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第42話 マナの泉に浸かり

「着いたぞ、トレイル坊」


 虚空を眺めるように小川を遡っていると、いつの間にかマナの泉に到着していた。

 泉は小川の中心から円を描くように広がっており、一周するのに数分と掛からないほどの面積しかない。広さでいえば普通の泉と大した変りなどなかった。

 だがその泉の中心には腰ほどの高さの噴水が沸き上がっていた。


「この水が……シシーの呪いを解く材料」


「あんたの背中を癒す水でもあるでしょ」


 トレイルの独り言に一言加えたシシーは、泉の水を覗き込みおもむろに腕を伸ばした。


「止めろ! シシー!」


 なにげないシシーの行動を見つめていたトレイルは、怒声を上げてシシーを制止した。

 伸ばした腕を慌てて引っ込めるシシー。振り返り、トレイルの様子を伺うと、かなり険しい表情でシシーを見つめていた。


「その水には触れない方がいい。お前が触れると泉の水が全て黒水になりかねない」


「それって……あたしの心が汚れてるから?」


「いや……あくまで『なりかねない』だから、念のためと言うか……」


「なんてね、わかってるわよ。要は触れなきゃいいんでしょ?」


 落ち込んでいるような声色から一変して、すぐに満面の笑顔で返してくるシシー。だが、トレイルにはそれが自然的な笑顔にはどうしても思えなかった。


「トレイル坊、さっそくだがお前は泉の中で療養してもらう、入れ」


「はいはい」


 適当に返事を済ませると、衣服などを一切脱がずに泉の中に足を踏み入れた。

 身体が浸かるにつれ、泉全体が白く輝きはじめる。光の糸のように直視するだけで気を失ってしまうほど強烈ではなかったが、泉すべてが光源であったため、前を見るのも困難だった。


「あぁ……心にみる冷たさだ……」


「若いくせになに爺さんみたいなことを言ってんだトレイル坊……」


 まるで泉を温泉にでも見立てるように浸かるその姿からは、到底一週間の命には見えない。


「ごくらくごくらく……」




「さ……寒い……」


 マナの泉に浸かること一時間。

 冥土に逝きかねないほどに極楽感を満喫していらトレイルも、泉の発光が薄れていくにつれ、徐々にその身を震わせていた。

 真の意味で冥土に逝ってしまう前に泉から上がろうと幾度も考えたが、途中で泉から出ることが正しいのか? その答えを知っているはずのベルの姿が三十分ほど前から見えない。


「本当の白水なら、冷たさはないんじゃないの?」


トレイルが凍えていく様を間近で笑みを浮かべながら見ていたシシーは聞いた。


「か……かか完全な白水ならな。なな……今の、の……俺は完全に清いいい……心じゃ……じゃじゃ、ない……」


「……? よく聞き取れないけど……ようは冷たいのね?」


 小刻みに震える身体を合わせるように何度も頷くトレイル。


「そそそ……それより、ワ……ワワワーズは……?」


「ベル? ベルならマナの水を汲みもしないで、散歩に出かける。て言ってたじゃない?」


「ちち……ち違……なん……んんで戻ってここ……こないい……?」


 紫色に変色した唇から吐き出される言葉はしだいに薄れていく。さすがのシシーもトレイルが凍死……とまではいかないが、風邪でも引いてしまうのでは心配になってきた。


「わからないけど……捜した方がいい?」


 今度は首を横に振るうトレイル。シシーにはそばにいてほしいのだと伝えているようだ。


「そそ……それよりシシシー、腕を……をを」


「誰がシシシーよ」


 文句を言いながらもトレイルの言うとおり、握手するかのように腕を差し出す。トレイルはその腕を包みこむように両腕で握ると、あろうことかその腕に自分の頬をすり合わせてきた。


「暖けぇ……」


 トレイルの両腕、そして頬は死人のように冷たく、青白かった。ゆえにシシーの人肌に愛おしさが身体の芯まで暖めてくれる。


「トレイル……」


 普段、このような行為をされたのであればつねるどころか、殴り倒すことすら辞さないシシーも今だけはトレイルを許した。


「ねえ……あたしがあんたと出会って、どれくらいが経ったかしら?」


「なに言ってんだ、まだ三日も経ってないぞ」


「そうだっけ?」


 不思議そうな表情を浮かべながら聞き返すシシーだが、決して三日間の記憶が曖昧になっているわけではない。ただこの三日間を二人で振り返りたかっただけだ。


「おいおいどうした、熱でもあるのか?」


 握っていた腕を片方シシーの額まで持っていき、体温の確認をしようとしたトレイル。だが自分の掌が冷たすぎることに気付き、結論を出せなかった。


「うん、暖かいな」


「ちょっと、熱なんてないわ、大丈夫よ。それよりもこの三日間でなにがあったか説明して」


「ん……? まあ、いいけど……」


 疑問の色を浮かべながら、額に回していた腕をシシーの手元まで戻し、淡々と思い出話を語りだすトレイル。


「お前と出会ったのは小さな街だったな、俺が紙袋を頭の上に乗せて歩いていると突然お前が現れた」


「初めて会う人に『今から会いに行きます』なんて予告、できるわけないでしょ」


「それもそうだな」


 互いに微笑を浮かべつつ、トレイルは話を続けた。


「それからが大変だったな。お前の呪いを解呪しようと思った矢先、お前と同じ呪いに掛かったウェアウルフが現れて……」


「あんたがその人を解呪した。そのせいであたしはいつ魔物になるか怯えながらあんたたちと旅をすることになった」


「……怒ってるのか?あの時おまえじゃなく、見知らぬ人を解呪したのを」


 トレイルの握る力が弱まるにつれ、逆にシシーがトレイルの腕を放さぬように強く握り返す。


「まさか、見境なく誰かを襲うほどに呪いが進んだ人を置き去りにして、あたしだけ助かろうなんて、思うわけないじゃない。それに……あの街であんたに解呪してもらってたらそこであたしの旅は終わってた。居心地の悪い故郷に戻って、一人寂しく暮らしてたに違いない……」


