第88話 寂しがり屋
カティン村にいくつも存在する大小様々な円。猫たちが安息するためだけに村人たちが微かな努力で作り上げたその円の中に一人のバンダナを巻いた男が腰を降ろしていた。
辺りに寝そべっている猫たちを誤って踏みつけてしまわないよう注意しながらも、一時の休息を味わっている。
腰に掛かった鞘を退かし、ゆっくりと寝入っている猫を擦ると、めったに感じることのない生物の温かみが掌を通し男の体内に伝わる。
彼は動物が好きだ。例え魔物であっても危害を加えさえしなければ愛玩の精神で触れ合うだろう。
彼は人間が嫌いなわけではない。可能であれば親しき者と肩を貸し合い、一晩中でも酒場で飲み明かほどだ。だが、鬱陶しい事情によりはそれは禁じられ、他人との交流を断たされ、神経は過敏すぎるほどに辺りを警戒するようになった。
だが、そのような境遇は、皮肉なことに今回も役に立った。
「誰だ? そこにいるのは」
民家の明かりが届いていない暗闇でも、彼の五感は冴えわたっていた。土の踏みしめる小さな音や三日月が照らしてくれる微かな月明かりが、人間の存在を無意識に感じ取った。
「アルゴルン? あたしだよ。カティだよ。ねえ、どこにいるの? 真っ暗でどこがどこだが……」
「……松明の傍にでも行け、そうすればこっちからはお前が見える」
「なるほど!」
善は急げと言わんばかりに忙しない足音が近くの松明へと向かっていく。
「カティは名乗り出たぞ。もう一人、お前も姿を現したらどうだ?」
カティの声が聞こえた方向に首を変えずに言うと、暗闇から密めいた男の声が聞こえた。
「感覚機能は古聖獣並みだな、バンダナの剣士」
皮肉を交ぜたトラスの口振りに、アルゴルンは密かに苦笑する。
「なんの用だ? トラス」
「お前に用があった来たわけではない。あそこが騒々しいから、避難しただけだ」
「なんだ、俺と同じか」
声を頼りにアルゴルンの方へ足を進めてくるトラス。一定の距離を超えたのならば怒声を張り上げてでも制止させようと考えていたが、別の場所から聞こえてくるカティの張り上げる声に気を取られた。
「到着。って、あれ? ここからじゃアルゴルンの姿が見えないよ? おーい、アルゴルン!」
「……見えなければいけない理由があるのか?」
「それは……ないけど。だけど!」
「ならば問題ないだろう」
大声を張り上げなくとも会話ぐらいはできる程の距離にいたカティは剥れ面になり、声を頼りにアルゴルンの居るかもしれない方角に足を向ける。
目的地から大きく逸れたコースを取るカティにアルゴルンは呆れながら注意を行おうとすると、忘れていた人物がレッドゾーンを踏み込え、額が鳴った。
「離れろ!」
咄嗟のことにアルゴルンは自分が思う以上に声を荒げてしまい、伝えるつもりのなかった者まで後退してしまう。
「ごめん……」
弁解の言葉すら浮かばずに汗ばんだ額を擦っていると、円の外で腰を降ろしたトラスが話し始めた。
「剣士、お前は呪われているそうだな?」
「そうだが……」
カティの機嫌を損ねてしまったことで、アルゴルン自身もよい気分ではなかった。そんな時にそれの原因とも言えるトラスから質問されたので、アルゴルンはそっぽを向くように答えてしまった。
「辛いのか?」
「辛くなければ、呪いなどと呼ばれはしない」
「それも……そうだな」
互いに身体の輪郭がわかる程度の暗闇の中で会話をしていたが、気持ちは面と向かい合うのと変わりはなかった。
一見すれば呪う者と呪われた者。だが、今の二人はそんな単純な関係ではない。一度は生死を掛けて戦い合ったのだから、奇妙な友情すら芽生えている。
「だが、解呪してくれる者が確かに存在する。気楽で奔放な奴がな。だから、今はもう辛いと感じることもない」
今までに幾度と体験してきたことは呪いのせいではない。呪いの言う足枷に甘え、さも動けないように装っていただけ。
