第61話 遠方からの一撃
トレイルは照れ笑いを浮かべていた。
後ろ髪を掻き、自分がメチャクチャな方向を目指しながら駆けていたことをシシーにいびられぬようにごまかしていた。
とても得意には見えないシローの二足歩行に、二人とも歩む速度を遅めていた。トレイルの頬元が次第に痙攣を引き起こすほどに。
それほどシローの二足歩行は遅かった。いや、さらに適切な言葉が付けてよいのならば、鈍いとすら思えた。
そうこうしている内に、ようやく辺りから木々が薄くなり、気がつくと辺りの景色が木々の群れから平坦な大地へと変わっていた。
「もう森を抜けたのか?」
「うむ」
そう遠くない場所にカティン村独特の建造物も見え、口に出した疑問はシローの相槌がなくとも、すぐに確信へと変わった。
「あ、アレって……」
猫の顔を模しているような建物ばかりに眼が行っていると、シシーがカティン村よりも多少手前を指差した。
「ん? どうしたシシー」
「アルゴルンじゃない?」
シシーの指している指先を追いかけるように目線を伸ばしていくと、旅人の困惑を誘いそうな奇怪な看板に、捜していた人物が腰を掛けていた。
「ほんとだ……」
目線はしっかりとアルゴルンに合わせながらも、トレイルは青空を眺めんばかりに口を丸く開き、唖然としていた。
「おお! アルゴルンと名乗る者は余に頭上を支配されていた者のことだったか」
「なんだか落ち着かない表現の仕方だな」
と、小さな指摘を入れつつも、その表現の豊かさに、思わずほくそ笑んでしまうトレイル。
「そしてなにより、余の姿を目にしただけで怖れ慄き、背を向けた無礼者の一人でもある」
心臓を鋭く突き刺すような一言は、トレイルのほくそ笑みを、引き攣るような笑みに変えてしまった。
「ハハ……そんなこともあったっけな? 忘れたような……そうでないような……」
適当な文字の羅列を並べ、頃合いも見計らずにアルゴルンの元へ駆けだすトレイル。それを見て、シシーは思わず口元を緩めてしまう。
「あら? 古聖獣ってそんな小さなことを掘り下げる生き物だったの?」
シシーの挑発的な言動にも、シローは頬元を優しく緩ませる笑みを浮かべるだけだった。
「長年の間、友を失っていた余にとってあのような者はえらく新鮮でな、ついついからかってしまいたくなる。不思議とな」
「不思議と……ね。あたしにもわかる気がする。あいつは本当に、どこか不思議な奴よね」
釣られるように微笑むシシー。
「うむ」
互いに微笑みを浮かべ、どちらが先ともわからぬタイミングで、トレイルの後を追おうとする。
一歩前に進み、互いが相手の笑みを拝見する。
人の笑み。猫の笑み。
全く似る箇所などないはずの二つの笑みは、どことなく――だが確実に重なるなにかがあった。
もう一歩前に進むと、二足歩行を貫き通していたシローが突然前のめりに倒れ、四足歩行になったかと思えば、次の瞬間にはシシーの頭上で礼儀正しく腰をおろしていた。
更にもう一歩進むと、どこかで見たことのあるかのように、先に行ったばかりのトレイルが忍ぶような足取りで舞い戻ってきた。
「せっかくだし、アルゴルンの奴を脅かさないか?」
「はい?」
全く理解をしていないシシーに、トレイルは意味もなく耳元まで近付き、隠しきれない笑みを漏らしながら詳しい作戦内容を伝えた。
「いいか、俺たちは頭の中をこねくり回してアルゴルンの所在を考えた。にも関わらず等のアイツは危機に陥ってた俺を救おうとも、迷子のシローを探そうともせずに、村の入口で待ち人来らず。て顔をしてやがるんだ、酷いと思わないか?」
「そうかしら? なにか理由があって仕方なく看板の前で待ってるんじゃないの?」
「いや、あいつは看板の前で待っとけば、いつかは俺たちが戻ってくるって考えて、あそこで楽をしてるに決まってる」
アルゴルンと長い間、共に旅をしてきたトレイルなら、彼がそんな浅ましい真似をしないことなど知っているはずでは? とシシーは小さな疑問を浮かべたが、トレイルの表情が嫌悪的なものではなく、友人へのいたずらを思案するものだったため、簡単に納得できた。
