第79話 カティの気持ち
倉庫へと続く唯一の扉が開かれ、気乗りでない表情のカティは確かめるように顔だけを覗かせる。
部屋の片隅でシローの治療を眺めていただけのカティは倉庫付近の不審音に気付き、シシー、シロー両名に命じられるがまま、いやいやトラスの所在を確かめに来たのだ。
「……トラスさん」
響き渡らない低い声で呼びかけると、微かに返事が返ってきたように思えたが、眼前には誰もいなかった。
おかしい。
それだけの言葉も思いつかないほどカティは動揺し、あたふたと辺りを歩き始めた。
トラスを探すためと自分に言い聞かせながら同じ場所を繰り返すように回り続け、三週目に突入しようとした時、カティの頬に微風が触れた。
首が痛くなる程辺りを見回し、あっけなく壁に空いた風穴を見つけた。
大型のハンマーを何度も振りまわして開けたような大きな風穴、頭の先端に破れた壁の破片が刺さりながらも、風穴から外に出た。
西の空が微か紅掛かっている。だが、真上の空はすでに黒の色が支配しており、近所の家々も松明の明かりを灯し始めている。
段落の夕暮れが終わり、備えの夜が訪れた。
この視界では、例えトラスが壁を突き破り逃亡したとしても探す術はないと簡単に諦めたカティは風穴から自宅へと戻ろうと、向きを変えた。
土の地面から木の地面へ変わるその手前で、今自分の踏んでいる地面が妙に柔らかいことにカティは気付き、なにげなく顔を俯かせた。
口、そこに描かれているのは子供の落書き程度に歪んだ唇。しかし、本物の唇に似て、多少の山や窪みもあり、何より、俯かせたその一瞬、歪んだ唇がはっきりと脈動したのだ。それがカティの困惑した精神に更なる恐怖と言う追い打ちをかけ、結果、カティはその場に腰を落としてしまった。
今にもその大口を開き、地中の底まで飲まれてしまいそうな唇から逃れようと四つん這いの体勢になったが、肝心の腰が動かないせいでその場から離れることができない。
離れたくとも離れられない現状に恐怖心はみるみる増幅されていき、大口にでも訴えるように地面に顔を擦る。
「誰か……トラスさん」
様々な人物が表情が浮かび、最も助けを求めたい人物の名前だけが口でると、それに答えるように声が聞こえた。
「…………」
聞き取ることはできなかった。とても近くにいながら、とても厚い壁を隔てから放ったような微かな声だったせいだ。
それでも、その聞こえたからもしれない声に救われたカティは、震える膝を騙し騙し持ち上げ、なんとか倉庫の中にまで非難することができた。
倉庫の中にまで舞い戻ってこれたカティは大きな深呼吸と共に心を静め、改めて倉庫内を見て回った。
いくつもの埃の被った木箱の一つに、埃が不自然に拭きとられた形跡があり、更にその奥を探すと、トラスを縛っていたはずの縄が寝根元から溶けている状態で見つけた。
「カテ……」
様子を見るにしては遅すぎるカティを心配したシシーの声が隣から聞こえ、カティはまとまりきっていない頭のまま、倉庫を後にした。
「どうだった?」
相変わらず、桶の中に両腕を浸したままのシシーが聞くと、カティは鼓動を早くしながら答えた。
「なにも、なにもなかったよ」
カティは自分の頬が熱を帯びていることに気付き、なぜ嘘をついてしまったのかわからなくなった。
「わかったわ」
桶に視線を集中させたままのシシーはカティの表情を見ることなく頷き、一目見ればわかる嘘に気付かなかった。
「シロー」
こんな時に、どんな些細なことでもいいから話をしたかったカティは愛猫を呼んだが、答えはシシーから帰ってくる。
「寝てるわ、一時は出血も酷かったから、疲れたんじゃないかしら」
「そっか……そうだよね」
無意識に二度の相槌を打ち、音を立てぬよう桶の中を覗き込んだ。
シシーの言った通りにスヤスヤと寝息を立てているシローの寝顔は、今までペットとして触れ合ってきたシローそのものであり、思わず顎を撫でたくなる愛らしい表情だ。
スッと伸ばした腕をシシーに気付かれる前になんとか引っ込めたカティは、急激に孤独感に襲われ、身を引いた。
「ちょっと、外に出るね」
「いいけど、気を付けてね。もしかしたらこの村にも呪操師が来るかもしれないから」
「大丈夫。大丈夫だから……」
つい繰り返してしまった言葉にカティ自身は気付かなくとも、全くの他人であるシシーは小さな違和感を感じた。
囁くように擦れてしまった二度目の返事。隠してきた悲しみを垣間見たシシーはカティを呼びとめようと振り返ったが、すでに扉は閉まっていた。
家を出たカティはグルグルと回り続ける心情を理解できないまま、裏手に空いた風穴を目指した。
