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第37話 尽きる音

「なに、この水?」


「多分、白水はくすいだ」


「ええ!?白い魔法はその属性の魔法に清く念じてできるんじゃないの?」


 的確な質問に対し、曖昧な答えしか用意できないトレイル。


「そうだな、だが例外もあるかもしれないだろ。それに白水は白火なんかと同じで触れたときの感触が全くないんだ。それを踏まえればこの水が白水である可能性は充分にあるだろ?」


 全てが納得出来るほど確信的な答えではなかったが、この川の水が白水であるという事実がわかっただけでシシーは一つの可能性を閃いていた。


「なるほどね…それじゃあ!この小川の水であんたの背中を洗えば…」


「いや、それは無理だ。この川の水に白水の成分は少ししか含まれていない。お前が白水を飲んだ時、冷たさだけは感じただろ?本当の白水ならそれすらない」


 興味深そうに何度も頷くシシーだったが、やがて自分は可能性だけで白水を飲まされたことを思い出し、目を細めさせてトレイルを睨んだ。


「それはそうとあんた、なんで可能性だけであたしに白水を飲ませたのかしら?」


 強く握りしめた拳を開き、トレイルの頬をつねるシシー。トレイルは抓られているにも関わらず、愉快そうに笑っていた。


「白水を飲むと汚れた精神が少しだけ浄化されるって聞いたことがあってな、物は試しにと実行したんだ」


「へぇ…噂だけで女の子に無理やり白い水を飲ませたんだ、あんた…」


「待った、その表現の仕方では誤解をまね…」


「うるさい!この変態解呪師」


 両手でこれでもかと頬を引っ張ると、さすがのトレイルも我慢できなくなったのか腕をバタバタを振り回し、降参の合図を送った。


「いてて…頬が千切れるとこだったぞ」


「お望みどおりしてあげようかしら?」


 ニッコリとした笑顔の奥からドス黒いなにかが漏れ出ていた。それをいち早く察知したトレイルはシシーの提案を丁重に断った。


「なんだかんだ言って、白水を飲むと精神が浄化されるって噂も案外間違いでもないみたいだな」


「それって…あたしの普通はあんたの頬を抓ってる時だけってことじゃないわよね?」


「惜しいな、だけど違う。さっきまでのへこんでたお前だったら俺の頬を抓ったりしないよな?だけど白水を飲んだお前は抓った。いつも調子で」


 頬をさすりながらニッと笑うトレイル。

 悔しくも、トレイルの推理は的を得ていた。白水を飲んでから…あるいは黒火と白水の説明が終わった辺りからシシーの心は少しずつ落ち着き始めていた。だからといって、清い心で唱えることができる状態であるかと言うと、そうでもないのだが。


「いつもって…そんなに抓ってたかしら?あたし…」


 指を折り、トレイルの頬を抓った回数を必死に数えていると、そのトレイルが立ち上がり静かに腕を伸ばした。


「シシー、そろそろ戻らないか?アルゴルンとワーズが腹を空かせて待ってるはずだ。もっとも一番腹が減っているのは俺なんだけどな」


 絶えることのないトレイルの頬笑み。

 それを何度も見てきたシシーにとって、今さら微笑みながら手を差し出されたところでなんとも思わない。

 心ではそう呟くものの、身体の方は反抗的なまでに微笑み返し、トレイルが差し出した手を掴もうとしていた。

 だがそれは、思いもよらぬ来客によって阻まれた。


「ッヅ!?」


 ドゴッという打撲音が鳴り、トレイルの差し出した右手の甲から赤い血がにじみ出る。


「誰だ…こんな素敵なタイミングで登場する奴は…」


 現れたのはオークだった。苔のような深い緑色の肌に豚のように醜く潰れた鼻、大人の腰ほどしかない小柄な体型。右手にこん棒、左手には先ほど投げつけてきた小石を大量に握っていた。

 オークは息を荒げると左手に握っていた小石を大量に投げつけながらトレイルたち目掛け突進してきた。

 利き腕を封じられたトレイルは左手で握った杖を操り、なんとか小石を防ぐ。続くこん棒による接近戦も左腕でなんとか持ちこたえるが、小柄な体型のオークに力負けし、こん棒で殴られそうになる。紙一重でこん棒をかわすが、戦況はかんばしくなかった。


「クソ…見栄なんか張らずに左手をだしておけば…」


 トレイルはシシーに手を差し出す前、コッソリと杖の握る手を右手から左手に変えていた。その結果はオーク一体如きに遅れを取るとは。


「トレイル!あたしが魔法で…」


「ダメだ!」


 それ以上は言わなかった。正確にはそれ以上、長々と説明する暇がなかったからだ。

 再度、オークの振りかざしたこん棒がトレイルをかすめそうになり、聞き手を封じられたトレイルはそれを受け止め、つば競り合いになってしまった。


「………」


 水辺から避難していたシシーは、トレイルの言葉など無視し、魔法の詠唱を始めていた。

 仮に黒い魔法が辺り一面を襲うことになったとしても、トレイルを救うことができればそれで充分だ。そう思ったからだ。だが、オークも自分に迫る危機を感じ取ったのか、トレイルとの鍔競り合いを即座に止め、シシー目掛け小石を投げつけた。