 今度はシシーの腕から力が抜けていき、逆にトレイルの握る力が増していく。


「そんな暗い顔するなよシシー。お前は今ここにいて、俺たちと一緒に旅をしてる。俺たちのとなりは居心地が悪いか? お前は今、一人で寂しいか?」


 何度も首を横に振るうシシー。それを見たトレイルはニッと笑い、こう告げた。


「なら、これでいいじゃないか」


 いつも通りの軽い口調から飛び出してきたのは、理由の存在しない安心感。

 それを耳にするたび、シシーは心の奥底にまとわりついてるよどみのようなものが薄れていくのを感じていた。


「ええと……どこまで話したんだっけ?」


「最初の街を出たところよ」


「そうだそうだ、今思い出した。最初の街を出てからすぐに、俺は忘れ物を取りに行ったんだよな。戻ってきたらお前とアルゴルンが仲良くしてたんで、俺は驚いたぞ」


「呪われた者同士、通じるものがあっただけよ」


「本当か……?」


 一瞬、トレイルは疑いの目をシシーに向けたが、すぐにそんなことなど忘れ、思い出話に戻った。


「それから……、夜になる前に野宿の準備なんかもしたな。あの時はお前の魔法のおかげでまきに火をおこす手間が省けたんだっけな。あの時は助かったよ」


「どういたしまして……ってあんた! あの時あたしにしたこと、覚えてる!?」


「お前の逆鱗に触れた記憶は一切ないが……?」


「よーく思い出してみなさいよ!」


 シシーに言われた通り、記憶の本棚を一冊一冊手に取るトレイルだが、この時はシシーが怒りで頬を赤く紅潮こうちょうさせている理由が全く理解できなかった。


「あっ……」


 だが、何冊目かの記憶の本の一節にシシーなら怒り狂っても仕方ない行動が記憶されていた。


「いや……違うんだシシー。あれは好奇心と言うか興味と言うか、とにかく悪気あってしたことじゃなくてだな……」


「悪気があったらあんたを絞め殺してわよ!」


 和んでいた雰囲気から一変して、突如怒りだしたシシーは握られていた腕を振りほどくと、トレイルの頬をこれでもかと抓りだした。

 トレイルが記憶の本棚から読み取ったのはあの夕刻でのシシーに対する行為。あの時トレイルは薪に火を熾すために火の魔法の詠唱を行っていたシシーを見つめ、『つい』唇をつまんでしまった。


「すまん! いや、申し訳ございませんでした! 全部、このトレイルの責任です!」


「当たり前よ! アレがあたしの責任なわけないでしょ。それよりも、なんであんたはあんなことをしたの?」


「なんで、と言われても、あの時のお前に見惚れたからとしか言いようが……」


 赤く紅潮していた頬がさらに紅蓮に染まると、堪らず目線を逸らしながらもトレイルを睨み続けた。


「そ……それだけの理由で、あんたはあたしにキ、キ……キスをしたのね?」


「………………は?」


 時間がトレイルを置き去りにした。理解しがたい単語が耳に入り、脳に届き、単語の意味を解読するのにゆうに十秒は掛かり、こぼれた答えに意味はなかった。


「……え?」


 シシーの問い返しもトレイルと大差ないほどに意味はなく、結果、二人は混乱の渦に飲み込まれた。


「と……とりあえず確認しよう。俺はお前の唇を奪ったってことか?」


 赤面とした顔を何度も頷かせるシシー。


「それも、俺の唇でか?」


 今度は頷く代わりに頬を抓る指が強くなる。


「なるほどな……」


 頬の痛みを無視しながらトレイルは考えに考え抜いた。

 シシーの住んでいる村では指で唇に触れるだけで接吻せっぷんとして扱われるのだろうか? いや、違う。さきほどの質問が唇同士の行為であると物語っている。

 ならば、勘違い? シシーはトレイルの指を唇と勘違いしたのだろうか? 普通ならばありえないが……。


「……あ」


 そこまで考え抜き、トレイルは思い出した。もちろん自分がシシーの唇を自分の唇で奪ったと言う事実ではなく、シシーの唇に指で触れてしまった時に、シシーがまぶたを閉じていたことに。


「ハ……ハハ」


 初めに失笑が零れ、遅れてやってきた爆笑が泉の周りにまでとどろいた。


「シシー。それは違う。お前は勘違いをしてるだけだ」


「勘違い?」


 抓っていた頬を引っ張ったり回したりしながらシシーは聞いた。


「ああ、あれは俺の指だ。多分目を閉じてたからお前はキスされた。と錯覚したんだろう」


 止めない笑い声を抑えるようにシシーが両腕をトレイルの頬から首元まで移動させると、さすがのトレイルも喉から湧き出る笑い声を抑え、赤く充血した頬を引きらせた。


「ああ、もう!」


 トレイルの首根っこを鷲掴みにしていた両腕はすぐに離れ、そのままシシー自身の顔を覆った。


「馬鹿じゃない……あたし」


 覆いつくした掌から漏れ出た言葉を聞き、トレイルは出来る限りの気を使った。


「泉の水で頭でも冷やすか?」


 つもりだった……。

 二日ぶりにシシーから本気の拳を頂戴したトレイルは、人肌の温もりと全身を駆け巡る寒気と共に気を失った。

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