突然として消えたトラスに、人間の仕業とは到底思えない風穴。それに意味のない嘘を吐いてしまった己自身。
一つとして答えが見つからないことに怒りよりも焦るよりも、虚しみを感じたカティは歩幅を広げた。
再度、風穴の空いた壁まで訪れたが、そこには微かな変化もなく、あるのは大きな風穴と地面に描かれた子供の画力の唇。
「トラスさん……どこ行ったの? ねぇ、トラス」
恐怖を駆り立てるに充分すぎる唇を眺めながら、カティはどこにいるかもわからないトラスに問いかける。
返事はなく、虚無がこの場を覆い始めた。
それでもカティは動けずにいると、ふと痛みを感じた。少し前から感じていたのに、なぜか気付けなかったこの痛み。
胸からくる。心臓からくる。心からくる。
虚無がカティを覆いきると、ようやく一つ目理解が出来た。
なぜカティが嘘をついたのか、それはトラスのことを思ってだ。ここで本当のことを話せば、逃げたかもしれないトラスを追いかけなければならない事態になるだろう。
それが嫌で、カティは嘘をついた。
確信すれば痛みは更に激しさを増し、そのせいで涙が止まらなくなった。
腰を折り、唇の描かれた地面にもう一度顔面を擦りつけるよう涙を零し落とすと、それを飲み干そうと唇が徐に開く。
もはや唇が演出する不気味な恐怖も対して怖くなくなったカティは、唇の行動に構うことなく泣き崩れた。ここで涙を流し続ければ、トラスが姿を消した理由すらもわかると思ったからだ。
そして、痛みが一つの理解を見つけ、涙ももう一つの理解を見つけてくれた。
大口を開いた唇はなにかを飲み込むのではなく、逆に吐瀉でもするようにトラスを吐き出した。
「トラスさん!」
驚きよりも喜びが先に溢れ返り、トラスに抱き付こうとしたカティは寸前で硬直した。
喜びは案外すぐに役目を終えると、急かし気味に現れた驚きが次々と不可解な事実を掘り当てていき、最終的に驚きは恐怖へと変わった。
「俺の名前ばかり呼んで、なにが楽しい?」
それでも、素っ気ない言葉でこちらに問いかけてくるトラスに懐かしさが湧き、少しの安心感が生まれた。
「え……と」
肯定するわけにも否定するわけにもいかずに喉を詰まらせるカティ。
「まあいい」
どこも見ていないようでしっかりとカティの瞳を射抜いていたトラスは、いつの間にか閉じた大口がトラスを吐き出した時のように大口開き、欠伸をした。
「俺はもうこの村を去る、当分ここに来ることはないだろうから、それまであの猫のことを大切にしておけ」
命令口調でカティに助言を行い、そのまま闇の中に黒いマントと共に溶け込もうとしたが、カティに腕を掴まれた。
「待ってよ、行かないでよ、トラスさん」
泣き顔でも、安堵に緩み切った顔でもない、相手の全てを見抜くような真剣な表情に、トラスは硬直した。
カティもまた、どんな言葉も選択せずひたすらに黙ったままトラスの瞳を射抜く。だが、それは選択をしていないのではなく、沈黙を選択している。そんな瞳だった。
十秒、二十秒、三十秒と時が過ぎ、いい加減掴まれた腕を振り解こうかと思ったトラスよりも寸分早く、溜めていた呼吸の全てを吐き出すカティ。眉は釣り下がり、胸を撫で下ろすその仕草は、安堵のため息に見えた。
「やっぱり、トラスさんはいい人だ。ねえトラスさん」
長い長い沈黙の後に現れた不可解なカティの言動に腕を振りほどくことも忘れたトラス。
「なにを……言っている」
大口の中から聞こえてくる耐えるように籠った笑い声を制止したい気持ちを抑えて聞くと、カティは自慢げな笑いを見せびらかしながら、言った。
「だって、トレイルがトラスさんに近づくなって言ってたんだよ。呪われるからって。最初は怖くてトラスさんに近付けなかったけど、いざ近づいてみたらやっぱりトラスさんはトラスさんだったよ。あたしを呪うなんてしない。優しいトラスさん」
最後の付け加えるように言った言葉について理解できなかったトラスは、ますます混乱し、顔がカっと赤くなった。
「呪わなかったのはただ単に……」
その考えにすら行き付かなかったからだ、と言おうとして、止めた。なんと言おうとこの女性に口で勝てる気がしなかったから。
「……意味がないと思ったからだ」
負け惜しみ程度に言った反論も、逆にカティを喜ばせる結果となってしまったが、トラスはそれでもいいと心の中で呟いた。
「もう行く」
半ば強引に腕を振りほどき、そそくさとこの場を後にしようとするトラス。カティは止めようとはしなかったが、名残惜しみがないよう、最後の言葉を捜した。
「また……また誰かを呪うに行くの?」
背を向けたままのトラスは振り返ることも、足を止めることもなく答えた。
「……そうだ」