「ッツ!」


 オークの投げた小石は見事なまでにシシーの腹部に激突し、シシーは小さな悲鳴を上げた。

 小石をぶつけられた箇所がズキズキと痛む。だがその痛みはトレイルが受けた痛みに比べれば小さなものだろう。

 オークの意識がシシーへ向かってる隙に、トレイルは渾身の力を片腕に込めて杖を振りかざした。杖はオークの後頭部に直撃し、鈍痛とともにオークは小川へと顔を沈めた。


「大丈夫かシシー?だから魔法は止めろって言っただろ、オークはずる賢い。時間の掛かる詠唱なんて妨害されるに決まってるだろ」


 小川から上がり、シシーへ向かっていたトレイルは呆れ顔で言った。


「う…だけどオークは倒せたんだし、結果オーライってことには…」


 しきりに怪我をした腕の甲に息を吹きかけていたトレイルは横目で倒れているオークを覗くと、ため息交じりに言った。


「ならんな。なにしろオークの奴はまだ死んでないんだから」


 ムクリと起き上がったオークは怒り狂うように雄叫びを上げると、小石を全て放り捨てトレイルを睨みつけた。


「なんで息の根を止めなかったのよ!それぐらいあんたにも出来たでしょ!?」


「いやー、気絶ぐらいしてくれたかと思って、つい放置しちまった」


 後ろ髪を掻きながら言い訳を口にするトレイル。そんなトレイルの後頭部を、シシーは容赦なく叩いた。


「まったく…あんたも人のことをどうこう言える立場じゃないわね。トレイル!こいつの弱点とか倒し方とか知らないの?」


 返答が返ってくる前に突進してきたオークに応戦していたトレイルは適当に答えた。


「気合!」


 呆れて言葉も出なかったシシーは、もう一度オークから距離を取った。

 小石を手にしていない今なら魔法が通りかもしれない。そう考えたがシシーだったが、一度喰らった痛みが沸々とよみがえり、決断を鈍らせた。

 そうこうしているうちに、トレイルは二度三度、こん棒による打撃を頂戴していた。急所にこそ当たってはいないが、重い鈍痛を喰らうたびに形勢が不利になっていく。

 怒り狂ったオークの一撃に、トレイルは対処しきれていなかった。鍔競り合いに持ち込んだところで結果はオークが押し勝ち、杖でキレイに受け流そうとしても型が崩される。

 正直、シシーの魔法による援護はいつでも歓迎できる状態だった。だが、このタイミングでシシーが魔法を放つことだけはトレイルにとって止めなければならなかった。

 万が一にも黒い魔法が姿を現すことになれば、それだけでこのんだ小川は汚水に変貌へんぼうしたり、辺りに木々が腐食する可能性が充分にあるからだ。

 それでもシシーは魔法を唱えようと気を静めていた。

 ここでトレイルの身になにかあれば、シシーにとってもアルゴルンにとっても喜ばしいはずがない。ただ解呪がしてもらえなくなるだけではない。一人の友としてだ。

 今度ばかりはオークに勘付くかれることはなかった。怒りで我を忘れ、トレイル以外など気にも留めていないかったからだ。

 トレイルはと言うと、シシーの軽率な行動にすぐさま気付いたが、あいにくオークとの戦闘に手一杯だったため、口を開く暇すらなかった。

 内心では怒号を上げてシシーを止めようとしたのだが、身体の方がそれを許さなかった。その上、一度シシーに押され、背中を小川に浸した時から和らいでいた背中の痛みが、再びうずき出していた。

 小川の水…白水に浸けていたおかげで一時的に和らいでいた傷が完全に開ききれば、トレイルに勝機はないだろう。

 アルゴルンがこの場にいてくれれば…。

 頭の片隅にそんな考えが過らせていると、オークの力を込めた横振りに対しての反応が遅れてしまった。


ガキン!


 反射的に突き出した杖がオークの一振りで弾き飛ばされると、杖は宙に飛び、やがてシシーの足元に落ちた。

 目を閉じて詠唱を行っていたシシーが驚きながら片目を開けると、目の前に落ちているのがトレイルの杖であると瞬時に理解し、慌てて拾った。

 両手で杖を大事そうに握りながらシシーは前を見ると、想像通りの最悪な光景が広がっていた。杖を失い、今にも止めを刺されそうなトレイルと、それを実行しようとするオーク。

 シシーの脳裏には、一つの最悪な結末が浮かんだ。

 トレイルがオークに殺される…。

 想像は今まさに現実のものとなろうとしていた。頭上高く掲げられたこん棒が一撃、振り下される。トレイルは怪我をしている右腕でこん棒を防ぐも、腕の骨がへし折れんばかりの鋭い痛みに襲われ、伸ばした腕が引っ込む。

 二撃目の前準備としてこん棒を大きく振りあげると、オークは勝ち誇ったように高らかと雄叫びをあげた。

 牛の鳴き声をさらに低くしたような雄叫びは十秒以上の時間、森中を駆けまわった。

 その隙を突くようにシシーが手にした杖を投げつけたが、オークはそんな苦し紛れの攻撃を叩き落とすと、今度こそ止めを刺そうとトレイルの頭部目掛けてこん棒を振り下した。


「トレイル!」


グシャリ…


辺りにリンゴを叩きつぶし、中身が飛び出るような不快な音が響いた…。

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