「なるほど……ちょっとお仕置きが必要みたいね」
「だろ?」
ニヤリと不敵な笑みを浮かべ会う二人は、小さな目的のために意味もない同盟を結んだ。
そしてそれらのやりとりを高みから見物していたシローも、呆れるようなことはせず、むしろ微かな期待を胸に抱きながら、傍観することを誓っていた。
二人は足音が立たぬよう、一歩一歩慎重に、そして丁寧に歩いていた。
アルゴルンのような、自然に溶け込む芸当ではなく、尚且つアルゴルンのような、本来の歩みに引けを取らない速度でもなかったが、どれほど近付いたとしても、向こうがこちらに気付くことはなかった。
普段、アルゴルンは半径一メートルと、それに多少の距離を加えた、独自のレッドゾーンを持ち合わせている。トレイルもそのレッドゾーンがどれほどの距離なのか、体感的に知っており、滅多な事がない限りそれを超えたりなどはしない。
緊急時や、なにかを成し遂げた時のハイタッチ以外など、様々な場合があるが、今のアルゴルンはそのレットゾーンを意識していない様子だった。
トレイルが恐れつつもレッドゾーンに踏み入れた時に、いつもなら背後を取ってもすぐに気が付くアルゴルンが、こちらの存在に気が付かなかったからだ。
疑問はシシーにもあった。
いつもは冷静沈着で、ちょっとやそっとのことで動じないはずのアルゴルンが、なにかに恐怖でもするかのように、ブツブツと独り言を繰り返していたからだ。
呪いがカウントするギリギリまで近付き、脅かすつもりだった二人は、急激にアルゴルンのことが心配になり、声をかけた。
「アルゴルン?」
無意識に重なる友の名前。
互いに顔を確認しながら笑い合う余裕もないほどにアルゴルンのことを気遣っていた二人は、すぐにでも振り向いてくれないアルゴルンに言い知れぬ不安を感じていた。
トレイルは聞き手に握っている杖を強く握り、シシーは頭上で優々と寛いでいるシローの毛並みに触れながら、焦る気持ちを抑えていた。
少々――あくまでも気持ち程度の間を開け、振り返ったアルゴルンの瞳に、少なくともその瞬間だけは友への期待が映っていた。
だが、トレイルでなければ、シシーでもない。他ならぬシローの瞳には迫りくる脅威が確かに見えていた。
だが、言葉を通して遠方から危機が迫ることを伝えるには、あまりにも時間が足りな過ぎた。
充分な距離はあった。気付いたのもその一撃が放たれる予備動作の段階だった。
それでも遅すぎる。
遠方から放たれた一撃は文字通り、風を切る勢いでこちらの近付き、瞬く間に死への距離を縮めてくる。
シローは透かさず臨戦態勢をとり、風の如く近付いている危機が誰を狙っているのかを推測した。
そして知った。
それはアルゴルンの頬をかすめるような軌道を描いてはいるが、真の目標はその奥にいるトレイルの眉間であると。
シローは跳んだ。
後ろ脚に可能な限りに力を注ぎ、土台であるシシーの頭を強く踏みしめ、跳躍した。その際、鉤爪に力の調節が効かずに、女性の大切な髪を傷めることになってしまった。
心の中で申し訳ないと思いながらも、シローは一切の躊躇をせずにトレイルの頭部を目指した。
跳躍は遠方から放たれた一撃に引けを取らぬほど速く、トレイルは襲い掛かる二つの脅威に気付くことすらなかった。
遠方の一撃が目標に到達する手前で、シローの音速にすら思える跳躍がトレイルの頭部に激突した。
トレイルはシローの一撃により、居場所を交代させられるかのように横に吹き飛ばされ、シローはトレイルの頭が存在していた位置で停止した。
遠方からの一撃に意思などなく、本来の目的がその場から消え去ったからと言って、その身を曲げるような芸当はできない。
遠方の一撃が奏でる空を切り裂く音は、まるで愛する者に降り下す剣を――勢いを殺せない剣を止めようとする剣士の嘆きだった。
一撃がシローの胴体を貫き、血飛沫が八方に散った。