それに気付いてからアルゴルンは呪いを辛いとは思わないようになった。だからこそ、今の言葉を嘘偽りなく言えたのだろう。
「ならば昔は?」
喰い下がる気を感じさせないトラスの質問に、アルゴルンは視線を松明下で落ち込んでいるカティから空に浮かぶ三日月に移した。
「……辛かったさ」
あの頃によく眺めていた空を見つめていると、単純な答えが口から自然と零れる。
「孤独な時間を酷く長い間、感じ続けていた。それだけど心が崩れそうになった。一日、人と会わないでいるとそれだけで人肌が恋しくなり、二日、人と会話をしないだけで喉の使い方を忘れかけた。なにより、孤独に慣れ始めている自分に辛さを覚えた」
トラスは返事をしなかった。ただアルゴルンの話を最後まで聞いてから、音を立てずに立ち上がると、一度だけ、とても長い間頭を下げ続け、向きを変えた。
「トラス」
声をかけるが、暗闇からは一切の反応もなく、微かに足音が聞こえるだけ。アルゴルンはもう一度、今度は声を上げて話した。
「前、危ないぞ」
トラスを呼び掛けたすぐに、視線上の暗闇で小さな悲鳴と液体のこぼれるビシャリと言う音が鳴った。
「ご……ごめんなさい。トラス君」
「いや……大丈夫、ですから」
簡単な会話の後で、感覚の速い足音が徐々に遠ざかっていく。
「母ちゃん?」
物音に気が付いたカティは母を声に反応し、母もまた娘の問いかけに気付いた。そして松明の傍にいる愛娘を見つけるや否な、先ほどの事故など疾うに忘れていると思えるほど和らいだ笑みでカティの下に駆ける。
「ごめんなさいね。飲み物を持ってきたんだけど、トラス君とぶつかった時に落しちゃって、一人分しかないの。アルゴルンさんに渡そうと思ってるのだけど……どこかしら?」
アルゴルンの名前が出た時のカティの表情は、本人に少しばかりキツイ思いをさせるような悲しい表情だったが、アルゴルンは頑として目を背けることはなかった。
「ここだ、松明から少し離れた暗い場所」
声を張り上げると、ルナは頻りに辺りを見渡す。だが、そこにアルゴルンの姿はなく。ルナは首を傾げると、一歩一歩慎重に暗闇の中へ踏みこもうとした。
「母ちゃん。ダメだよ」
「そうなの?」
「そうなの! アルゴルンの傍に居ちゃ、ダメなの」
理由がわからずに首の曲げ具合を悪化させるルナだったが、カティはそんなこと気にもせずに母の腕を掴み、放さなかった。
「ダメなの……」
繰り返した言葉はまるで、他人ではなく己自身に言い聞かせているようだ。今までのような単なる口癖の一つではなく、無意識に、しかしどこかに意思がある連続する言葉。一度目に自分以外の者に伝え、繰り返す二度目で改めて自分に言い聞かせる。
そうして、その場にいた者は本人も含め、真の意味で言葉を理解する。
「……すまない」
ダメではない。ダメなわけがない。傍でなくていい、ただ互いを黙視し合えるだけの距離で、意味のない、他愛のない、そんな話を繰り広げるだけで充分なんだ。
切な言葉がいく度となく喉元をこじ開けそうになったが、アルゴルンは出来る限りの感情を殺し、謝罪の言葉を口にする。
「飲み物は、カティにやってくれ。俺の分はなくていいから」
「そうですか?」
状況を飲み込めていないルナは納得のいかない表情のままカティにティーカップを渡す。カティはそれを受け取ると、的確にアルゴルンの瞳を捉えて微笑んだ。
「ありがとね。アルゴルン」
プレゼントを貰った子供のように、無邪気な頬笑みを投げつけてくるカティに、アルゴルンの感情は大きく揺らいだ。押し潰していた本心が絶え間なく増長し、切なさや孤独感が津波となって押し寄せた。
再度、切な願いを言葉に変えてカティに伝えそうになり、また、同じ言葉が邪魔をした。
「すまないっ……」




