が踏み込まない場所で瞑想でもしているのだろう。
トレイルは頭を引っ込めながら直りかけの大穴を通過し、外の様子を窺う。
ランプから漏れ出る光のせいで、すっかり太陽はその全身を見せていると思い込んでいたが、実際のところ、まだ東の空が微かな青み掛かっているだけで、頭上はまだまだ黒色の空が覆っている。
手にした杖をランプ程度に発行させながら再度、辺りのの様子を窺っていると、肩に担いでいたシローが前足を顔の辺りでクロスさせ、鬱陶しそうに呟いた。
「誰だ……余の眠りを妨げる愚か者は……」
悪びも何もない口だけの謝罪を行おうと向きを変えるトレイルだったが、クロスした前足の見えたシローの安らいだ表情に口を止め、ついでに光も弱めた。
辺りは薄暗い。だが暗闇に数歩先まで視界が遮断されているほどではない。最悪、杖の光がなくともボンヤリと人の輪郭ぐらいは見えるはずだ。
ふと振り返った時に、鉄鎚を淡々と壁にぶつけ続けているガナスの姿が見えたくらいだ。アルゴルンの姿ぐらい、簡単に見つかるはず。と、トレイルは確信していた。だが……
「おい、トレイル」
と、聞き覚えのある声がどこからか聞こえた。トレイルは一瞬、全身を震えさせ、慌ただしく首を動かした。
「どうかしたのか?」
平坦な道のすぐ真横に座り込んでいるアルゴルンは、友人の過度な反応に驚くが、それよりも驚いたのは、心内でアルゴルンの発見を確信していたトレイルの方だった。彼はアルゴルンの呪いの範囲ギリギリを横切ったにも関わらず、友の存在を確認できなかったことに酷く驚き、友の隠密技術に舌を巻いた。
「い……いやいや……」
誤魔化しつつもさりげなくその場に腰を下ろすトレイル。
飾ることも、気を使うこと、相手の都合を考えることもないトレイルの自然的な動きにアルゴルンは妙な安堵を感じていた。一人でいる時には味わえず、尚且つトレイル以外の者からは感じることの出来ない安堵を。
「アルゴルンにしてはお早い起床だな。って驚いてな」
「起きるのはいつも俺が先だぞ?」
「そうだっけか? まあ、どっちでもいいんだけどな」
「なんだそれ?」とアルゴルンは笑みの中に呆れを混ぜ込ましたが、トレイルは気にせず話題を変えた。
「朝っぱらから、こんな場所でなにをしてんだ?」
「なに、と言われてもな……睡眠をとっていたら倉庫にガナスが来てな、居心地が悪くなったからここに来ただけだ」
「お前らしいな」
なにげない推測がほとんど的中している事実にトレイルが呆れていると、アルゴルンの――胡坐をかくことによって足首と股の間に生じた隙間から一匹の猫が飛び出してきた。続けて、薄暗い視界のせいで一人きりだと思っていたアルゴルンの傍から何匹もの猫がトレイル目掛け、跳躍する。
アルゴルン同様、胡坐をかいていたトレイルは六・七匹の猫集団に、膝を引っ掻かれ、太股に牙を立てられ、すさまじい跳躍からの胸部への体当たりに耐えられず、仰向けで地面に倒れこんだ。
「背中の瘡蓋が痛い……」
シロー探索の際、猫に引きずられた際、そして今の転倒の際、これらの際に蓄積された背中への痛み(すべて猫によるもの)を、今頃になって本体がぼやき始める。
「お主がほんの少しでも猫の王を労わっていれば、こうはならなかったかもしれないな」
いつの間にか、トレイルを敵視していた猫たちに囲まれているシローが、欠伸と共にそう言い放つと、トレイルも顔を顰めながら言い返した。
「なにを……俺はいつでも慈しみの精神で様々な人と触れ合ってきたつもりだが?」
「若造が何を抜かしておる。安らかな睡眠を首根っこ鷲掴みで奪い去った者に慈しみの精神などあるものか」
両者譲らずの睨み合いも、村中、森中に同朋を持て余しているシローが数で勝り、トレイルはあっけなく額を地面ギリギリに押し当てた。
「お前は土下座するためにここにきたのか……」
大股一歩ほど離れた位置で傍観に徹していたアルゴルンが、「猫に土下座する青年」と言ったシュールな光景に頬を引き付かせていると、土下座する青年――もといトレイルが仰け反りを心配してしまう程の勢いで顔を上げた。
「違う違う! 大事な用件があったからに決まってるだろ」
正座を崩さぬまま、顔面をアルゴルン向けて大いに突き出し、
「おい、シロー」
そのまま方向だけをシローに転換する。だが、帰ってきたのは返事ではなく突き出した顔面への鋭い痛みだけ。
今し方、下位に位置づけされたばかりのトレイルが敬意の込められていない言葉を選んだ為、シローが身を以って示したようだ。
「あの……シローさん」
「なにかな?」
二足歩行で腕を組み、更には胸も張りながら聞き返すシロー。トレイルも腹を立てなかったわけではないが、ぐっと堪える。
「足を……頂戴したのですが……」




