第56話 迷い迷って
アルゴルンは迷っていた。
トレイルに言われた通りにあの場から逃げ出したが、幸運なのか不運なのか、何十もの猫たちが一匹として追いかけてはくれなかった。
言い知れぬ虚しさを抑えながら、トレイルがいた場所まで戻ろうとするが……その方角を見失った。逃げる時にツタの絡まった大木を見かけたことを思い出し、辺り一帯をぐるり一周しながらツタの例の大木を捜したのだが、気がつくと明らかに木々の生い茂る量が増えていた。
その時は大した危機感も感じずに大木探しを続行したが、いつの間にか森を抜け、差ほど遠くないところにカティン村が見えた時には、アルゴルンの表情から余裕は消え去っていた。
再度、ケットウッドに足を踏み入れるかどうかを真剣に考察していると、カティン村から見覚えのある女が出てきた。
カティだ。
カティはなにかを警戒しているのか、頻りに辺りの様子を窺いながらこちらへ――ケットウッドに近付いてきた。
アルゴルンとカティの距離が呪いの範囲と重なりそうになるほど近付くと、カティは見知らぬ人物を見るような目つきのまま一礼すると、そのまま素通りしていった。
「おい……」
なぜ素通りされたのかなんとなく理解できたアルゴルンは、再度こみ上げる虚しさをなんとか抑え込み、カティを呼びとめた。
「はい?」
案の定、カティは突然呼び止められたことに驚きながら返事を返してきた。
「俺が誰だかわかるか?」
目を上に上げ、口を半開きにし、人差し指を顎に乗せ、ついでに首を少々傾げることにより、カティは言葉を発することなく、あなたなんて知りませんよ? とアルゴルンに告げた。
「……アルゴルン・セドルだ」
虚しみを通り越し、もはや腹の底から込み上げてくる失笑を微かに浮かべながらアルゴルンは自己紹介を始めた。
「どこかで聞いたような……あっ!」
その名が誰なのかを思い出すために消費した数秒の時間は、アルゴルンにとって消えてなくなってしまいたいと思うほどに切なかった。
それでも思い出してくれたことは、アルゴルンに確かな喜びを与えてくれた。
「シローを探してくれた人だ! ねえ、シローは見つかったの! 見つかったんだよね!?」
脱兎の如く距離を詰めてくるカティに、アルゴルンは冷汗を掻きながら後ろに跳んだ。
「まだだ! それよりもなんでお前がここにいる。危ないから待ってろと言われただろ」
「やだよ! あたしはだってシローのことが心配なの。それにケットウッドなら子供のころから行ってるもん」
他人の忠告など全く効かずに森の入口に足を踏み入れようとするカティ。アルゴルンは近付かぬよう、ぐるりと遠回りをしつつカティの行く手を阻んだ。
「駄目だ。森には凶暴な猫が何十匹もいる。現にトレイルがそれに襲われるのを俺は見た」
「森の猫が人を襲う? 森の猫たちは村の猫と同じでおとなしい性格をしてるんだよ? そんなわけないよ。そんなわけないじゃん」
根拠などどこにもないはずが、カティの表情には、猫に対する疑念が一瞥として浮かんでいなかった。それだけにカティ――あの村の住民は猫を慕っているのだろう。
「見てないからそんなことが言えるんだ。お前もあの猫たちの本性を目にすれば……」
「なら見に行っていいんだ」
「な……っ!」
説得するつもりが、逆にカティを森に行かせる理由を与えてしまったアルゴルン。ここからの挽回はさすがのアルゴルンでも難しいようで、言葉が淀んでしまう。
「それに、アルゴルン……だよね? あんたは全然傷ついてないよ。トレイルは猫たちに襲われたのにあんたはなんで襲われてないの?」
言葉で説明するのは多少難しい質問に、アルゴルンの言葉はまたも淀んでしまう。
アルゴルン自身すらも不思議に感じていた疑問。いや、大体の見当はついているのだが、それを口にするのは非常に虚しく、そして受け入れ難い。
猫に気付かれなかったからだ。言い方を良くすればその身を悟られることがなかった。とも言えるが、どちらせよカティを納得させることは難しい。
「……もう行くね」
納得のできる言葉を探し、長い間考えを巡らせていたことが、カティには言い訳探しに見えたようで、アルゴルンを押しのけて森へと進もうとする。
「ま……待て」
アルゴルンもただ横に退くだけではなく、距離を詰めぬ様に後退しながらも、カティの行く手を阻む。
「どうしても森の中に入ると言うのなら俺も同行する」
建前としては、カティを一人森の中に放り込むのは危険なための処置であるが、本音はアルゴルン一人では迷子になる可能性が高いと思ったからだった。
そんなことなど知らないカティは、素直に建前の方を危惧してくれたのだと思い、渋々頷い。
「そんなに離れてたら逸れちゃうよ? それとも逸れたいの?」
「そうじゃない。ただ近づけないだけだ」
森の中に入ってから、カティは執拗に距離を詰めようとしてくる。そのたびにアルゴルンはさりげなく距離を取っていたが、ついにカティがそのことについて口を開いた。
「人見知りは直した方がいいよ」
「違う」
「もしかして……あたしが嫌いだから?」
「違う……」
「それじゃあそれじゃあ……」
「……違う」
距離だけではなく、質問までも執拗にしてくるカティに、アルゴルンは言葉を待とうともせずに否定する。
「まだ言ってないのに……」
そう言うとカティは頬を膨らまし、そっぽを向いてしまった。その姿にアルゴルンは降参するかのようにため息を漏らす。
「悪かった、だが近づけないのにはちゃんとした理由があるからだ」
自分が呪躁師と呼ばれる者から呪われていることや、その呪いの詳細、そして解呪師であるトレイルがそれを治してくれる人物であることを淡々と告げると、カティの瞳も次第に涙ぐんでいく。
「うぅ……あんたにはそんな悩みがあったんだ。そうとも知らずにあたしは……」
「お前が気に病む必要はない。それに慣れればそこまでの不自由もあまり感じない」
慰めるため、なんともない表情で語りかけたが、アルゴルンが自分に掛けられた呪いに慣れたことなど、一度としてない。
誰かとの接触が断たれることが耐えられないわけではない。必要とあれば、この生涯を誰一人として尋ねない樹海の中で過ごしたとしてもそれはよい。
だが、どんな善人のような振舞いをしたとしても、己を呪った呪躁師だけにはそれ相応の報いを受けなければと、心に言い聞かせている。
だからこそ、アルゴルンは呪われている現実に慣れてはいけないのだ。慣れてしまえば、自分は呪躁師を許してしまいそうだから。
「本当に?」
「ああ」
自然と嘘をつき、アルゴルンはカティから離れた。




